第一章 第十四部 ―― ロスト・リアリティ次元(11)
世界が崩れ落ちようとしているというのに、Voraの瞳の中だけは、時間がゆっくりと引き延ばされていた。
細くなった彼女の視線の先で、広大な大地に広がる光景は、まるで速度を失った映画のフィルムのように映し出される。
一方には、SS級Aberrant。
紫色の甲殻を纏った肉塊の巨人が、巨大な鎌を携え、隕石のような勢いで大地を蹂躙していた。踏み出すたびに地面が震え、破壊の波が広がっていく。
その標的は明白だった。
Elysiaの動かぬ身体の傍らで膝をついている、一人の少女。
少女の瞳は虚ろだった。
死が迫っていることを理解しながらも、その魂はすでに諦めの淵へ沈んでいる。
Satoおじさんが必死に駆け寄り、その少女を抱き寄せようとしていた。恐怖によって歪んだ顔で、崩壊の軌道から引き離そうとしている。
そして、その怪物と少女の間に立つ者――
Ryu Celestia。
彼の足取りは重く、全身は傷だらけだった。
額から血が流れ落ち、身体は今にも崩れそうなほど揺れている。
先ほどのような異常な速度はない。
ただ残された力だけで前へ進んでいた。
手には武器もない。
暴走していたときに握っていたあの紫の大鎌は、意識の回復とともに消え去っていた。
その姿を見た瞬間、Voraの心臓が止まりかけた。
――Ryu……意識を取り戻したの?
その事実は、巨大な槌のように彼女の胸を打ち砕いた。
瞳孔が震える。
脳裏に、遠い記憶が次々と蘇る。
かつて、自分の弱々しい手を優しく握ってくれたRyuの手。
自分を救ってくれた時の、あの優しい笑顔。
かつて確かに存在していた温もり。
それらはいつしか、歪んだ執着の奥底へ押し込められていたものだった。
「……いや……そんな……」
Voraは頭を抱え、自らの髪を掴んだ。
「もし今のRyuが……あの状態で、自分を犠牲にしてみんなを守ろうとしているのなら……」
彼は死ぬ。
間違いなく。
あの怪物に慈悲など存在しない。
失われた意識が生み出した紫の力がなければ、今のRyuは紙切れ同然だった。
Voraは激しく首を振った。
見たくない未来を振り払うように。
「いやっ……いやぁっ! 私は……私のせいで、あの人が死ぬところを見なきゃいけないの……!?」
震える手を見つめる。
その瞬間。
長い間、彼女の心を覆っていた闇に、一筋の亀裂が走った。
胸が痛い。
苦しい。
それはもう執着ではなかった。
純粋な喪失への恐怖だった。
――これが私の愛し方だったの?
――彼が大切にするものを壊して。
――最後には彼自身まで壊して。
――それが、本当に愛だったの?
Voraの瞳に涙が浮かぶ。
恐怖が、ようやく執着を溶かした。
彼女の魂の奥底から、たった一つの答えが浮かび上がる。
――私は、Ryuに死んでほしくない。
絶対に。
その時、Voraはようやく気づいた。
自分がどれほど取り返しのつかない過ちを犯していたのかを。
「そう……私は……こんなことをするべきじゃなかった……!」
蒼白になった顔を上げる。
「今すぐ……止めないと……!」
残された魔力を集中させる。
彼女は怪物へ向かって叫んだ。
「Aberrant!! 止まりなさいッ!!」
涙交じりの叫びが大気を切り裂く。
それは本来、絶対命令であるはずだった。
だが――
怪物は止まらない。
むしろ鎌の速度はさらに増し、死の風切り音が響き渡る。
Voraの顔から血の気が引いた。
「な、なんで……?」
声が震える。
「どうして……私の命令が……。まさか……制御を……奪われた……?」
彼女の世界が再び揺らぐ。
答えを求めて周囲を見回した時。
枯れた森の奥。
一本の木にもたれ掛かる人影が目に入った。
Velista。
彼女は穏やかに微笑んでいた。
まるで全てを見通していたかのような、滑るような笑み。
Voraの瞳が大きく開かれる。
「Velista……ッ!」
怒りが爆発した。
「やっぱり……全部あなたの仕業だったのね!!」
彼女は理解した。
Aberrantを支配する権限は、すでに奪われていた。
Velistaは最初から全てを計画していたのだ。
Voraの執着さえも利用し。
彼女をただの駒として扱っていた。
「最初から……私を利用するつもりだったのね……!」
歯を食いしばる。
全身が怒りに震える。
Velistaが植え付けた執着。
