第十六話 ヴォラ外伝
私の名前はヴォラ。
私は、人類最大の王国にして文明の中心――ヘヴリー王国で生まれた。
外から見れば、この国はまるで理想郷だった。雲を貫くほど高くそびえる石の塔。各地を守護する優秀な魔導師たち。そして何不自由なく暮らす貴族たち。
けれど――
その輝きは、頂点に立つ者だけのものだった。
私たちのような貧しい民にとって、ヘヴリー王国は決して優しい場所ではない。文明の中心であるがゆえに、貴族と平民の間には深い溝が存在していた。
身分がすべてを決める。
貧しい者は見下され、踏みにじられ、人間としてすら扱われない。
それが、私の日常だった。
ある日の昼。
私は、最近増え続けているアベラントの襲撃について書かれた新聞を抱え、街を歩いていた。
好きで売っているわけじゃない。
家族が生きるためだ。
父は足を悪くして働けず、母も長い病で寝たきりになっていた。
だから働けるのは私だけだった。
他に選択肢なんてなかった。
太陽が真上に昇った頃、私は路地の脇に腰を下ろし、買い手を待っていた。
その時だった。
王国の役人の子どもたちが、私の前にやって来た。
何の前触れもなく、一人の少年が私の積み上げた新聞を蹴り飛ばす。
紙束は宙を舞い、地面へ散らばった。
「おい、貧乏女。何売ってるんだ?」
少年は新聞を抱え上げ、嘲るように笑う。
胸が強く締めつけられた。
私は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「お願い……邪魔しないで……。これを売らないと、ご飯が食べられないの……」
震える声だった。
けれど――
誰一人として耳を貸してくれない。
むしろ笑い声はさらに大きくなった。
「新聞を食べるのか?」
少年は仲間たちを振り返る。
全員が意地の悪い笑みを浮かべていた。
そして一枚の新聞を私の口元へ押しつける。
「ほら、食えよ」
笑い声が響いた。
「貧乏人は景色を悪くするだけだな」
乱暴に押しつけられた新聞が顔に当たり、頭が後ろへ弾かれる。
彼らはそのまま去っていった。
笑いながら。
私の尊厳を踏みにじりながら。
そして、破り捨てられた新聞だけを残して。
私は震える手で散らばった紙を拾い集めた。
胸が苦しい。
息ができないほど苦しい。
怒りは胸の奥で炎のように燃え上がっていた。
だけど私は何もできない。
家族を養うことすらやっとの、ただの貧しい少女だから。
もし――
もし私がアベラントを呼び出せたなら。
もし彼らが私の声に従うなら。
私はあいつらを壊していた。
すべてを奪い返していた。
けれど、それは叶わない夢だ。
私は魔導師じゃない。
貴族でもない。
お金も力も才能も持たない、ただの貧民の娘。
その現実は、空腹よりもずっと痛かった。
やがて太陽が王国の壁の向こうへ沈み始めた頃、ようやく何人かが新聞を買ってくれた。
手のひらの上で小さな硬貨が静かに鳴る。
私は一枚ずつ数え、小さく笑った。
よかった……
これだけでは一食分しか買えない。
それでも、今夜だけは父さんと母さんを空腹のまま眠らせずに済む。
私は急いで屋台へ向かい、温かな食事を一つだけ買った。
炊きたての匂いが鼻をくすぐる。
その瞬間、空腹で胃が強く縮んだ。
ぐぅ……
自分のお腹の音がはっきり聞こえた。
私は思わず唾を飲み込む。
でも、小さく首を振った。
これは私のものじゃない。
父さんと母さんのものだ。
古びた家に帰り、軋む木の扉をゆっくり開ける。
「ただいま……」
狭い部屋に声が響いた。
父と母が同時に振り向く。
食べ物を見た二人は微笑んだ。
けれどその笑みには、深い罪悪感が滲んでいた。
――ごめんな。
――もっといい人生を与えられなくて。
そんな声が聞こえてくるようだった。
胸がまた苦しくなる。
私は必死に笑顔を作った。
「父さん、母さん。ご飯を持ってきたよ。でも一つしかないから、二人で分けてね」
二人は顔を見合わせた。
そして母が優しく尋ねる。
「ヴォラは?」
その一言に、呼吸が止まりそうになった。
お腹は痛い。
昼から何も食べていない。
空腹は内臓を噛み砕くようだった。
だけど私は若い。
まだ耐えられる。
父さんと母さんは違う。
日に日に弱っていく二人の方がずっと辛い。
