第四十話 朝焼けて、旱に雨(後)
即座に知信の着物に手がかけられ、あれよあれよという間にえらく上等な着物が肌を滑った。さすが小姓なだけはあって、進太郎の手つきは非常に素早く迷いがない。
「なっ、知親。これは……!」
抗議の意を込めて知親を見ると、そちらは反対に随分と煤けた着物へと着替えている。まるで知信の普段着とそう変わらないような。
……まさか。
知親は先程の手紙を広げ直して、進太郎に言った。
「『身近な人間の非番』もよしとして……。この後は病人のふりをして頭から布団を被り、何か聞かれても鼻を摘んで声をごまかせばいいらしい」
「姫様はあの時、そんな手を使っていらっしゃったのですか……」
呆れたようにしながらも手は止めずに、進太郎は言う。
一方知信は、それが何の話なのかまったく分からない。だが少しずつ、知親の意図は見えてきていた。
「お前まさか、抜け出す気なのか」
「そういうことです。明日には戻りますので、本でも読んでお待ち下さい」
ばさり、と音をたてて布団が敷かれる。
先ほどから、知信にはわけの分からないことばかりだ。第一、弟はこんな性格だっただろうか? 知信の知る限りでは、知親はもっと大人しくて、頑固で、無表情で…………。
だから恐らくは今ここで、「無茶だ」と説得しても聞き入れない。それは確信に近い諦めだった。
だが知信は、部屋を出ようとする知親を引き留める。
「待て知親、」
「ご心配なく、兄上。何かございましたら進太郎に」
「そうではない!」
知信の声に、知親は足をはたと止めた。振り返る顔は驚いている。
それはそうだ。知信だって今日、何度自分の感情に驚いたか分からない。
「今日お前に会いに行くと申したところ、母上から一つ言づてを預かった」
「……母上から?」
瞬間、知親は緊張するのが自分でも分かった。母の桔梗にはもう丸五年会っていない。
だが、知親が藩主になることを桔梗は反対していたのを覚えている。その結果、青木家が被った不名誉をあの厳しく気高い母はどう思っているのだろうか。
なんとなく苦い感情が内に広がった。あまり聞きたくないと、そう思っている。
何も言わずに、知親は待った。上等な着物もよく似合う兄は、その心うちを知ってか知らずか、ただ端的に告げた。
「『お前は昔から私に似て病弱だったから、体にはよく気をつけなさい』、と」
その時知親の頭に蘇ったのは、今と同じ春の日だった。
寝込んでしまって剣の稽古に行けず残念そうにする知親に、母は「武芸だけが武士の心得ではありません」と家にある数少ない書物を読み聞かせたのである。
「それではますます熱が上がりそうだ」と言う父に、母はこう返した。
「この子はただでさえ、あまり寺子屋にも行けていないのですから。私がしてやれるのはこのくらいのものです」
そう言いながらも確かめるように知親の額に手を重ねた、そのひやりとした温度を、今思い出した。
不意に、唇を噛み締めていた。
ずっと知親が抱えていた後ろ暗い気持ちを、なぜこの人たちはこうもすんなりと水に流してしまうのだろう。
知親は笑おうとした。口角は上がらず、側から見ればとても笑っているように見えなかったが。彼は笑って言いたかった。
「私はもう、ここ数年病気一つしておりません。母上にもどうかご自愛なさるよう、お伝え下さい」
そう言って今度こそ、部屋の襖を閉めた。
……さて、行かなければ。
知親は廊下を歩いて人気のない場所を探した。通りすがる人々は、その煤けた着物にまさか知親だとは気がついていない様子だ。
そうしている間にかつての自分の部屋の近くまで来た。その奥の庭は都合よく、まるで閑散としている。
ここに来ると、どうしても江戸に立つ前夜のことを思い出してしまう。知親にとってはあまりいい思い出ではなかった。
目を閉じると、どこからか風が吹くのを感じる。空気が冷えて、辺りは一気に静かになった。
カジュギンカだ。
手にした笠がついと手を離れて、地面に落ちる。それを拾おうとした手が、カアンと打ち合う刀の音に止まった。
…………どうもカジュギンカでの城は物騒なようだ。
拾い上げた笠を深く被り、知親は注意深く歩みを進めた。
「……青龍、なんとか喋ってはくれぬか」
長見に着いてからは、青龍の声を未だ聞いていない。知親のその声も、やはり独り言に終わった。
……これで果たして、「黒い龍」の代わりとなれるのだろうか。
不安になる知親の頬に、水滴がぽつりと落ちる。
見る間にざあざあと雨が降り出した。
*
「あまり美味しくないですが、どうぞ」
スイヒャが差し出したものは、おそらく蒲公英の根である。
一日半食べていないのだ、もはや何でもいいという思いで仄火はそれを受け取って齧る。茹でてはあるようだが、味付けのないそれはやはり美味いものではなく、かえって空腹が顕著になったような気もした。
……たった一日飲まず食わずでこれとは、俺も軟弱になったもんだ。
携帯食なのか、スイヒャも同じものを取り出して齧っていた。それを見ると、彼も中々に過酷な逃亡生活を送っていたようである。
トヤクの兵たちから逃げ出し、馬でアロに向かっていた仄火たちだが、途中に使える井戸があったので小休憩を取っていた。
日はまだ沈んでいないが、空は赤く曇っている。
シムアは馬を降りてからというもの姿が見当たらない。心配することはないと思うが、一応彼女は怪我を負っているわけで……。と、仄火が思う内にシムアが戻ってきた。
ユマの言葉で何かを聞くスイヒャに対して、シムアは無言で傍らの山上を指差し、登っていく。
仄火とスイヒャは顔を見合わせて、後に続いた。
今いる場所も十分高いが、さらに上に登るようだ。なぜ無駄に疲れる必要があるのか、と少々不満に思う仄火の耳に、スイヒャがそっと囁いた。
「人の声、聞こえます」
「え?」
そう言われても仄火には何も聞こえなかったが、耳を澄ますと確かに声がする。
シムアが目前で茂みを分けた。小さく開いた隙間を、仄火たちは覗き込む。
…………声も出なかった。
その方角はちょうど、仄火たちが歩んでいたアロへと向かう道。
その行く手を、何百、何千という軍勢が塞いでいる。
……茂みの葉に、雨の落ちる音がした。




