第五話 立川君は疑っている(前)
長見藩には四人の家老がいる。榊原、久世、納橋、そして立川。
その立川家の若き当主、御年二十六の立川勘蔵は今とても機嫌が悪かった。
原因はもちろん、新しく長見の藩主になろうという青木知親である。
青木家は長見藩の家臣の中でも末席の下級武士。その次男を次期藩主とする決定に藩が揺らいでいるのは、誰の目にも明らかであった。
勘蔵の知る限り、藩主である日浦明重は人格者で、家臣の意見もよく聞き入れる聡明な人物のはずだ。
それが今回にいたってはまるで理の通らない決定を下すだけではなく、その理由についても何の説明もない。一体どういうことなのか。
さらには、藩のほとんどすべての者がこの決定に否定的な中、一人だけ口を閉ざす者がいた。
それが父であり先代立川家の当主・立川士蔵であることも勘蔵にはなおさら不満であった。
決して驕らずに身分を弁え、常に慎みを持っていた父の姿を勘蔵は尊敬していた。
だからこそ、今の父の姿勢には納得ができない。明重を説得できるのは、乳母兄弟であり隠居後もなお親交の深い士蔵以外にはいないだろう。
「一体何を考えておいでなのですか」と士蔵に尋ねてみたこともあった。しかし、士蔵はいつも「殿のお言葉を信じることも家臣の務めである」と言うばかりで何も教えてはくれない。
これでは私が家督を継いだ意味はどこにあるのか。
そうやって長見藩瑞穂城の一室で、勘蔵は一人思索に耽っていた。
「旦那様、瀬川にございます」
ふと、声と共に障子の向こうの人影が動いた。勘蔵が「入れ」と言うと障子は開く。
姿を現したのは用人の瀬川宗四郎であった。歳が近いこともあり、勘蔵が信を置く者の一人だ。
「申し上げます。青木知親殿が城外に立たれた模様」
「……それがどうした」
まもなく日浦家の養子になるという身で不用意に出歩くのは、避けるべきと言えばそのとおりだ。
が、いちいちの外出ぐらい、報告する程のことでもない。
瀬川は続けた。
「はっ。それが、門番を問いただしましたところ、何でもこれが初めてではないようです。青木殿はこの数日で二、三度、護衛もつけずに城下に出ておられるとか」
「なんだと?」
勘蔵は顔を上げた。
それほど頻繁に、しかも一人で外出するというのは確かに気になる。
………………もしや、
「女か?」
「それは…………まだはっきりとは申し上げられませんが」
「なれば私に報告するよりも先に、後をつけて目的を探らんか。すぐに確かめて参れ!」
「もっ申し訳ございませぬ! 今すぐに!」
廊下の向こうへと消えていく瀬川を見送りながら、勘蔵は頼むから間に合ってくれ、と願った。
これはまたとない機会だ。女でもなんでもいい、何か知親が失脚するような情報をつかむことができれば。そうすれば、まだ殿を説得する余地はある。
青木知親が藩主になることは、長見藩にとって破滅への一歩だ。家督を継いだ意味がないなどと卑屈になっている場合か。
父上に代わって私がこの藩を救うのだ。立川家の当主ならば。
*
「せっかく来てもらったとこ悪いけど、まだ報告できるようなことはねえんだよな。収穫なし」
仄火は、多少知親の顔色を伺いながら言った。
「そうか」
知親は清が出した茶を飲みながら言うが、その声に特に落胆の色は滲まなかった。
第一、青龍のことを依頼されてからまだ二日しか経っていない。最初に知親が仕掛けた偽の依頼を仄火が一日で解決してしまったため、期待するのも無理はないのだが。
そこで仄火は、知親の視線が青い茶碗に向いていることに気がついた。
調査もせずに茶碗を新調していることがばれただろうか。だがそんなものは仄火の勝手であるし、青龍にしても取っかかりがなさすぎるのが悪いのだ。
その茶碗で思い出したわけではないが、仄火は知親に伊波のことを話す。
「一人、情報屋の知り合いがいてな。その男は仲間内での組合を作ってて、そこに近づけば青龍のことも何か分かるかもしれねえ。……ただ、そいつの居場所を知らねえから少し時間がかかるけどな」
「その、情報屋というのはどんな男だ? 私の周りでも、もしかすると知っている者があるやもしれん」
「あー、それは…………」
聞き返されて、仄火は言い淀む。
伊波は、おそらく仄火のような身分の人間ではない。彼の着物の質や所作から、それは仄火も薄々勘づいていた。
ならば知親に探されて、情報屋と関わりがあることを周囲に知られるのはまずいのではないか。
それに伊波なら青龍と日浦家の関係にも気がついて、仄火より先に真相を突き止めてしまうかもしれない。
もしそうなれば………………俺の十両が消える!!
