第四十一話 紫陽花やいつかの誠信じれば(前)
どうして、父を説得できたのか。
藤は山車蔵の天井を見上げながら、一人考えていた。
春日を通じて知親に頼まれたのは、藤の父を説得することだった。久世里進に謂れのない罪で謹慎に処されたこと、久世家の借金のことを。
「紫苑。色々あったけど、きっとこれでよかったのよね」
文机に頬杖をつく藤は、どこか自分に言い聞かせるようである。
無理もない、と紫苑は思う。この短期間で、彼女にはあまりに大きなことが起きすぎた。
「私、藤は何も間違っていないと思うわ」
そう言って彼女の側に寄り添う。
その時、がちゃりと音を立てて山車蔵の戸が開いた。
「あ、来てたんだ」
顔を覗かせたのは春日とヨリメである。藤はぼんやりとした顔をはっとさせて、穏やかに笑った。
「春日。ちょうどよかった、お礼を言おうと思ってたの」
「お礼?」
「そう。貴方は横領には直接関係ないのに、協力してくれて、何度も助けてくれたでしょう。そのおかげで私、正しいと思えるがことできたわ」
春日はその言葉に「えっ」と言葉を詰まらせて、抱えていたヨリメを落としそうになった。ヨリメは春日の着物を掴んでいたので、幸いにもことなきを得る。
服が伸びるのも構わず、春日はしどろもどろに小さく何かを言おうとする。
「……いや、そんな…………。それに最初に、藤が僕を助けてくれたわけだから、その……」
「そういえば伊波知らない? ここにいると思ったんだけど」
春日の声は残念ながら藤には聞こえなかったようで、彼女はすっぱりと話題を変えてしまった。横で紫苑が「藤……」と小さくため息をつく。
春日はヨリメを抱え直して、辺りを見渡した。
「さあ。僕も最近ほとんどここには来ていなかったから。でも仄火とユマ? のところへ行ってから会ってないよ」
「心配なのはそれよ。久世のことで手一杯になっていたけど、もし丸ひと月も帰って来てないとしたら……」
言葉を切った藤に、春日もごくりと息を呑んだ。
それは、つまり…………。
だがその沈黙を破るように、また山車蔵の戸が開く。
姿を見せたのは、まさに噂の人だった。
「…………い…………いた!! いたぞ、静寂!」
「え、本当に!?」
続いて静寂も顔を出す。彼女は山車蔵の中へと割り入ると、藤と春日の肩を抱き寄せた。
「あんたたちどこ行ってたのよ! 私がずっとここで待ってたのに、顔も見せないで!」
「え? 静寂、私たちを待ってたの?」
「そうよ!」
それを聞いて、藤と春日は顔を見合わせる。
静寂がいるということは、つまり……。
「…………あなた、伊波なの?」
藤は戸惑ったようにその人を見た。
いつものこざっぱりとした様子とはまるで違う。髪は結わえられているがぼさぼさであるし、なんだか所々髭も伸びているし……。着物の裾にも泥汚れが目立ち、下駄ではなく草履を履いている。頬の下には墨のような汚れが付いていた。
だがそう思って見れば、顔形は確かに伊波だ。
伊波は藤たちの視線に気がつくと、む、と自身の出立ちに目を配る。
「俺もこのひと月は忙しかったんだよ。……それより、すぐ九葉山へ向かわないと」
「ど、どういうこと?」
「仄火が人質として捕まってる。助けるために藤と春日を探していたんだ」
伊波が焦ったように早口になる一方で、藤と春日は、まさに空いた口が塞がらない。
「……なんでそんなこと、早く言わないのよ! それになんで仄火が人質に……」
「言おうにもそっちがいなかったんだろ! とにかく、詳しいことは行きながら話すよ。静寂!」
