第三十七話 ひとごにふたごみわたしよめご(前)
「伊波、いーなーみ。……伊波ってば!」
「え…………」
静寂の声で、伊波は意識を取り戻す。
寝落ちている間に行燈の火も切れたらしく、部屋は暗い。しかし外を見れば、空は端の方からじわじわと白み始めていた。
文机に突っ伏して寝ていたせいで大層痛む首を鳴らしながら、伊波は大きく欠伸をした。
「悪い、寝てたよ……。どうかしたのかい?」
「山車蔵で待ってみたけど、全然駄目。藤も春日も来やしないわ。何してるのかしら」
「何ってそりゃ、久世の見張りだろう。……でもそうか、やっぱり戻ってこないか…………」
伊波が御用達を勝ち取るため忙しくしている間、夢遊の仕事は静寂に任せていた。
しかし夢遊の組合員ばかりが狙われる情報屋殺しのせいで、拠点の山車蔵にはあまり人も寄りつかないらしいが。
「それより、ついてるわよ。墨」
「墨?」
静寂は指で自分の頬下辺りを指す。伊波もつられて同じところに手をやると、指先にべったりとした感触と共に黒いものがついた。
書き物をしているうちに寝てしまったせいだろう。よりにもよって顔とは。墨は皮膚に付くと、十数日は落ちない。
伊波は弾かれたように、文机の上の願書を手に取る。そこに墨は付いていない。
「はあ、よかった…………」
これは藩に対して公的に御用達を願い出る書状である。書き損じれば一から書き直し。
そんな恐ましいことは考えたくもなかった。
「第一、夜通し計算して数字が合うわけないんだ。でもそうしないと間に合わないなんて……」
伊波はぼやきながら願書を見直す。
ふと、その手が止まった。
「ん?」
数字が合っている。最後の最後に、かろうじて合っている。どうやら昨夜の自分は何とか計算を終わらせ、その安堵のまま寝落ちてしまったようだった。
何はともあれ、これで今日長見藩に願書を渡しに行くのには間に合いそうである。
よかったよかった、と伊波は昨夜の自分に感謝しながら髪をほどいてもう一度結い直す。
「眠気覚ましに顔を洗ってくる。静寂は……」
「休む! 誰も来ないのに座りっぱなしなんて、くたびれるったら!」
そう言って畳に横になる静寂に、そっちは座ってるだけじゃないか、と心の中で文句を言いながら伊波は襖を閉めた。
旅籠屋の近くの井戸で顔を洗い、桶に水を張る。映った顔には思ったよりしっかり墨がついていた。
これはまずいな。長見の藩士たちに対して、いくらなんでも格好がつかない。叱られるだろうが、父の久右衛門に代わりに行ってもらうしかなさそうだ。
顔を洗ってもなお残る眠気によって、ため息の代わりにもう一度欠伸が出た。
*
「二十日足らずでここまで漕ぎ着けたのは大したものだが、最後の最後にそれでは意味がないだろう」
昨日店から長見に戻ってきた久右衛門は、願書をめくりながらじろりと息子の顔を見た。
墨は当然ながら洗っても落ちず、伊波の顔の一部を黒く染めたままである。
「申し訳ありません……。ですが横川様からいい返事を頂いた以上、一刻も早く願書を出してしまわねばと思いまして。高田屋や船越屋も競ってお役人たちに取り次いでいると聞きましたし」
高田屋と船越屋も、この辺りの有力な酒屋である。しかしこの願書を今日にでも出すことで、伊波屋は一歩先んじることができるはずだった。
久右衛門は笑って頭を掻く息子が濃い隈を作っているのを見て、はあ、と息をつく。
「皆で願書やら株やらを最後に改めてから、今日のうちにこの願書は出しに行く。お前は少し寝なさい」
「分かりました」と伊波は頭を下げて、久右衛門の部屋を後にした。
さてこれで二十日ぶりにちゃんと休める……と思ったが、今こそ藤と春日を探しに行くべきではないのか。
伊波は自分の宿に戻りながら考えた。
しかし、部屋に戻ればどうせ静寂が寝ているだろう。彼女を叩き起こして「さあ二人を探しに行こう」と言う気力が果たして今の自分にあるのか。
それに願書を出したからと言って、御用達の確証はない。万が一にもことが上手く運ばなければ…………やはり今休んでおくべきではないか。
そう思ってしまうのは、やはり疲れのせいだろうか。
「ああ、ちょっと」
聞こえた声にもぼんやりと素通りしそうになって、数歩歩いてから自分に声が掛けられたのだと、伊波は立ち止まった。
振り返れば、声を掛けてきたのは侍である。伊波は慌てて彼の元まで立ち戻った。
「何かご用でしょうか」
「其方、伊波屋の者か?」
「はあ。当代久右衛門の息子にございますが」
伊波が答えると、侍は「左様であるか」と満足気に笑った。
侍はあまり位が高そうには見えない。おそらく下級武士だろう。歳は五十手前ほどに見える。
「ここだけの話だが、」と侍は伊波の耳元に口を寄せた。
「横川様は船越屋にも公的な願書を出してよいと仰ったそうだ。なんでも伊波屋と船越屋、どちらに御用達を頼むかは願書を見て決めるおつもりのようで」
「え……」
それを聞いて、頭の中の眠気はたちまちどこかへ飛んでいった。伊波は侍の顔を呆然と見つめ返す。
