第三十七話 ひとごにふたごみわたしよめご(後)
部屋で千両の為替を顰めっ面で眺める伊波(と静寂)のもとに客がやって来るまで、そう長くはかからなかった。
そうだろうとは思っていたが、やはり客は知信である。旅籠屋の女将があわあわと伊波の部屋まで彼を連れて来た。
「これは『青柳の君』様。どうしてこの宿が?」
「私は青柳ではなく青木ですが……。そこを歩いていた伊波屋の方に聞いて教えて頂きました」
普段そこまで身なりを気にしない伊波でも、彼の前で墨塗りの顔を晒すのはなんだか気恥ずかしかった。
伊波は座布団などを整え、女将に茶を持って来てもらうよう頼む。すると座布団の勢いに煽られて、為替がひらりと宙を舞った。
伊波はそれを受け止めて、自分の前へと置く。
「この為替ですが、私の一存でこのような大金を扱うことはいたしかねます。なぜあの時、受け取るようにと仰ったのです?」
伊波としては、為替を受け取った時点でかなり手詰まりな状況に立たされてしまったのだ。一体どうしてくれるのかと、その答えを聞かせてもらいたいところであった。
知信は少しも臆する事なく、静かに為替を見つめた。
「笹田屋に千両……。ご用差し止めの理由は、間違いなくこの為替でしょう」
知孝が久世の使いであり、伊波屋の若旦那に千両の為替を渡した。知親の知り合いと見られる男が、久世を追っていた。
詳しいことは分からないが、それだけあれば十分であった。
「伊波屋さん。今、我が藩の御用達に願い出ていらっしゃるとか」
「ええ、その通りです」
「では、父の代わりに私の頼みを聞き入れて下さいませんか」
「頼み、ですか」
伊波は瞬きすると同時に、つい商人の癖で肩に力が入るのを感じる。
知信はその細い指で、置いてある為替を拾い上げた。
「この千両を私に譲って下さい。さすればきっと、御用達の札に変えて参りましょう」
*
「兄上。また庭を眺めていらっしゃるのですか」
知信はトン、と木刀の先が縁側をつく音に振り向いた。
「庭には何もありませんよ」
知親は母親譲りの、子供ながらにすっと通った眦で庭を見つめた。確かに小さな青木家の庭には、申し訳程度に木やら花やらが植わっているだけである。
「また小坂殿のところに行っていたのか? 今日は稽古場は休みだろう」
この組屋敷の子供は、大抵が長見藩お家流の剣術を教える小坂の屋敷で武芸を習っている。青木家の兄弟もその子供のうちであった。
「今から行くところです。小坂殿が特別に稽古場を使ってもいいと仰ったので」
知親はそう言って、まだ少し眠そうな目を瞬かせた。
相変わらず知親は剣術が好きなようだが、ただ好きなだけではなく筋もいい。小坂もそれを認めているし、知親本人も元気な時にはなるべく稽古をしたいのだろう。
「あまり無理をすると、また寝込んでしまうぞ」と知信が言っても、知親は「無理などしていません」と言い張る。
病弱な弟は、今年ようやく生きて七つを迎え両親を喜ばせた。小坂が稽古場を開けたのも、普段寝込みがちで稽古に顔を出せない時がある知親を考えてのことだろう。
だから知信は、口ではそう言いながらも特に弟を止めるつもりはなかった。しかし知親は、知信の隣から動かない。
「行かないのか?」
「兄上も行きましょう」
「私も?」
思いもよらない言葉に、知信は首を傾げる。
「そうは言っても、小坂殿はお前のために稽古場を開けてくださるんだろう」
「…………大丈夫です。兄上も行きましょう」
知親は珍しく譲らなかった。
一体どうしたのだろう。二つ歳下の弟が「兄について来てほしい」などと甘えるようなことは今までなかった。病弱な体とは裏腹に知親はしっかりした子供で、稽古場ぐらい普段なら一人で行くだろうに。
知信がその考えを探るように知親の顔を見ると、知親は少し目を逸らした。
…………本当は知信と同い年の、小坂の一人娘に言われたのである。
「もし明日も稽古がしたいなら、父に頼んで稽古場を開けてあげる」と。その代わり、知信を連れて来ることが条件であった。
そういった裏の事情を知るのは、知親だけである。
しかし知信は、黙ったままの弟にゆっくりと腰をあげた。
「今日は父上の帰りが遅くなるそうだから、代わりに傘張りの仕事をしなければ。それに間に合うようには帰るからな」
下級武士の青木家にとっては、内職も大切な収入源である。
知信がそう言って歩き出すと、知親はその後に続いた。要求が叶って喜ぶかと思いきや、知親は俯いている。
「…………どうかしたのか?」
「兄上は、やりたいことはないのですか?」
「やりたいこと……」
「兄上はいつも、父上や母上の仰ることによく従っておられますが、私は兄上が『こうしたい』と仰るのを聞いたことがありません。黙っていては、ご自分の声が聞こえなくなってしまいませんか」
頭一つ低い知親の顔を、知信は振り返った。無垢だがそれだけ鋭い言い分に、困ったように腕を組む。
そうは言っても、やりたいことも「自分の声」というのも、考えてみても思いつかないのだ。
「お前は子供なのに賢いことを言うなあ」とごまかせば、「兄上もまだ子供でしょう」と知親は小さく口を尖らせた。




