第三十八話 盤石之固にゃ一枚足りない(後)
「マナスヨウクタラシ」
「ソユイサマスカ?」
仄火は人の話し声で目を覚ました。どこからか差し込む日が眩しい。ここは…………。
起き上がりたかったが、体中が痛くて思うように動かせない。
ふと、頭の下に何かあることに気がつく。できる限り視線を上に向けて見れば、どうやらそれはシムアの足のようだ。彼女は周囲を覆っている布の隙間から、じっと外を見ている。
……硬い足だが、まあざらついた床よりはずっといい。シムアが気がつかないうちは枕にしていようと仄火は思ったが、次の瞬間、こちらを振り返ったシムアと目が合った。
ぎっと目を釣り上げたシムアは、もう片方の足で仄火の頭を蹴飛ばす。仄火の頭が床にぶつかって音を立てた。
「うっ」
……この女、俺の顔を蹴りやがった…………!
痛みに耐えながらも仄火は信じ難いような顔でシムアを見上げる。
するとその音で外の人間たちが気がついたのか、布が捲られて一気に光が差し込んできた。
急な明るさに仄火が顔を顰めると、兵は仄火の縛られた両手を掴んで外へと引き摺り出す。
「なっ…………痛っってえなこの野郎!」
人の肩の可動域には限度がある。仄火は自分の足で引き摺られる方向へと動くしかなかった。
布から仄火の体が半分ほど出た辺りで、兵は引っ張るのをやめる。必然的に荷台にうつ伏せで伏せるような形になった仄火は、手が動かないので為すすべなく転がっていた。
外は街ではなく、まだ殆ど山の中のような場所だった。兵は二人。スイヒャは……見当たらない。
「へえ、変わった目の色ね」
耳につく高い声が、仄火の頭上から降ってきた。
仄火は足を使って上を向く。すると宙に浮かぶ声の主の姿が見えた。
獏だ。仄火はそう直感する。
長い茶髪に濃い桃色の着物。手には帳簿を一つ持っている。
「誰だお前」
「いやいや、それは私が聞くことだから。ほら情報屋さん、お名前は?」
獏はけらけらと馬鹿にしたように笑いながら、帳簿を見ている。
名前……。仄火ははっとした。
まさかそういうことか。
情報屋殺しの犯人がトヤク兵だったとして、なぜ彼らが夢遊の組合員を狙えたのか。
その理由はこれではないのか。この獏が何者かは分からないが、もし手に持っているのが夢遊の組合員の帳簿、もしくはその写しなら辻褄が合う。
ならばそこには、仄火の名も載っているはずだ。
「……ほ、ずみ」
「穂積ぃ?」
獏は首を傾げて帳簿を捲る。
一年前、知親に頼まれて変装した時についでに考えた偽名だった。まさかこんなところで役に立つとは。
夢遊に「穂積」という名の組合員がいないことを仄火が祈っていると、獏は諦めたように帳簿を閉じた。
「……うーん。どうやら、あなたは違ったみたい」
「ざんねーん」と言って地面に降り立った獏が背を向けるのを見て、仄火は心の中で安堵の息をついた。とりあえず、ここで殺される道は絶たれたようだ。
しかしその時、細い指に思い切り顎を掴まれた。
驚いて目を見開くと、いつの間にか獏が仄火を見下ろしている。
「…………なんてね。ごまかせると思った?」
仄火は息を呑む。
獏の目は悦に浸ったように細められ、まるで愚かな獲物を仕留めたようだった。
「その目の色、思い出したわ。去年の夏、紫苑と一緒に半夏を縛り付けていたわね」
「なっ、なんでそれを…………」
仄火の脳裏に去年の、横川家での出来事が蘇る。
半夏を倒して縛っていた時、周囲にこんな獏はいなかった。どこからか見ていたのか? それに、紫苑のことまで知っている。
「……半夏を逃したのはお前か。お前は一体、誰の獏だ」
「呑気に質問してる場合かなあ? ……ねえ、この人やっぱり、『神の怒り』を買った情報屋みたい。そう伝えて」
獏は仄火から離れて、一人の男にそう言った。
その男の顔に、仄火は見覚えがある。
「お前…………」
仄火が睨むとスイヒャはそれから目を逸らし、トヤクの兵にユマの言葉で何か伝える。するとそれを聞いた兵たちは、それぞれに武器を構えた。
まずい、殺される。
仄火は必死に足だけで立ち上がって逃げようと試みるも、上から肩を抑えられた。その手に噛みつこうとしてみるも、次に頭を抑えられる。
嘘だろ。…………本当に、死ぬのか。
足の先まで、体が冷えた。
目の端に人の足が見えて、刀が抜かれるような音がした。
流石に斬首か。よかった、槍で串刺しにされるより苦しまなさそうだ。
最期に何を思い浮かべればいいのか分からないまま、仄火は固く目を瞑った。
すると目の前が白くなって、記憶の奥の、奥の方で誰かが振り返る。
一瞬の出来事だったが、彼女は笑った。
「…………大丈夫だよ、仄火」
*
パリンと大きな音を立てて、皿が割れた。
「あーーー!! ちょっと、何やってるんですか!?」
呆然と割れた皿を見るハクに、清が血相を変えて飛んでくる。
「あ…………すまん、手が滑った」
