第四十一話 紫陽花やいつかの誠信じれば(後)
『申し上げます、トヤクの軍勢がカウタ村前線にて、降伏を求めています! その数、およそ二千!!』
その報告は、ハルイの予想が外れなかったことを示していた。
シムアと仄火が行方不明になった報告を受けて丸一日。猶予があった方だろう。
『前線は?』
『カウタ村の民は、すでに殆ど逃げております。前線ではカウタの野営地の軍の他、城兵も合わせ千五百のアロ軍が睨み合いを』
それを聞いた参謀の一人が、地図の上に乗る木彫りのコマを増やした。
『トヤクは二千ですか。予想を多少上回りましたな』
『ああ……』
国境の山にはもっとカヒ城に近い出口もある。本来ならそこから押し寄せて、城を攻めるのが常套だろう。
トヤクの総兵数はおよそ、四万から五万。そのうち二千の兵をこのカウタにぶつけてくるのには理由がある。だからこちらも、総勢三万足らずの兵の千五百をここに置いたのだ。
『カウタからの物資の移動は、どのぐらい進んでいる?』
『まだです。村民にも手伝わせておりますが、人手が足りません』
広大なカウタ村は、アロ随一の穀物地帯。前線に近いこともあり、その蔵に管理された穀物は各野営地へと運ばれる。
ここを抑えられれば、アロは自ずと兵糧戦を余儀なくされるのだ。
『降伏はあり得ん。むしろ、カウタに増兵を送ることはできないか』
ハルイの言葉に、地図を睨んでいた参謀たちは残念そうに首を振った。
『カウタはまだカヒ城から距離があります。ここで多くの兵を失えば、この城と、今や多くの民が逃げている城下を誰が守るのです』
『トヤクの軍がこちらの予想より増強されている可能性も、大いにあります。まだまだ後ろには多くの敵兵がいることを考えなければ』
もはや籠城戦は約束されたようなものだった。カヒ城と城下にはそのための兵糧が運び込まれている。
だからといってカウタの兵糧をトヤクに渡せば、トヤクはさらに長期間、兵を食べさせられる。籠城においてアロの不利は必至だった。
その時、『では』とサロがコマを動かした。
『カウタより向こうの野営地にいる兵をすぐにカウタに呼び寄せ、兵糧を城下に運ばせましょう。粗方運び込みが終われば、前線の兵士も城下に戻し、降伏。それならば失うものは最小限です』
その案にも参謀たちは難しい顔をしたが、もはやそれしかないと踏み切ったのかハルイの方を向く。
『トヤクとて、アロが降伏できないことは分かっています。時間はありません』
『……分かっている。すぐに各野営地から兵を出して、カウタの兵糧を城へ』
ひしひしと、ハルイの胸に罪悪感が湧いてくる。城下で夜を凌ぐ民たちは、なぜ戦をするのかとハルイを恨む者だって多いだろう。
……ハルイとて、トヤクがカジュギンカの消失から逃げるために避難したいと、「同盟国として」申し出てくるなら喜んで受け入れたかった。
だが、信仰とは恐ろしいものだ。今トヤクに降れば、アロの民が「神の怒りを買った」としてどんな扱いを受けるかは目に見えている。
「…………知るか、そんなもの」
ハルイは一人、呟いた。
馬鹿馬鹿しい戦だ。殺されないために、勝って「神の怒りを買ったのは敵の方だ」と、主張するための戦。
……仄火もシムアも、無事だろうか。
もういっそのこと「黒い龍」でも何でも叩き起こして、神の名のもとに白黒つけてくれればいい。
そうでなきゃ、こんなことにこの国を振り回されるのはもうたくさんだ。
『こんな時に、長がそんな顔では困りますね』
気がつけば、机の周りにはもうサロしか残っていなかった。
『……悪い。つい、考えてしまうんだ。他に道がなかったのか。俺は、戦からアロを守りたかったはずなのに……』
ハルイは悔しかった。己の思いは所詮子供の絵空事と同じだったのだろうか、自分では現実をどうにもできないのだろうかと。
しかし、サロが沈むハルイに寄り添うことはなかった。彼は代わりに、冷たく言い放つ。
『ならば答えて差し上げます。「いいえ、他に道はなかった」と。これで満足ですか』
今のハルイに寄り添う必要などはないと、サロは知っていたのだ。
『トヤクが同盟を切った以上、この戦も、アロの民を守るためのもの。貴方はこの戦を乗り越えて、それを成し遂げなければいけない。そんなことも忘れたのか』
サロは眉を吊り上げて、厳しい視線をハルイに向けた。ハルイはそれを受け止めて、ため息混じりに肩の力を緩める。
『……そうだったな。まったく、つくづくお前には頭が下がる』
そう言って立ち上がると、サロの肩に腕を回して、外の様子を見た。
雨の中、城下にはぽつぽつと明かりが灯る。静かなその光景に、突然降伏を求める銅鑼の音が遠く響いた。