私は笑った。
痛いくらいに。
「大丈夫。もう食べたから」
嘘だった。
どうか信じてほしかった。
二人がようやく食事に手を伸ばした時、不思議と私の空腹は少しだけ薄れた。
きっと――
自分が食べるよりも、大切な人が食べてくれる方が幸せだったから。
夜は更けていく。
私は自分の部屋へ戻った。
いや。
あれを部屋と呼ぶのは間違っている。
家の隅に敷かれた、擦り切れた薄い敷物。
柔らかいベッドで眠ったことなんて一度もない。
私は横になり、膝を抱えて体を丸める。
少しでも空腹を紛らわせたかった。
けれど――
お腹は鳴り続ける。
胃の奥が何度も捻られる。
私は強く目を閉じた。
眠ろう。
眠ってしまえば、この苦しみも消えるかもしれない。
いつもそう願っていた。
だが意識が落ちる直前――
閉じた瞼の奥から、温かい涙が静かに流れ落ちた。
声もない。
嗚咽もない。
その夜、私の隣にいたのは静寂だけだった。
◇◇◇
翌朝。
いつものようにサイおじさんが新聞を渡してくれた。
「売り上げは全部お前のものだ」
その言葉だけで、私はまだ世界に優しい人がいるのだと思えた。
その日、私は王国の外門近くで新聞を売ることにした。
商人や旅人が行き交う場所。
人類圏の外側に近いとはいえ、王国の魔導師たちが守っているため安全だった。
門の近くには小さな公園もあった。
子どもたちが芝生を走り回り、笑い声を響かせている。
親たちはベンチに座り、その姿を優しく見守っていた。
私は地面に座り込み、膝を抱える。
新聞は隣に置いたまま。
黙って、その光景を眺めていた。
笑い合う子どもたち。
追いかけ合う子どもたち。
手を取り合う子どもたち。
私は――
友達と遊ぶということを知らなかった。
私たちは同じ年頃なのに。
なのに人生は、空と奈落ほど違っていた。
胸が締めつけられる。
見えない手が心臓を握り潰しているみたいだった。
その時。
突然、声が聞こえた。
「おい、紫髪の子! こっち来いよ、一緒に遊ぼう!」
私は顔を上げる。
私を……誘ってる?
信じられなかった。
自然と笑みが浮かぶ。
温かい。
嬉しい。
もしかしたら――
誰かに遊びへ誘われたのは、これが初めてだった。
私は新聞を置いたまま駆け出した。
けれど。
次の瞬間――
ドンッ!
強い衝撃が体にぶつかり、私は地面へ倒れ込む。
周囲から笑い声が上がった。
「ははは! お前が俺たちと遊べると思ったのか?」
「貧乏人のくせに夢見てるんじゃねえよ」
誰かが私の髪を乱暴に引っ張る。
激痛が頭皮を走った。
涙が滲む。
その時だった。
「おい! 何やってるんだ! 女の子をいじめるなんて最低だぞ!」
公園中に響く声。
私も、彼らも振り返る。
そこには一人の少年が立っていた。
年は私と同じくらい。
風に揺れる髪。
そして真っ直ぐな青い瞳。
恐れなど一切なかった。
「へえ? お前、ヒーローにでもなりたいのか?」
少年が笑う。
「見ろよ、この貧乏男。死にたいのか?」
少年の瞳が鋭く細められた。
「……クズが」
その一言の直後。
彼の体が弾けるように動いた。
バキッ!
蹴りが髪を掴んでいた腕を打ち抜く。
拘束が外れる。
さらに体を捻り――
ドガッ!!
鋭い回し蹴りが別の少年の胸を捉えた。
体が数メートル吹き飛ぶ。
土煙が舞った。
公園が静まり返る。
誰も声を出せない。
「て、てめぇ!」
「あいつが怪我したじゃないか!」
彼らは慌てて仲間を起こした。
自分たちが先に私をいじめていたのに。
今度は被害者のふりをする。
やがて大人の足音が近づいてきた。
怒りに顔を赤くした男だった。
泣いている息子を抱きしめる。
「父さん……こいつに殴られた!」
少年が私を助けてくれた彼を指差す。
男の目が険しくなる。
「おい! よくも息子を殴ったな! お前は誰だ!」
少年は真っ直ぐ立っていた。
小さな体。
だがその目は揺らがない。
「すみません。でもあなたの息子さんが、この子をいじめていました」
落ち着いた声だった。
「叱るべきなのは、息子さんの方です」
パァンッ!!
平手打ちが頬を打つ。
少年の頭が横へ弾かれ、地面へ倒れ込んだ。
私は息を呑む。
胸が痛い。
どうして。
どうして助けてくれた人が傷つかなきゃいけないの?
