第四十話 朝焼けて、旱に雨(前)
翌日。
勘蔵は屋敷で一人黙々と筆を動かしていた。手は着実に年貢軽減に向けての草案を綴っていくが、どうも頭が集中できない。
……別に、登城しないこと自体は大して珍しくもない。
しかし納橋が戻るまで、長見にいる家老は勘蔵一人なのだ。その初日に、知親自ら「登城しなくてよい」とは。
「そのように殿が仰られるなど、何か特別なわけがあるに違いない。しかしなぜそれを私に伝えてくださらんのか———と、そんな顔をされておりますね」
まるで勘蔵の心の内を読んだような言葉に振り向くと、予想通り、襖の向こうには志乃が座っていた。
勘蔵は急いで草案を片付ける。
ここは立川家の屋敷でも、奥向きにある勘蔵の部屋だ。別に表で仕事をしてもいいのだが、こればかりは今の時点で「俸禄が減らされる」と大きく噂になっても困る。
まあ別に志乃に知られても問題はないのだが、絶対に大丈夫とも言い切れないのがこの妻の恐ろしいところであった。
だというのに彼女にはつい、昨日知親に言われたことをぼやいてしまった。勘蔵はそれを若干後悔する。
「何か用か」
「きっと昨日のこともあってお疲れでしょうから、甘味をお持ちしたのです。ほら、京の『つぶや』の羊羹にございますよ」
志乃は菓子と湯呑みが乗った盆を持ち上げて笑った。
「なっ……んでお前がそんな女中のような真似をしとるんだ。この家の正室なのだからもっと慎みのある行動を……」
「あら、せっかく人には言えない旦那様の不満を聞いて差し上げようと思いましたのに」
志乃は特に聞く耳を持たずにそのまま部屋に入ってくると、盆の上から湯呑みと皿を置いた。しょうがなく勘蔵はそちらを向く。
羊羹は深く上品な色合いで、所々小豆が透けて見える。甘味などいつぶりに食べるだろうか。
「それで、旦那様は殿がなぜそう仰られたとお思いなのです?」
「それは……」
思うところが、ないわけではない。いつの間にか積み上がっている本と書き付け。知親が久世の件以外にも何かを思案していることは明白である。
ならばなぜ、それを自分に教えようとしないのか……。
そう言いかけて、勘蔵は開いた口に羊羹を放り込んだ。流石は京の菓子なだけあって、非常に美味である。
……危ない、また志乃に余計なことを話してしまうところだった。じろりと勘蔵が見ると、志乃はそれを察したのか残念そうに目を閉じる。
「……殿は、旦那様の身を案じておられるのでは? このひと月、私もいつお休みになられているのかと思っておりましたもの。特に今日は、雨で足元も悪くなりそうですし」
「雨?」
「ええ。今日は朝からそのような空模様にございます」
勘蔵は庭先から外を見るが、ようやく春らしくなって来た空は綺麗に晴れている。勘蔵はにっこり笑う志乃を訝しむような目で見てから、もう一口、羊羹を口に入れた。
……やはり、今日は外出はやめておくか。
勘蔵がそう思うと同時に、閉まっていた襖がまた開いた。
「奥方の言う通りだ」
その声と姿に勘蔵は目を丸くして、慌てて菓子切りを皿の上に置く。
「父上。お久しゅうございます」
父・士蔵と最後に顔を合わせたのは随分と前だ。相変わらず威厳ある佇まいの士蔵は、勘蔵の挨拶に一度頷く。
それにしても、志乃の言う通りとは……? まさか天気のことではあるまい。
そんな勘蔵の心の声に応えるように、士蔵は言った。
「臣として、主君を疑うことなどあってはならぬ。それが殿のお心遣いであったならば尚のこと。そうであろう」
うっ、と勘蔵は息を詰まらせる。父の言うことはもっともだ。
脳裏に蘇るのは幼き日より慕った父の、厳しい目付きだった。
「仰る通りにございます……」
志乃と士蔵。残念ながら、この二人に結託されると勘蔵は何も言えない。
*
進太郎は男を一人連れて、瑞穂城の廊下を歩いていた。その面持ちは複雑極まりない。
別に、罪人の息子であるのに裁かれなかったことを、未だどうこう思っているわけではなかった。
問題は昨日渡された千両だ。進太郎が思った以上に、知親の「進太郎を買った」という言葉は文字通りの意味だったのである。
そうでなければ、こんなこと…………。
「こちらのお部屋にございます」
進太郎が指し示す部屋は、仮にもこの城の主の部屋である。だというのに、その主によく似た男は戸惑ったような、いまいち締まらない顔付きだ。
襖を開けると、知親が座って待っていた。進太郎が男を部屋の中に通すと、知親は「人払いを」と告げる。
進太郎は言われた通りに人払いをして、自分だけは隣の間に控えた。これも、知親の指示通りである。
「ひと月ぶりにございますね、兄上。此度は為替の回収にご協力頂き、有難うございました」
目の前の知信はこの前とは違って正装を身につけており、その美麗さをあますことなく引き立てていた。
しかし当の本人はそんなつもりで来たわけではないようで、静かに頭を下げる。
「父の罪に対しての寛大なお取り計らい、誠に忝うございます」
実の兄に敬語を使われるというのも、大層居心地が悪い。知親は早々に本題に入ることにした。
「お呼びしたのは一つ、お聞きしたいことがあるからです」
「私に、聞きたいこと?」
「はい。…………兄上、あれからご自分の声は聞こえましたか」
そう言う知親の姿が、知信の中であの日の———青木家の縁側で木刀を持つ弟の姿と重なった。