伊波が呼ぶと、空間から箱が現れた。「さあ早く、」と乗り込む伊波に、どうもなりふり構っていられない状況のようだと判断した藤もとりあえず箱に乗った。つられて春日も続く。
ばたんと箱が閉じると、暗い空間の中、それは勢いよく九葉山の向こうに向けて動き出した。
*
大木の下で雨を凌ぎながら、仄火とシムア、スイヒャは身を潜めていた。
「……これ、どうするんだよ」
仄火が指すのは、もちろん行く手を遮るトヤクの軍勢のことだ。これではアロに戻れない。
「それに、もう戦が始まるんじゃねえのか?」
スイヒャは仄火の言葉を訳して、シムアに伝えた。だが、シムアは頷くだけだ。戦が始まることは確かなようだが、今からどう動くべきかはまだ答えが出ないらしい。
「お前はどう思うんだ?」
他に当てがないのでスイヒャに聞くと、そちらも考えるように目を伏せる。
「この短い間に、私たち捕まえるための兵とは考えにくいです。シムア様捕らえた今、アロ攻めるための兵でしょう」
俺たちが捕まったのはお前のせいだろうが、と言いたいところだが、ここでそんなことをもめても仕方がない。仄火は口を閉じる。
「……他の道は?」
「探せばあるかもしれませんが……そこもアロに攻撃仕掛けるトヤク軍がいると思います」
どうやら他の道にあてはなさそうであった。するとシムアが、ぼそりと呟く。
「アシハヌギニバ、シバモスニトヤクオアイク」
それを聞いたスイヒャに、息を呑む気配がした。
「何て?」
「……早く離れないと、戦が始まればここにもっと多くのトヤク兵押しかけるでしょう」
「なっ……!」
そうなれば、仄火たちも見つかる可能性が高い。シムアがいるとはいえ多勢に無勢がすぎる。
「逃げなきゃ戦に巻き込まれて死ぬが、逃げる道がねえってか……」
その時、ごおんと大きな音が響き渡った。仄火たちが驚いて顔を上げると、二度、三度と音は繰り返される。
「なんの音だ」
「これは、降伏促す銅鑼の音です。前線のアロの民か、拠点に降伏しろとトヤクは言っているのです」
「……アロが応じなければ?」
「…………戦です」
スイヒャは苦しそうに言った。
……アロは降伏に従うのだろうか。
いや、ハルイが言っていた。トヤクの真の目的はアロの持つ富の簒奪だと。ならば第一戦から降伏すれば、それだけ勝機がなくなる。
ハルイはそれを分かっているはずだ。降伏は、ない。
ではどうする? 戦がもう間もなく始まる。逃げることもできず、ここで死ぬしかないのか?
考えても策が浮かばない。先ほど井戸水を飲んだばかりなのに、喉が張り付くように乾くのを仄火は感じた。
ごおおん。
またしても大きく銅鑼の音が響く。瞬間、何度目かのそれに殴られたかのように、仄火の頭ははっきりとした。
「…………そうか。降伏だ」
呟いた仄火を、スイヒャとシムアが見る。
「仄火さん?」
「トヤク兵を降伏させりゃいい。銅鑼を聞いて、前線にはそのうちアロの軍が来るはずだろ。そいつらと俺たちでこのトヤク兵を挟み撃ちにして、降伏させるんだ」
シムアがスイヒャを見た。彼は戸惑ったようにしながら、仄火の言葉をシムアに伝える。
シムアは数度瞬きした後、仄火を見て何かを言った。
「…………馬鹿なのか、と」
「ああ? お前、『アロの一番槍』のくせに弱気すぎるんじゃねえのか」
スイヒャは、それは伝えなかった。彼もまた、正気かと言うような顔で仄火を見ている。
……まあ今の話だけじゃ、その反応も無理はないか。
仄火はこんな状況だというのに、薄っすらと笑みを浮かべてみせた。
「別に、三人で仕掛けるなんて言ってねえだろ。さすがにもう少し、味方を増やさねえとな」
そう言って上を見上げる。夜になりかけている空が、その瞳には映っていた。




