第三十八話 盤石之固にゃ一枚足りない(前)
カヒ城にその知らせが舞い込んだのは、空が夜闇に染まり始めようとする頃だった。
『長』
『ああサロか、入れ』
聞き馴染みのある声がして、ハルイは自室の中から声を掛けた。しかし入って来た側近の神妙な顔付きに、どうもよくない予感がして思わず立ち上がる。
サロは目を伏せて、眉間に皺を寄せた。
『シムアと仄火殿が、行方知れずとの知らせが』
……予想通り、いやそれ以上に悪い知らせだった。
『昨日調査に出た四人はタリハの野営地に泊まり、今朝からその二人の姿が見えないと。今晩滞在する予定のケゼヤの野営地にもまだやって来ないとのことです』
人質の仄火が行方不明なのも相当にまずいが、何より不安なのはシムアが姿を消したということだ。それは、あのシムアが太刀打ちできない事態が起きたということ。
ハルイは黙ったまま目を閉じ、髪を指に絡ませる。そしてサロに『地図を』と手を差し伸べた。
渡された地図を、両手で広げる。
『タリハの野営地は、国境からそれなりに距離がある。トヤクの野営地も近くにはないな』
『では、一体どこに……。まさかあの馬鹿が、食い過ぎで動けなくなったわけじゃないでしょうね』
サロの言う通りならどんなにいいか。
……シムアの不在は、アロにとってあまりに大きな意味を持つ。
それは彼女の武力もそうだが、「アロの一番槍」としての象徴がアロ軍の士気を左右することは明白だ。もちろん、敵対するトヤク軍の士気も。
『…………すぐに探し出せ。近場の野営地の人間と、城に留まっている兵からも人を出すんだ。トヤクに知られれば、間違いなくこれを契機に攻めてくるぞ』
『分かりました、すぐに』
サロが頷いて部屋を後にしようとしたその時。ばたばたと人が駆けてくる音がした。部屋の前で立ち止まったのは、一人の兵だ。
彼はハルイの姿を見て、即座に膝をついた。
『伝令です! もう一人行方不明の者がいると、今し方報告が』
『何? 誰だ』
『軍から逸れていたアロの兵です。数日前、衰弱していたところをタリハの野営地で保護していたそうで』
それは果たしてシムアたちの失踪と関係があるのか。ハルイは考えを巡らせたがすぐに答えは出ない。
だが、二人と同じ野営地に滞在していたなら、まるきり無関係というのも違う気がする。
『その兵の名は?』
ハルイからの直接の問いに、兵は一層頭を深く下げて答えた。
『スイヒャと申す者です』
その名を聞いて、ハルイは手から地図を取り落とした。サロも目を見開いて言葉を失う。
『…………分かった。下がれ』
『はっ』
アロが抱えている隠密について、具体的な名前を知るのは限られた者だけだ。報告をあげた兵はスイヒャが誰かは知らないだろう。
『……サロ、シムアを探す話は一旦なしだ』
『はい。スイヒャはトヤクから逃げているところを捕まったのでしょうか。そこにシムアたちが……」
『そうかもな……』
隠密のスイヒャが使者としてトヤクに行っている時に、アロとトヤクの同盟は切れた。それ以来、彼がアロに戻って来ることもなかった。
しかしこの状況では、スイヒャが生きていたと素直に喜ぶことはできない。
サロの言う通りだとしても、たとえスイヒャが……裏切ったとしても、どちらにせよシムアたちはトヤクに捕らえられたということだ。
ハルイは一瞬吐き気がして、机の上に置いてあった水を飲む。
『長、どうなさいますか』
サロの声も、とても冷静ではなかった。
怖かった。戦が怖いわけではない。ハルイもサロも、成人したと言ってもまだ若いのだ。それを初めて怖いと思っている。
ハルイは壁にかかった首飾りを取ってつけた。服は寝巻きだが、今はしょうがない。
『城の兵を全員広場に集めろ。各野営地にすぐ早馬を出して、民を城下町に避難。混乱させないよう軍の訓練を行うからだと言っておけ。後、参謀たちと軍隊長、近衛兵隊長、第一小隊長を…………』
ハルイは言いかけて気がついた。アロ軍第一小隊長・シムアは不在である。
『……とにかく全員、ここに呼べ!』
『はっ!』
サロはハルイの言葉で正気を取り戻したように、大きく返事をして部屋を後にした。
ハルイは床に落ちた地図を拾い、椅子に座る。手が震えないように机の端を強く握りしめた。
……今まで、トヤクと共に戦は何度もしてきた。万が一に備えて、城の防衛も完備してある。
だが、ついに…………。
ついにアロが、戦場になるかもしれない。
*
『…………だから、明日の朝までここで待て、だと』
『う、嘘だろ。中にはアロの一番槍がいるんだぜ。俺ら殺されちまうかもしれねえよ』
シムアは人の話し声で目を覚ました。暗くて狭い。ここは…………。
体を少し起こすと、ずきりと脇腹に重い痛みが走り、脳が一瞬で覚醒する。
シムアは思い出した。スイヒャの裏切りによってトヤクに囲まれ、矢を射られたことを。
思わず舌打ちしそうになるが、外の人間に聞こえては困る。するとふと、足に重みを感じる。
見れば男がシムアの片足を枕にして寝こけていた。息をしているので生きている。
…………ホノカ、といったか。この足手纏いさえいなければあれしきのトヤク兵、シムアの圧勝であった。
苛つきで仄火の頭を蹴飛ばしたくなるが、できないのでもどかしい。
シムアは座り直して、周りの状況を把握することにした。
周りは布で覆われていて、下は木の板。おそらく馬車の荷台だろう。布から光も漏れてこないので、とっくに夜のようだ。
両手は縛られていた。傷は一応手当てがしてあり、血も止まっている。
すると、また外からトヤク兵の話し声が聞こえてきた。
『しかし、何もこんなところで待たせなくても……。例の妖にユマカを見せるのは、城に着いてからじゃ駄目なのか?』
『駄目だろうな。もし、「神の怒り」を買った情報屋だったらどうする』
『…………お前それ、信じてるのか? 正直言って俺は、『神の怒り』を買った奴かどうかが見ただけで分かるなんて、怪しいとしか』
『俺じゃない。情報屋を街に入れたと知れば、信者たちが大騒ぎだ。あいつらを裏切る真似すれば、アロを攻める大義名分ってやつがなくなるだろ』
『…………お前が言うならそうか。なんだかややこしくて、俺はもうさっぱりだ』
聞き耳を立てているシムアにもさっぱりであった。かろうじて「神の怒り」というのは、「誰かが『神の怒り』を買ったせいで、カジュギンカが消える」というあの馬鹿げた主張のことだと思うが……。
……ユマカを、妖に見せる? 情報屋とも言っていたし、ユマカが指すのは仄火のことだろう。が、妖……?
シムアはうんざりとした顔をする。ハルイやサロと違って、頭を使うのはあまり得意ではない。
……とにかく、トヤクの城にはまだ着いていないようだ。捕まった場所からトヤクの城まではかなり距離がある。まだ逃げ出す機会はあるかもしれない。