知信は驚きを隠しきれずに瞬きを繰り返す。
「……よくもまあ、そんな昔の話を…………」
「家格の見合わない私が藩主となったことで、兄上にも母上にも、父上にも大変な苦労をお掛けしてしまいました。私など、父上を裁ける立場ではありません」
知親の表情も、声色も静かだった。
昔から知信は子供のくせに無口だと言われていたが、知親も兄に負けず劣らず寡黙な子供だったと思い出す。
「特に兄上はまだお若いというのに、これでは私をお恨みになるのもいたし方ありません。なので…………私は、兄上にはお話ししてもよいと思っております。なぜ、私が藩主となったのかを」
嘘はなかった。
知親は知信が頷けば、進太郎を下がらせて本当に話すつもりだった。この長見の地と、青龍のことを。
……しかし知信は、予想に反して首を横に振った。
「それを打ち明けるのは、お前にとっても相当に覚悟のいることであろう」
「それは…………」
「知親、私はどうでもよい。青木家に汚名が着せられようと取り潰されようと、誰が藩主になろうと、本当はどうでもよいのだ。…………武士にはあるまじきことだがな」
その時、知親は初めて兄がそんな顔で笑うのを見た。その笑みは自嘲でもなければ哀愁でもない。穏やかで安らかなものだった。
「お前の言う『自分の声』すら、おそらくはない。先日、父にもそう言われたところだ」
家の家格を上げるよう頼む父を止めたり、為替を回収したりしたのも「義」を果たすため。そしてそれは、母である桔梗がそのように言うからである。
…………人形のようなものだ。私に、意思などは一つも……。
「いいえ。私には兄上の声が聞こえました」
その言葉に、知信は俯いていた顔を上げた。断言する知親の目は真っ直ぐにこちらを見ている。
……何を言われているのか分からなかった。ないものを、どうやって聞いたというのだ。
知親は思い出すように目を伏せた。
「藩主となる少し前、一度だけ家の様子を見に参ったのです」
「いつの間に……」
「母上にはお会いしませんでしたが、なにせその時は青木家を敵視する者も多く、気に掛かったもので。幸いに、家に変わった様子はありませんでした。一点を除いては」
知信は無意識で目を逸らす。
知親が家を出てから、変わったこと。心当たりは一つしかない。
「昔は、家の庭でよく剣の稽古をしたものです。……しかしなぜか、その庭は一面畑になっておりました」
知信はさらに目を逸らす。
物憂げに伏せられた目と横顔は絵になるが、知親はそれに免じてごまかす気はなかった。
「父上は別居していたようですし、武家の格式を重んじる母上でもない。あの畑を作ったのは兄上ですね」
「……しょうがなかろう。我が家は金がない。食べ物もできる限り家で賄わねば」
「母上と二人分で、庭一面ですか」
……どうして、この弟はごまかされてくれないのか。知信の趣味を暴いて何がしたいと言うのか、目的がさっぱり見えない。
知信はなんだか母の桔梗に詰められているような気分になって、うんざりした顔で知親を見た。
「…………郡方の仕事で、農夫たちの畑を見た。色々と工夫が凝らされていて、家の畑でも真似をしたのが最初だった」
それがどうだ。
野菜だと言うのに、それらは鮮やかな花を咲かせる。鍬で掘れば様々な種類の野菜が育てられる。畑を区画して間作や二毛作の計画を立てれば、常に畑には緑が溢れた。
気がつけば、庭は全て畑になってしまっていたのである。
知信はため息をついた。
「武士らしからぬ趣味だと言いたいのだろう。私とて、何も最初から庭一面を畑にするつもりでは……」
言い訳がましい口調は、自分でも子供のようだと思う。桔梗がいれば間違いなくお叱りが飛んでくるであろう。
しかし知親は黙って聞いていた。
「つまりそれが、兄上の『したいこと』なのですね」
「…………」
知信が黙ると、突然知親は一枚の手紙を広げた。
「ご存知ですか。今、江戸では本草学という珍しい植物を育てる試みが、武士の間で大変流行っているそうです。要は土いじりですから、兄上とそこまで変わりはありませぬ」
「は?」
「兄上のことを申し上げたところ、姫様がこの本を」
知親はそう言って、机の上に積み上がった数冊の本を畳に下ろした。表紙には「農業全書」と書いてある。
知信はさっぱりついていけなかった。
……姫様? 姫様というと、姫様…………。
「……ま、まさか長見の姫君に、私の畑のことを申し上げたのか!?」
大きな声に知信は自分でも驚いた。しかし、知親はけろりとして「はい」と答える。
姫様といえば先代藩主の一人娘だ。今は知親のご正室であらせられる。
「なぜそんな、恐れ多くも姫様に……。そんなに庭を畑にされたことが嫌だったのか?」
知信が信じられないというように見ると、知親はまたしてもけろりとして、今度は「いいえ」と言った。
「畑については、なんら気にしてはおりませぬ。とある事情で姫様に兄上のことをお伝えしなければならなかったので、そのついでに申し上げたまでのことです」
「とある事情、というと……?」
畑の事を抜きにしても、一体どういうわけで知信のことを姫君に言わねばならないというのか。
流石の知信もどうでもよいなどと言っている場合ではなかった。
すると知親が手を打ち鳴らす。直後、知信の背後で進太郎が襖を開けた。
「こういう事情です」




