第三十九話 忠ならんと欲するか、孝ならんと欲するか(前)
「どこでこれを……」
知親は手紙に折り込まれた千両の為替を手に、そう呟いた。
運んできた春日に見せてみるも、彼もまた見たことのない金額に「えっ」と声を漏らす。
知親は縁側に出て庭を眺めるふりをして、その下に隠れている春日に囁いた。
「しっ知りません。僕はただ、貴方のお兄さんに頼まれてこれを……」
「…………兄上に?」
春日が久世を見張っていると、知信がひょっこりと現れてこれを知親に渡してくれないかと頼んできたのだ。そして春日は以前の通り、カジュギンカを経由して知親の部屋まで忍び込んだのである。
そのことを春日が話すと、知親は為替をもう一度見つめた。
「しかしなぜ、兄上がこれを……」
しかも不思議なことに、為替を渡す見返りに伊波屋を御用達として抱えることを条件としている。
一体兄は誰の味方なのか。知親の味方なのか、伊波屋の味方なのか、それとも…………。
……父の知孝に関しては、久世と話していたということから続いての報告はない。
だが、兄を動かすのが誰の意思なのかが分からないことには、考えてみても無駄かもしれない。
知親はそう思って、机の上にうず高く積み上がる本を見た。
知親は春日に向かって、小さく言う。
「何はともあれ、助かった。これでこの件もいよいよ片付くだろう。……その為に、藤殿に一つ言付けを頼みたい」
「藤に?」
知親の伝言を聞いて、春日は驚いたように彼を見返した。
「それは……」
「心配はない、久世の件に関しては早急に片をつける」
いや、今日にでも。
知親は為替と手紙を懐へとしまった。
*
「殿、本日はこれより巡見にございます。出立のご用意を……」
巡見とは、藩主が自分の領地の様子を実際に見て回る仕事である。
進太郎が知親の部屋の襖を開けると、知親は机の上の本を手に取って読んでいた。
「ここのところいつも、その本を読んでおられますね」
「ああ。私の本ではないが……」
それを聞いて首を傾げる進太郎に、知親は本を閉じた。
「進太郎。藩主というのはなんとも窮屈なものだな。笹田屋がご用差し止めになって以来、久世の件がどうなったのか自分の目で確かめることも叶わぬ」
「それは……殿にもしもがあれば、長見の一大事にございますから」
知親がそのように不満を漏らすことを珍しく思い、進太郎は取り繕いながらそれらしい返事をする。
と、知親は振り返って何かを置いた。
「そのおかげで、本を読む時間も考える時間も、十分すぎるほどあった」
言葉と共に置かれたのは、紛れもなく千両の為替だった。
進太郎は信じられないような気持ちで為替を拾い上げ、まじまじと見つめる。
「……前からそうではないかと思うておりましたが、やはり殿には協力者がいらっしゃるのですね。藩の中の者か、外の者かは分かりませんが」
進太郎の言葉を、知親は半ばおかしいような気持ちで聞いていた。彼がずっと追い求めていた横領の証拠が目の前にあるというのに、進太郎の頭はついついそんなことが気になってしまうらしい。
だが「協力者」については知親も喋る気がないので黙っていると、はなから期待はしていなかったのか、進太郎はそのまま顔を上げた。
「……殿。この進太郎、とうに裁かれる覚悟はできております。どうぞ、ご存分に」
その目は、江戸で父の横領を告白した時と同じ目だった。
真っ直ぐで、迷いなく澄んでいる。
知親は進太郎から為替を受け取って立ち上がり、襟元を正した。
「では参るか、進太郎」
考える時間は十分すぎるほどあった。
己が何を、すべきかを。
*
「旦那様、青木知孝と申す者が玄関先に」
用人の声だというのに、久世の心臓は思わず跳ねた。
久世は手を止めて振り返る。
青木知孝には為替の後始末を代わりに頼んだはずだ。伊波屋から笹田屋に千両の為替が渡れば、それで久世家の借金はすべて返済されるはずである。まさか、何か問題が起きたのか。
「居間に通せ」と命じて、久世はまた箪笥を漁る手を動かした。
知孝が失敗したとなれば、それも一大事だ。だがしかし、今はあれを探さなければならない。
そもそも、知親が横領のことを知り得たのはなぜか。久世はずっとそれを考えていた。
横領、または久世家の借金を知るのは姉のお松と、小笠原行矩の二人。だがそのどちらも密告者ではなかった。
では誰が。
その時、久世は思い出したのだ。
何年も何年も前、藩の金に手をつけ始めた頃。一度だけ火に焚べずに仕舞い込んだ証書が、そのままになっていないかと。