そこまで計算して、仄火は知親に笑いかけた。
「いや、どう見ても武士とは関わり合いのねえやつだ。それにどこにでもいそうな風貌だし、探すのは無理があると思うぜ」
まるで嘘だったが知親は信じたようで、「それなら任せよう」と表情を変えずに言った。
「ところで、お前はどうやってここまで一人で来てんだよ? 仮にも次期藩主様だろ?」
仄火は話を逸らすついでに、気になっていたことを聞いた。すると知親はなぜか一度後ろを振り返り、また向き直る。
「以前調べてもらった、立川士蔵様に協力してもらっている。彼は数少ない味方の一人だ」
立川士蔵。立川家の御隠居で現藩主・日浦明重の乳母兄弟。仄火が知親の偽の依頼で捜索した人物でもある。
「もしかして、青龍についても知ってんのか?」
「ああ。青龍について知っているのは、今のところ殿と士蔵殿、そして私の三人だけだ。私が養子となることが公になったのはここ最近だが、実は四年ほど前から秘密裏に決まっていた。士蔵殿はそれ以来、家老としての務めのかたわら、私に藩政を説いてくださった師でもある」
「へえ。しかしそれなら、なおさら護衛をつけたがりそうなもんだけどな」
「いや、今は藩内の派閥の動向も十分に掴めぬ。下手に護衛をつけるよりも、私一人の方がむしろ安全とお考えなのであろうと……思うのだが…………」
知親は珍しく言葉を濁すと、もう一度後ろを振り返った。
「どうした?」
「今日ここへ来る時、後をつけられた。撒いたのでここまではやって来ていないと思うが」
「は!?」
それはかなり、問題ありではないのか。知親と仄火に関わりがあると知られるのはまずい、特に他の情報屋には。
仄火が表へ飛び出すと、店番をしていた清が何事かという顔で仄火を見上げた。
「おい、怪しいやつを見たり、誰かに何か聞かれたりしなかったか!?」
清の肩を掴んで聞く仄火の剣幕に驚きながらも、清は首を横に振った。
「い、いえ……。誰も来てません。というか、知親様がいらっしゃってからは誰も通りませんでした」
仄火はその場から辺りを見回す。
人の気配は感じられない。ならひとまずは大丈夫か。
すると、後ろから知親が声をかけた。
「そう焦らずとも問題ない」
声に振り返った仄火は、そのまま戸を閉めて知親の前に座る。
「なんでそう言い切れるんだよ」
「つけてきた者の顔を一瞬見たが、あれはおそらく立川家の用人である瀬川宗四郎殿だろう」
「…………それを先に言わねえか!」
思わず声が大きくなった。
用人とは家老など、力のある武士が抱える家臣団の筆頭だ。
「それなら、やっぱり護衛なんじゃねえのか? 撒いたら駄目だろ」
「しかし、護衛ならなぜ隠れる必要がある」
「それは…………命令じゃねえの」
苦しい言い分だ。なぜ士蔵が隠れて護衛するように命じたかなど、理由はまったく説明できない。
知親は仄火の言葉に反論することなく、そのまま話を続けた。
「それに宗四郎殿は、どちらかといえば御子息の勘蔵殿の側近だ」
いやそれは知らねえけど、と心中で呟く仄火をよそに、知親はなおも考えている様子だった。仄火はそっとしておくことにする。
「にしても、勘蔵殿ねえ……」
知親の言葉に出てきた立川勘蔵の名は、カジュギンカで立川家の屋敷を調べていた時に仄火も耳にした。
確か最近機嫌が悪いとか、夜も家に帰らず奥さんを放っておいているだとか……。
「立川勘蔵っていや、あの、夜遊びばかりで奥さんを放りっぱなしだとかいう家老のことだろ」
そう言う仄火に知親は考えるのをやめ、数回瞬きした。
「………………誰のことだ、それは……?」
「え。だから立川士蔵の息子の、立川勘蔵だよ。現当主の!」
「私の知る限り、彼は非常に勤勉で政にも明るく、若いながら他の家老に引けを取らぬほどの才があると聞いている。真面目な方で奥方様との仲も悪いという話は……」
「ああ、そうなの…………」
そういえば家に帰らない、と言うだけで夜遊びとは言ってなかったか、と仄火は思い出す。逆に仕事に精を出しすぎて家に帰れないだけかもしれない。
安易に情報を結びつけるのはよくねえな、という多少の反省の後、仄火は本題に戻ることにした。
「じゃあ勘蔵殿がお前をつけさせてるとして、それに心当たりは?」
「…………おそらく、私の行き先を探っておいでなのだろう。我が藩のことを真剣に考えておられる方ならば、私が藩主となることには当然反対であろうからな」
「…………逆に、お前が藩主になることに反対してる奴はどれくらいいるんだ? さっき青龍のことを知っているのは、藩主と士蔵殿とお前だけって言ってたよな」
「反対しているのは、それ以外の全員だ」
「全員かあ」
確かにそれなら、護衛などつけない方が安全だと士蔵が思うのも分かる気がした。
……にしても、よくもまあそんな状況で平然としていられるものだ。単に感情が表に出ないだけかもしれないが。
仄火はなおも淡々とした様子で茶を飲む目の前の男が、鋭いのか鈍いのかよく分からなくなってきた。




