第一章 第十二部――ロスト・リアリティ次元(9)
エリシアの纏う紅いオーラが、ゆっくりとその身体から流れ出していく。
優しく――
けれど、胸を引き裂くほどに痛ましかった。
その赤い輝きは、決して癒えることのない傷口から少しずつ零れ落ちる血のようで、崩壊の中心に浮かぶ紫色のエネルギー球へと静かに吸い寄せられていく。
「ハハハハハハッ!!」
ヴォラの笑い声が鋭く空気を切り裂いた。
耳をつんざくその高笑いに、鼓膜が痛みを訴える。
四方八方で、Aberrantsたちが再び動き始める。
歪んだ脚が地面を引きずるたび、ぞり、ぞり、と不快な音が響き、背筋を冷たいものが這い上がった。血の臭いと腐臭が入り混じり、空気そのものが腐り果てている。
俺の腕の中で、エリシアの身体はますます力を失っていく。
体温が下がっていく。
冷たい。
あまりにも冷たかった。
震える手で、俺は彼女の頭をゆっくりと硬い地面へ横たえる。
少しでも乱暴に触れれば、彼女がそのまま消えてしまう気がした。
胸が張り裂けそうだった。
怒り。
悲しみ。
後悔。
絶望。
あらゆる感情が混ざり合い、もはや何が最も痛いのかすら分からない。
――泣き方を忘れてしまった。
涙なんて小さすぎる。
弱すぎる。
今この瞬間、魂そのものを引き裂いている崩壊を表すには。
俺はゆっくりと立ち上がる。
俯いたまま。
静寂。
「ダーリン……もう、私たち二人だけよ……」
ヴォラの声がすぐ傍で響いた。
彼女はゆっくりとこちらへ歩いてくる。
その足取りは軽やかで、優雅で――
なのに、その一歩ごとに俺の身体は重くなっていく。
息が苦しい。
胸が締め付けられる。
脳裏に浮かぶのはエリシアの姿だった。
俺を守ってくれたこと。
その優しい温もり。
自分の傷を隠し続けたこと。
泣いてもいいはずなのに、いつだって笑っていたこと。
――どうして。
――どうしてお前は、いつも強がってばかりなんだ、エリシア……。
涙が一滴、地面に落ちた。
そしてもう一滴。
さらにもう一滴。
「最後の最後まで……お前は強いふりをするのか……」
掠れた声が漏れる。
迫り来る無数のAberrantsの足音に掻き消されそうだった。
視界が滲む。
世界がゆっくりと遅くなっていく。
音も。
動きも。
舞い上がる砂塵さえ。
まるで時間が止まったかのようだった。
これは涙のせいなのか。
それとも――
俺の意識そのものが、深い闇へ引きずり込まれているのか。
暗い。
どこまでも。
果てしなく――暗い。
――――――
(第三者視点)
リュウ・セレスティアはゆっくりと顔を上げた。
その動きはぎこちなく。
緩慢で。
だが、その一挙手一投足には、時間さえ触れることを拒むような異質さが宿っていた。
彼の瞳。
かつて透き通っていたその瞳は――
今や漆黒へと染まっている。
ただの黒ではない。
世界中の光を呑み込んでしまうかのような、底知れぬ闇。
その目に感情はなかった。
怒りも。
悲しみも。
慈悲も。
ただ虚無だけがあった。
覗き込めば、どこまでも続く奈落へ落ちていきそうな虚無。
ヴォラの足が止まる。
初めてだった。
彼女の絶対的な自信に亀裂が走ったのは。
「ダーリン……? どうしたの……?」
笑顔を浮かべようとする。
だが、その口元は微かに震えていた。
恐怖がゆっくりと彼女の表情を侵食していく。
リュウは答えない。
その意識は――
すでに闇の最深部へ沈んでいた。
次の瞬間――
BOOOOOOM!!