狂気。
憎悪。
その全てが、この瞬間のための道具だった。
VoraはRyuを見る。
彼はすでに怪物の目前まで辿り着いていた。
弱々しい魔法障壁が、その手の中でかすかに揺れている。
自殺行為だった。
Voraは静かに目を閉じる。
涙が頬を伝う。
負けた。
利用された。
裏切られた。
全てを壊した。
それでも――
最後にやるべきことだけは、もう分かっていた。
「……もう、これしかない。」
震える声。
だが、その瞳だけはかつてないほど澄んでいた。
「最後くらい……あの人を守る。」
彼女は小さく笑う。
「Ryu……あなたが昔くれたあの笑顔への……せめてもの恩返しとして。」
涙は止まらない。
だが、その決意だけは揺るがなかった。
たとえ、それが自分の終わりだとしても。
彼女は不思議なほど穏やかだった。
――――
(Ryu Celestia 一人称視点)
怪物の足音が世界を揺らしていた。
空気そのものが絶望に染まっている。
俺はElysiaの身体に縋りついて泣いている少女の前に立った。
Satoおじさんが必死に叫んでいる。
少女を引き離そうとしている。
だが彼女は動かない。
もう世界が終わってしまったかのような目をしていた。
俺は両腕を広げる。
紫の鎌はない。
黒い力もない。
残された魔力で作った脆い障壁だけ。
今にも消えそうな、頼りない光だった。
怪物が咆哮する。
巨大な鎌が高々と掲げられた。
濃紫の光が刀身に集まり。
即死を約束する死神の刃となる。
勝てない。
そんなことは分かっている。
だが――逃げることだけはできなかった。
俺は目を閉じた。
これで……
終わりなのか。
暗闇の中。
Elysiaの優しい笑顔が浮かんだ。
胸が痛む。
ごめん、Elysia。
君を守れなかった。
そして俺は――みんなも守れない。
鋭い風切り音。
鎌が振り下ろされる音。
俺は衝撃を待った。
永遠の闇を待った。
――ザシュッ。
その音は違った。
俺の障壁が砕ける音ではない。
肉を裂く音だった。
静寂。
世界が息を止める。
痛みが来ない。
あるのは奇妙な静けさだけ。
……俺は、もう死んだのか?
ゆっくりと目を開く。
そして。
心臓が止まりそうになった。
息が詰まる。
瞳が大きく見開かれる。
俺の目の前に立っていたのは。
憎んでいた相手。
Elysiaを奪った女。
Voraだった。
彼女は自らの身体で巨大な鎌を受け止めていた。
強力な魔法障壁はすでに砕け散り。
その破片が、死にゆく花火のように宙を舞っている。
巨大な鎌は彼女の腹部を深々と貫き。
背中まで突き抜けていた。
鮮紅色の血が噴き出す。
紫ではない。
人間の血。
その血が俺の頬を濡らし。
隣の少女の頬を濡らし。
大地を赤く染めた。
Satoおじさんも。
村人たちも。
誰もが言葉を失っていた。
Voraは血を吐く。
全身を震わせながら。
それでも彼女は笑った。
弱々しく。
けれどどこか救われたような笑みだった。
涙に濡れた瞳が、まっすぐ俺を見つめる。
「……ごめんね……Ryu……」
途切れ途切れの声。
口元から血が流れる。
俺は言葉を失った。
何も言えない。
頭が現実を拒絶していた。
「……ごめん……」
彼女はもう一度言う。
涙のような笑い声を漏らしながら。
「私は……ただ……あなたと一緒にいたかっただけなの……」
その瞳は。
昔見たあの優しい目だった。
「でも……私は……執着に……飲まれてしまった……。あなたが……私を愛してくれないことが……苦しくて……」
涙が血と混ざる。
「私は……自分の闇に負けた……。自分の欲望に……」
血が止まらない。
足元に赤い水溜まりが広がっていく。
「私は……ただ……自分を安心させてくれる人の隣に……いたかっただけなの……」
息が浅い。
消えそうな声。
「あなたがEvelynと出会ってから……あなたは少しずつ離れていった……」
「苦しかった……すごく……」
「Evelynが羨ましかった……」
「みんなが憎かった……」
「誰も……私を認めてくれなかったから……」
咳。
血。
それでも彼女は話し続ける。
「私は……ただ……あなたが昔そうしてくれたみたいに……認めてほしかっただけ……」
涙が止まらない。
「Ryu……ごめんなさい……」
「Elysiaを奪ったことも……あなたの全てを壊したことも……」
「でも……信じて……」