私は慌てて駆け寄った。
「大丈夫……?」
「ガキのくせに大人に口答えするな!」
男の怒声が響く。
後ろでは、私をいじめていた子どもたちが笑っていた。
「貧乏人同士だな」
その笑いは、私たちの苦しみを楽しんでいるようだった。
やがて男たちは去っていく。
最後に子どもが舌を出し、私たちを嘲笑った。
静寂。
少年は立ち上がり、服の埃を払う。
まるで平手打ちなど大したことではないかのように。
私の手だけが震えていた。
もし。
もし彼が助けてくれなかったら。
こんな目に遭わなかったのに。
「……助けてくれて、ありがとう」
かすれた声。
顔を上げられない。
彼は少し私を見つめて――
優しく笑った。
「そんなこと気にするなよ」
私は黙った。
その青い瞳を見つめた瞬間。
胸の中にあった恐怖が少しずつ溶けていく。
温かい。
優しい。
まるで――
もう一人じゃないと教えてくれているみたいだった。
気づけば頬が熱い。
初めてだった。
誰かが本当に私を気にかけてくれるなんて。
「こういうのってさ、助け合うのが当たり前だろ?」
彼は笑う。
その笑顔は、とても普通だった。
だけど、凍りついていた私の心を温めるには十分だった。
「君の名前は?」
「……ヴォラ」
恥ずかしくて俯いたまま答える。
「ヴォラか。いい名前だな」
彼は手を差し出した。
「俺はリュウ・セレスティア。よろしく」
私はその手を見つめる。
こんなふうに手を差し伸べられたことなんて、一度もなかった。
ゆっくりと手を伸ばす。
怖い。
緊張する。
でも――
私は彼の手を握った。
温かい。
とても温かい。
その瞬間、傷だらけだった心が少しだけ軽くなった気がした。
私は小さく頷く。
そして初めて。
無理に作った笑顔ではなく。
本当に幸せだから笑えた。
あの日から――
私の人生は少しずつ変わり始めた。
リュウはいつも私の隣にいた。
二人で新聞を売り歩き。
どちらかが先に終われば手伝い合い。
公園の木陰で安いパンを分け合った。
決して十分な食事ではない。
それでも一緒に食べるだけで、どんな高価な料理よりも美味しかった。
気づけば、笑うことが当たり前になっていた。
偽りの笑顔ではない。
心からの笑顔。
私は信じ始めていた。
どれだけ世界が残酷でも。
私には寄りかかれる誰かがいるのだと。
しかし――
その幸せは長く続かなかった。
ある日。
国王マーリンの娘である王女が私たちの前に現れた。
その日から、すべてが変わり始める。
リュウは少しずつ変わっていった。
王女と過ごす時間が増えた。
私に会う回数が減った。
話しかけてくれなくなった。
そして――
離れていった。
最初は自分に言い聞かせた。
忙しいだけ。
明日になれば元に戻る。
そう信じた。
けれど日々は過ぎていく。
私は遠くから見つめることしかできなかった。
リュウが王女と笑う姿を。
並んで歩く姿を。
何も苦労せず、すべてを手に入れる彼女の姿を。
私は生きるために必死だったのに。
胸の中で何かが育っていく。
熱い。
苦しい。
黒く濁った感情。
嫉妬。
私は彼女を憎んだ。
空と地ほど違う存在であることを憎んだ。
リュウの隣で笑う彼女を見るたび。
無数の針が心臓を刺しているようだった。
目を逸らしたい。
でも、目は彼らを追ってしまう。
その夜。
私は初めて一人で帰った。
いつも隣にいたリュウはいない。
聞こえるのは自分の足音だけ。
夜風は冷たい。
静かな道を歩き続ける。
胸の苦しさを誤魔化しながら。
やがて家が見えた時――
私の足が止まった。
目が見開かれる。
体が凍りついた。
家が――
燃えていた。
赤い炎が木造の家を飲み込み、黒煙が夜空へ立ち昇る。
熱気がここまで届いていた。
嘘……
父さん……
母さん……
心臓が止まった。
「……父さん?」
震える声。
気づけば私は走っていた。
「父さん!! 母さん!!」
燃え残る瓦礫の中へ飛び込む。
焦げた木の臭い。
煙。
苦しい。
そして。
私は見つけてしまった。
父と母を。
動かない。
焼け焦げ。
黒く変わり果てた姿。
もう二度と私を抱きしめてくれない姿。
その瞬間。
私の世界は崩壊した。
空が砕け。
その破片が全身へ降り注いだようだった。
呼吸ができない。
心臓が潰される。
涙が止まらない。
どれだけ拭っても。
視界はぼやけ続ける。
「父さぁぁん!! 母さぁぁん!!」
絶叫が夜空を裂いた。
悲しくて。
苦しくて。
どうしようもなく。
けれど――
誰も来ない。
誰も慰めてくれない。
誰も気にしてくれない。
私の叫びに応えたのは、燃え残る火の音だけだった。
その時、私は理解した。
この王国は――
私たちのような人間のための場所ではない。
人類を守ると謳うこの国で。
貧しい者の命は、風に舞う灰ほどの価値もない。
私はゆっくりと拳を握る。
爪が掌に食い込む。
温かな血が指の間から流れ落ちた。
でも痛みは感じない。
体を満たしていたのは、ただ一つ。
憎しみ。
世界そのものを呑み込んでしまいそうなほど巨大な憎悪。
燃え続ける家を見つめながら。
私は低く呟いた。
「……みんな、壊してやる」
その誓いは、私の心の奥底に深く刻まれた。
そして――
焼け跡のそばに残された、小さな足跡へ視線が落ちた時。
私は理解した。
この夜こそが。
私という存在が変わり始める、最初の夜だった。
「この物語をここまで続けてこられたのは、ひとえに皆さんの応援のおかげです。もし各話を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと評価をお願いします。こうした皆さんのあたたかいサポートが、次のお話を書くための大きな励みになります。この物語の旅路に寄り添ってくださり、本当にありがとうございます!」