しまった場所を開けてみてもない。別の場所だったかとそれらしいところを探し回っても、ない。
思い違いで、実はもう燃やしてしまったのかもしれない。しかしそうでなければ、あれらは「横領の証拠はない」と思っていた久世にとって大きな誤算となり得る。
お松でもない、小笠原でもない。
久世の脳裏に、誰かが証書をそっと抜き出す姿が浮かぶ。その人物の顔は…………。
その時、にわかに屋敷全体が騒がしくなった。
何事かと廊下に顔を出すと、先ほどの用人が慌てて掛けてくる。
「だ、旦那様!!」
「どうした、何事だ」
「とっ殿が……! 殿が巡見からのお帰りの道中、今この屋敷に!!」
…………ああ、無理だ。
久世は言葉が出なかった。
きっと知孝は失敗したのだ。千両の為替はどういうわけかは知らないが、知親の手に渡ってしまったのだろう。
知孝はそれを報告しに来たに違いない。探し物をやめてその話をもっと早くに聞きに行けば……いや、少し早く聞いていたところで変わらないか。
呆然としている久世に、用人は「旦那様、どうされたのですか。急ぎお迎えのご準備を……」と捲し立てる。
その後ろから、人々の戸惑いの声と共に足音が響いた。無遠慮な早足は、久世の方へと近づいてくる。
襖の影から姿を現したのは、あの若き家老とその用人だった。
「久世里進殿。探し物はこれであるか」
勘蔵が手にするのは証書と、そして千両の為替が一枚。
「貴殿の勝手流用は、もはや疑う余地もなし。外で殿がお待ちである。重々覚悟の上で、ことの顛末を申し立てよ!」
*
久世が勘蔵たちに挟まれて屋敷の外へと出ると、その前の道で馬に乗った知親が待っていた。
巡見の供をした行列の殆どはすでに帰らせたのか、門前に立つのは僅かな人数だ。
そしてその一人、知親が乗る馬の前には久世の息子が立っていた。
……やはりそうなのだ。お松でもない、小笠原でもない。久世の横領を知親に告げたのは、進太郎であったのだ。
「因果は、巡るものだな……」
久世は小さく呟いた。
するとまさか声が聞こえたわけではあるまいが、進太郎は一歩ずつこちらへと近づいて来る。
久世は必死でそれを睨みつけた。自分が進太郎を恨んでいると、殺してやりたいほど恨んでいると、進太郎に思わせるために。そしてその歩みを、止めるために。
……やめろ、止まれ。こちらへ来るんじゃない。
だが、進太郎は父親の形相には少しも怯まなかった。
息子は笑っていた。
「父上。これでみな、終わりにしましょう。私をお恨みになっても一向に構いませぬ。そのために私は……」
やめてくれ。言うな、その先を。
「私が!」
久世の一等大きな声が、その場に響いた。久世は地面に手をついて、頭を下げる。
「私が帳簿を偽り、家の借金を返すため藩の公金を懐に入れておりました。家老としてお仕えしながらこの背信、いかなる処罰でも受ける所存にございます」
そう言い終わるや否や、知親の側に控えていた目付たちがひれ伏す久世を取り囲んだ。久世は立ち上がりゆっくりと歩き出す。
すれ違いざま進太郎が振り返る気配がしたが、久世は振り返らなかった。
……進太郎は、久世の次男だった。兄と姉がいたが、どちらも早逝している。
聡明な子だ。
久世も借金を作り、自分に業を背負わせた先代の父を憎いと思っていた。だが進太郎は、父を断罪する道を選んだ。
……ああ、なぜ私はそうしなかったのだろう。
横領をしてまで借金を返すのも、久世家のため、進太郎のためだと思っていた。
なぜ、私はそんな思い違いをしていたのだろう。
知親は何も言わず、久世を見下ろしていた。
その目は軽蔑でもなく、憐れみでもない。彼が何を考えているのかは分からない。
その顔を見て、若いなと久世は思う。
日浦知親は若い。だが、進太郎は藩主になって間もない知親に久世のことを打ち明けた。笹田屋のご用差し止めにしても確実に久世を追い詰め、どうやったか千両の為替も手に入れた。立川勘蔵の助力もあったかもしれないが、その立川を早くから味方に付けたのも知親だ。
榊原から聞いた話では、知親は年貢を軽くするため、江戸に来る前から帳簿の洗い直しをさせていたという。
長見藩の財政を逼迫させていたのは間違いなく久世の横領だ。それすら今こうして裁いてみせた。これで年貢の軽減は多少現実味を帯びたものになるだろう。
それが、彼が藩主になった理由かもしれない。
久世は知親に一礼して、目付たちと共にその場を離れた。
羽織りの群青が、久世には空よりも眩しく見えた。