「私が黒幕じゃない……」
「私は……Velistaに操られていただけ……」
「あなたが知っていた……あの寂しがり屋の女の子のままだった……」
「利用されて……操られて……」
呼吸が乱れる。
身体が崩れ落ちそうになる。
怪物の鎌だけが彼女を支えていた。
「最後まで……私は利用された……」
「最後まで……誰にも認めてもらえなかった……」
「私は冷酷な悪人として……死んでいく……」
「最後まで……裏切られた……」
その言葉を聞いた瞬間。
胸が痛んだ。
俺はもうVoraを怪物だとは思えなかった。
そこにいたのは。
暗闇の中で泣いている、迷子の少女だった。
もっと早く気づけたのではないか。
そんな後悔が胸を刺す。
「グォォォォォォ!!」
怪物が咆哮する。
鎌を引き抜こうとする。
だがVoraはその刃を両手で掴んだ。
血を流しながら。
残された全ての力を使って。
ただ、俺を守るためだけに。
「Ryu……」
彼女は微笑んだ。
「……本当に……愛していた……」
「気持ち悪い思いを……させていたなら……ごめんね……」
昔と同じ笑顔だった。
「次の人生では……もう会わない方がいいね……」
「あなたの邪魔をしたくないから……」
「ありがとう……」
「私の人生に……いてくれて……」
瞳の光が消え始める。
それでも彼女は俺を見続ける。
「……あの短い時間だけは……死んでも忘れない……」
そして。
最後の力で。
最後の言葉を紡いだ。
「Velistaに……気をつけて……」
「四年前のAberrant侵攻……あれを起こしたのは……あの人……」
その言葉を最後に。
Voraの手から力が抜けた。
身体がゆっくりと崩れ落ちる。
大量の血の中へ。
彼女は灰色の空を見つめていた。
自ら作り出した空を。
だがその表情は。
どこか安らかだった。
怪物は乱暴に鎌を引き抜く。
再び血が噴き出す。
その言葉が頭の中で反響する。
Velista。
四年前のAberrant侵攻。
何も分からない。
だが、その名前だけは強く心に刻まれた。
俺は目を閉じる。
涙がこみ上げる。
俺はVoraを憎んでいた。
だが。
こんな結末は望んでいなかった。
そして。
Velistaによる操り。
それは全てを変えてしまった。
その頃。
枯れ木の森の奥。
Velistaは腕を組みながら静かに立っていた。
その悲劇を。
まるで他人事のように見つめている。
「……なんて悲しい結末。」
冷たい声。
だがそこに悲しみはない。
唇に浮かぶのは。
作り物めいた笑み。
「でも、とても美しい。」
「私の道具として命を捧げ……もう一人の私を救うなんて……」
彼女は微笑む。
闇の満足を滲ませながら。
Voraは完璧に役目を果たした。
――もし私が正直に言うなら。
――あの子は悪人じゃない。
Velistaは心の中で呟く。
――ただ、その評判を作ったのは私。
――執着を操るための、完璧な仮面。
「安らかに眠りなさい、Vora。」
風のような声。
「こんなことをしてごめんなさい。」
「でも……あなたには、この世界は優しすぎなかった。」
その笑みが消える。
冷たい表情だけが残る。
「認められたかったあなたへ。」
「最後に一つだけ認めてあげる。」
「あなたは、本当に素晴らしい道具だった。」
Velistaは踵を返した。
そして森の闇へ溶けていく。
使命を終えたかのように。
怪物は再びこちらを向く。
Voraが死んでも何も変わらない。
奴はまだ飢えている。
血に沈むVoraの姿。
悲しみと怒りが胸の中で渦巻く。
だが立ち止まることはできない。
俺は残った魔力で障壁を再構築した。
その時。
怪物は鎌を使わなかった。
一瞬だった。
俺の反応速度を完全に超えて。
巨大な拳が振り抜かれる。
速い。
あまりにも速い。
紫の装甲に覆われた拳が、視界いっぱいに広がる。
その速度によって押し潰された空気の圧力が肌を裂く。
まばたきする時間さえなかった。
「この物語をここまで続けてこられたのは、ひとえに皆さんの応援のおかげです。もし各話を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと評価をお願いします。こうした皆さんのあたたかいサポートが、次のお話を書くための大きな励みになります。この物語の旅路に寄り添ってくださり、本当にありがとうございます!」