「もう、本当に気をつけてくださいよ。……うーん、これ、直りますかね」
皿は大小の破片へとばらばらに砕け散ってしまった。清はその一つを拾い上げて、「とりあえず集めましょう」と隅に立てかけてある箒を手に取る。
落とした張本人のハクが動かないことに文句を言おうと、清は床を掃きながら彼の顔を見上げた。しかし、その顔は焦燥に満ちてハクらしくもない。
「…………ハクさん? どうしたんですか?」
「いや……何か、嫌な予感がしたんでな」
妖であるハクがそんなことを言うものだから、清もつられて少し不安になってしまう。
だが今はこの家を任されているのだからと、清はすぐに気を取り直して言った。
「心配ないですよ。きっとこの皿は、持ち主の代わりに災いを引き受けてくれたんです」
「持ち主、というと……」
ハクが言うと、清は呆れたように笑った。
「貧乏暮らしでも病気一つしないし、数多の女性に恨まれているのに未だに人情沙汰を起こしてない。仄火さんの悪運は筋金入りです。ちょっとやそっとじゃ、あの人は死んだりしませんよ」
*
いつまで経っても、その衝撃はやって来なかった。
仄火が恐る恐る目を開けると、その頬にポタリと何かが落ちる。見上げると、赤い血を滴らせる槍が、剣を振り翳していた男の胴から引き抜かれるところだった。
槍は仄火の後ろ、布の中から伸びている。
刺された男が声もなく崩れ落ちると、仄火を抑えていた方の兵は急いで己の武器を取り、「レタバ!」と布をめくった。
しかし、槍が今度はその男の首を貫く。
槍を持っているのは、足だった。その足は槍を置くと、仄火の肩を蹴って横を向かせる。
「お前…………」
やはり布の向こうにいるのは、シムア一人だった。彼女は器用に足で槍を拾い上げると、その先を仄火の両手を縛っている縄にあてる。
「え、ちょっと待てよおい……」
まさか、と顔を青くする仄火にも構わず、シムアはもう一方の足で槍の石突を蹴った。
穂先は縄をちぎり、勢いよく仄火の頭のすぐ後ろを通過する。反射的に、仄火は首を前へと動かした。首筋に感じた鋭い風は、すぐにぞわりとした鳥肌へと変わる。
力を入れるとすぐに縄は緩み、ようやく両手が自由になった。するとシムアが足で槍を押し付けてくる。その意図を察した仄火は、主に恐怖と、あとは縛られていた反動でまだ上手く動かない腕で、なんとかシムアの縄も切った。
自由となった彼女は瞬時に仄火から槍を奪い返すと、それを投げる。
まるで弓で射られた矢のように空を切るそれは、遠くの木に突き刺さる。絡め取られたのは、スイヒャの服だった。
逃げようとしていたらしい。さっきの獏の姿はなかった。
シムアは音を鳴らしながら首と肩を回すと、自分を縛っていた縄を手に取り、ぶんぶんと振り回しながらスイヒャの元へと荷台を降りた。
仄火はまだ一連の出来事を飲み込めないまま、その後ろ姿を見つめる。
足で槍を使ったり、投げて人を捕まえたり……。普通に考えて、どうやったらそんな芸当ができるのか。怖い。
命の危機を逃れた安堵は確かにあったが、かといって素直に喜び切れるわけでもない仄火であった。
シムアは荷台の奥から仄火の刀を取り出し、投げてよこした。どうやら槍もそこから足で取ったらしい。
馬車はいつかアロで乗ったものとほとんど同じで、二頭の馬が荷台を引く仕様だ。兵士の死体を荷台の布で隠すと、シムアは仄火に向かってその馬の片方を指差した。
仄火は首を横に振る。馬には乗れない。
シムアはもはや遠慮なく舌打ちすると、縛ったスイヒャを立ち上がらせ、縄を解いた。
「ゼンスメセ。シバマウデミエハモウクミバ」
スイヒャはそれに対して、どこか卑屈な目をする。
「…………シニ、リギニ。ユレペルアチュライシニミ、アロサミデレタヨリシシ」
そう言って、シムアが馬車から離した馬の一頭に乗った。
「え、おい。いいのかよ」
スイヒャを逃がすつもりなのだろうか。
仄火が戸惑ったようにシムアを見るも、当然言葉は通じない。代わりにスイヒャが馬上から振り向いた。
「アロまで、私が先導します」
「……それをどうやって信じろって言うんだ」
「シムア様も大体の道知ってます。裏切れば私が殺されるだけです」
もう一頭の馬に乗りこむシムアは、槍を片手に持っている。前を行くスイヒャを刺すことは容易だろう。
「それに、」とスイヒャは前を向いて言った。
「トヤクに味方したのは、生き延びるためです。アロに帰れるなら、私もアロで裁かれて家の墓葬られたいです」
スイヒャの言葉に、仄火は口を閉ざした。
すると上から強い力で腕を引っ張られ、気がつけばシムアの後ろで馬に乗っている。初めての高さと生き物の熱に、仄火は思わずシムアの肩を掴んだ。
「タ、キハヌレタ?」
その時、目下の木々の向こうから声と複数人の足音が聞こえた。トヤク兵だろうか。
すると馬から離され重心を崩した荷台が、傾いて山の下へと落ちていく。
シムアが手綱を引くと馬は嘶き、蹄を鳴らした。