濃密な紫のオーラが全身から爆発した。
無数の毛穴から噴き出した闇のエネルギーは、虚無を喰らう炎のように天へと立ち昇る。
暴風が荒れ狂う。
地面が裂ける。
無数の石片が空へ浮かび上がる。
女性の美貌すら凌駕する端正な顔立ち。
貴族を思わせる気品。
その青年は、完全に感情を失ったまま立っていた。
中央で分かれた黒髪が暴風に舞う。
胸元の星形のペンダントが禍々しい紫光を反射した。
黒いシャツがゆっくりとはためく。
だが――
そこにいるのは、ヴォラの知るリュウではなかった。
彼女の前に立っているのは――
死そのもの。
「これが……ヴェリスタの言っていた……?」
ヴォラが掠れた声で呟く。
笑みは完全に消えていた。
五メートル先。
リュウは微動だにせず立っている。
紫の渦が暴風のように彼を包み込み、まるで世界そのものを呑み込もうとしていた。
――――――
その頃――
この次元の小さな集落では。
子どもたちと少年少女たちが空を見上げていた。
頭上に浮かぶ巨大な赤い月。
だが、彼らは知っている。
あれは月ではない。
現実世界ではすでに太陽が昇っている。
エリシアがリュウと共にこの次元へ入った時、現実ではまだ午前五時だった。
今では太陽が世界を照らしている。
だが、この次元では――
その光が赤い月へと姿を変え、空を覆っていた。
子どもたちはエリシアに教わった植物を育てる小さな畑へと駆け出す。
息を切らしながら。
希望を胸に。
しかし――
その足が止まった。
笑顔が消える。
エリシアがくれた花々が、ゆっくりと枯れていく。
花弁が黒く染まり。
風に吹かれて、一枚、また一枚と散っていった。
「どうして……?」
一人の子どもが震える声で呟く。
「エリシアお姉ちゃんに教わった通りに育てたのに……」
誰も答えられない。
恐怖が静かに彼らの表情を覆っていく。
互いに顔を見合わせ。
そしてサトおじさんを探しに走った。
老人は門の近くに座っていた。
背を丸め。
老いた肩を小さく震わせながら。
「おじさん! どうして花が枯れちゃったの!?」
無邪気な問いかけ。
サトはゆっくりと顔を上げた。
瞳は涙で濡れている。
遠くを見つめるその目には、何も映っていなかった。
「エリシア……」
その声はあまりにも小さい。
まるで魂の一部が失われてしまったかのようだった。
次の瞬間、彼は立ち上がる。
そして何も言わず、森へ向かって走り出した。
「おじさーん!!」
子どもたちの叫び。
だがサトは振り返らない。
それを見ていた住民たちも作業の手を止めた。
胸騒ぎが広がる。
冷や汗が頬を伝う。
「サトさん、どこへ行ったんだ?」
住民の一人が尋ねる。
「わかりません……エリシアお姉ちゃんの花が急に枯れたって話したら、そのまま走っていって……」
少年が戸惑いながら答えた。
誰かが命令したわけではない。
それでも。
集落全体が同じ悲しみの呼び声を聞いたかのようだった。
人々はサトの後を追い、森へ向かって走り出す。
やがて集落には再び静寂が戻った。
あまりにも不気味な静寂が。
――――――
再び次元の中心。
Aberrantsの群れが一斉にリュウへ襲い掛かった。
咆哮が空気を震わせる。
だが――
誰一人として彼に触れる前に。
シュン――
シュン――
シュン――
幾度も風を裂く刃の音が響いた。
速い。
あまりにも速い。
そして美しかった。
ヴォラの目でさえ、その軌跡を追えない。
紫の閃光が四方へ奔る。
理解不能な軌道を描きながら。
次の瞬間。
数百のAberrantsがその場で静止した。
戦場が沈黙する。
そして――
ズバァァァァァァッ!!
肉体が一斉に断ち切られた。
紫色の血とエネルギー粒子が空へ噴き上がる。
リュウはすでに元の場所へ戻っていた。
剣はなお手の中。
瞳は虚ろなまま。
前髪が風に揺れる。
頬に飛び散った紫の血が、瞬時に煙となって消えた。
彼は前へ踏み出す。
一歩。
ただそれだけで大地が震えた。
ヴォラは無意識に後ずさる。
その手が震えていた。
だが――
狂気が再び彼女を支配する。
「アハハハハ! 私を殺せると思ってるの、ダーリン!?」
彼女は背後の紫の球体を指差した。
「あなたを手に入れられないなら……誰にも渡さない!」
「Aberrants――蘇りなさい!!」
BOOOOM!!
大地が激しく揺れた。
振動は森にまで伝わる。
走っていたサトと住民たちは体勢を崩し、次々に地面へ倒れ込んだ。
次元の中心。
エネルギー球の核が、天を貫く紫光を放つ。
巨大な渦が空に生まれた。
空が裂ける。
人間の魂。
Aberrantsのエネルギー。
そして闇の力。
すべてが混ざり合い、一つへと収束していく。
ゆっくりと。
巨大な影が姿を現した。
身長は五メートル近い。
二本の脚。
巨大な両腕。
全身を覆う紫の棘は、生きた鎧のようだった。
頭部には二本の黒い角。
紫の瞳が妖しく輝く。
鋸のような牙が顎から突き出していた。
拳には破壊の気配を纏う鋭い棘。
紫のエネルギーが全身を包み込み、周囲の空間そのものを震わせる。
それは怪物だった。
ただ存在しているだけで、人から希望を奪う怪物。
SランクAberrant。
「殺しなさい。」
ヴォラが冷たく命じる。
リュウ・セレスティアはその怪物を見上げた。
黒い瞳に感情はない。
恐怖も。
迷いも。
まるで目の前の巨躯が、敵として認識する価値すらないかのように。
やがて――
リュウは手にしていた剣を離した。
カラン――
剣が地面へ落ちる。
彼は右手を前へ差し出す。
ゆっくりと指を開いた。
目の前の空気が渦を巻く。
空間そのものが軋み。
裂け始める。
虚無の彼方から――
巨大な鎌が少しずつ姿を現した。
長く湾曲した刃。
漆黒。
刃全体を流れる濃紫のオーラは、まるで生きた血液のようだった。
その武器から放たれる圧力は、戦場のすべてのAberrantsを遥かに凌駕している。
それは単なる武器ではない。
死の象徴。
目の前に立つすべての存在を刈り取るために生み出された――
終焉の大鎌だった。
「この物語をここまで続けてこられたのは、ひとえに皆さんの応援のおかげです。もし各話を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと評価をお願いします。こうした皆さんのあたたかいサポートが、次のお話を書くための大きな励みになります。この物語の旅路に寄り添ってくださり、本当にありがとうございます!」