『この戦、何があってもトヤクからアロを守り抜くぞ。そのためなら死んでも構わん』
『どうぞご自由に。その暁にはクウ家が長の座を頂きますので』
力強い目をするハルイに、サロもようやく笑ってみせた。
*
最初は雨の音に混じって、その戸を叩く音が聞こえなかった。しかし次第にはっきりと揺れる戸を見て、清は思わず緊張する。
もう夜だというのに、一体誰だろうか。
恐る恐る立ち上がると、それより早くハクが動いた。ハクが戸を開けたその向こうには、雨で深く沈んだ色になった浅葱色の着物が見える。
彼は笠を取って、雨粒を払った。その顔はおよそ一年前、ここにやって来た男のものであった。
「と、殿様!?」
「…………すまぬ、遅くなった」
ハクも目を丸くする。
「お前さん、どうやってここに」
「話せば長いが……今は時間がない。九葉山まで行かねばならないのだろう」
知親はそう言って、濡れるのも構わずまた外へと足を踏み出す。本当にハクを呼びに来ただけのようだ。
「ああ」と気を取り直したように返事をするハクの後ろから、清は傘を二本取り出して、一本を知親に渡した。
「九葉山まででしたら、近道が。ご案内いたします」
青龍も「黒い龍」のことも、清は一切を承知していた。だから噂で聞いた近道を、あらかじめ自分でも確かめておいたのだ。
強い雨の中、三人は歩き出す。
清はもう一本を自分とハクの分として開いたが、その傘に比べて知親が渡された赤い傘は随分立派なものだ。
「立派な傘だな」と思ったままのことを知親が口にすると、清はその傘をちらりと見やった。
「昔、店に来た女の人が忘れていったんです。聞いても仄火さんは『向こうはもう顔も見たくないそうだから、俺は返しに行かねえ』と言ったきりで、そのままに」
「…………そうか」
思ったより碌でもない傘の事情に、知親は返事に困る。清は呆れたように笑った。
「本当にどうしようもない人ですよ。…………でも、やっぱり俺にとっては……兄でも父でもありませんが、仄火さんは大事な同居人なので」
その笑顔が一瞬、寂しそうに知親の目には映った。
気のせいではないと思う。その同居人が今、異界の地で人質になっているというのだから。
以前仄火も清を「同居人」と言っていたし、二人に血の繋がりがないことは知親も何となく分かっていた。清も仄火と同様に捨て子なのだろうかと思ったが、それを聞く必要はないと知親は何も言わず前を向く。
すると今度は清の方から聞いてきた。
「久世様は横領のことで裁かれたそうですね。それに……貴方様が実のお父上を罰したとも、陰で噂になっています」
「…………それは、事実だ」
知親がそう言ったきり、しばらく雨の音だけが響いた。
「…………ですか」
雨にかき消されて、清の小さな声はよく聞こえなかった。知親が振り向くと、清は一瞬目を合わせた後、すぐ俯き気味に目を逸らす。
「……お父上のことを、憎んでいらっしゃるのですか」
藩主相手に不躾な問いだと思っているのか、清は傘で顔を隠すようにする。
知親は考えた。清は進太郎と同じように、聡い少年だと知っている。こうして聞いて来ることにも何か理由があるのだろう。
だが、果たして自分に満足な答えが返せるだろうか。それは今の知親にとっても、重く難しく、苦しい問いだった。
「……憎んでは、いない。恨んでもいない」
青木家の家格を上げるよう要求し、会話を盗み聞き、横領の手助けをし……。結局父の目に、自分は出世の道具にしか映らなかった。
だがそれは、本当に父だけのせいだろうか。
知親がまだ幼い頃の、父の笑顔を思い出す。「お前の母上は厳しいなあ」と桔梗に叱られて涙ぐんでいた知親の側にいてくれたことも。
何が父を変えたのか。貧しさか、苦しさか、それとも知親自身か。
「……難しいな。許す許さないという言葉では、片付けられない」
久世と進太郎を見ていても、知親はそう思わずにはいられなかった。
その答えに清は傘を傾ける。彼は口元だけで、静かに笑っていた。
「……本当に、そうですね」
ざっ、と音を立ててその足が止まった。見上げれば緩やかな傾斜の山の入り口が、知親たちを迎えている。
「清、お前は家に戻るんじゃ。ここからはわしと若造だけで行く」
それまで黙って会話を聞いていたハクが、すっと知親の方の傘へ入った。「分かりました」と清は返事をして、その場で一人止まる。
向かい合うと、一年前の少年とは随分背丈が違っていることに気がついた。
「……大きくなったな」
それを聞いた清は驚いてから、少し照れくさそうに笑って言う。
「仄火さんを、頼みます」
清の言葉に知親は頷いて、ハクと二人、暗い雨の山へと足を踏み入れた。