…………いや、あり得ることだ。十分に。勘定奉行の横川源吾はどこまでも無駄を嫌う性格なのだから。しかしそうなると……。
嫌な考えが浮かんだ。伊波屋と船越屋では、株の石高も財力も伊波屋の方が上だ。だがそれも、頻繁に船越屋を調べているわけではない。横川が願書を出していいと言うのだから、船越屋は相当な覚悟で挑んでいるのかもしれなかった。
もし、それが伊波屋を上回るものであったら……。
借財の肩代わり二百五十両に加え、冥加金。伊波が提示した額は、伊波屋にとって決して安い額ではない。だが、腹を切る思いの額でもない。
「…………なぜ、それを私に?」
伊波は動揺の中で侍に尋ねた。それを待ってましたとばかりに、侍はほくそ笑む。
「一つ、いい話がある。とある高貴な方の頼みだ。それを聞き入れてくれれば、根回しして確実に伊波屋を御用達に抱えさせると」
伊波は瞬時に考えた。乗るべきか。
…………否、侍の身分はそんな高貴な方の使いには見えない。怪しすぎる。それなら今からでも父に船越屋の件を伝えに行くべきだ。
「結構です」と、そう言うつもりだった。しかし伊波はその時、侍の言葉の続きを待っている自分に気がつく。
…………罠ではないか。船越屋のことは嘘で、伊波屋が勝手な競争意識でより多くの金を藩に払うよう仕向けているとか。
そんな言葉を、伊波の胸の内が囁く。
それも建前だ。本当は…………。
この条件を飲めば、自分の仕事は終わる。藤と春日を探して、仄火を助けに行ける。
そして伊波がそれに拘りたいのは、決して仄火のためではない。
己がためだ。大商人の息子という理由で、誰かを蹴落として生き延びることなど、俺はもう二度と……。
「笹田屋への借金を、一部肩代わりするのだろう。その時に一つ、内密に荷を運んで欲しいのだ」
立ち尽くす伊波の沈黙を肯定と取ったのか、侍は勝手に話し始めた。
そして伊波はつい、それに耳を傾けてしまった。
「荷を……?」
「これだ」
侍はさらに伊波との距離を詰め、体の影に隠すように何かをよこした。
かさり、と伊波の手の上で「荷」は音を立てる。そこには「千両」の文字。
は、と伊波は息を呑んだ。
千両の為替、笹田屋、「高貴な方」。その全てが、伊波の脳内で「久世里進」に結び付く。
風で手から落ちそうになった為替を、伊波は反射的に掴んだ。その手が微かに震える。
まさか伊波がカジュギンカでのことを通して横領を知っているなど、目の前の侍は知る由もないだろう。
なるほど、これを伊波屋が内密に笹田屋に届ければ、久世の横領を証明するものは何もなくなるというわけか。
なれば尚更、受け取るわけにはいかない。伊波は握った為替を、侍の方に押し返そうとした。
「申し訳ありませんが、これは……」
するとその拳が、横から伸びてきた何者かの手によってこちらに押し戻された。
「受け取っておきなさい」
消え入りそうなほど細く小さな囁き声は、伊波の耳にのみ届く。
その手に抵抗するのも忘れて、伊波は目を見開いた。なんともまあ、どこかの絵から抜け出してきたのかと思うほどの、その男の佇まいに。
「な、お前…………!」
侍も驚いた声をあげた。侍と伊波の間に割って入るように立つ彼は、侍の方へと向き直る。
「父上、奇遇でございますね」
「奇遇なものか。知信、お前、つけて来ておったな」
伊波は耳を疑った。
知信。
という事は、この男が噂の「青柳の君」か。
そして父上ということは、この二人は藩主の…………。
「父上、私は目が覚めたのでございます。武家の生まれでありながら、家のことを思う父に歯向かうなど言語道断」
「嘘を申せ。お前が桔梗の言いなりであることは分かっておる。昔からお前には、自分の意思というものはまるでなかった」
「その母上の薬を買う金も、いよいよ尽きようとしているのです。意思がないなどと言っていられましょうか」
知信がそう言うと、その侍———青木知孝の動きが止まった。
「桔梗の身体は、まだ悪いのか」
「ええ。父上もこの前殿に、そう申し上げていらっしゃったでしょう」
「あれは…………」
「とにかく私は、父上にお力添えいたします」
知信は伊波の肩を叩き、「それを持って行きなさい」と告げる。
しかし伊波はそういうわけにもいかない。これを持って帰れば、久世の横領に加担することになってしまう。笹田屋に届けなければ久世の恨みを買って伊波屋の御用達は絶望的、しかしここで断らなければいけないのだ。
動かない伊波に、知信は体を向けた。
「さあ、早く」
その後、知信の口が「いいから」と動いたのを伊波は見逃さなかった。
何となく、動かなければいけないような気がして伊波は一歩後ずさる。そして二歩三歩と、その場から遠ざかって行った。
「父上。私のことが信じられぬのならお伝え頂いても構いませぬ、久世様に」
「…………お前、どこまで知っておる」
「何も存じ上げません」
そう言って身を翻す知信の背に、知孝は「待て!」と声を上げる。
「桔梗が私を助けるような真似をするはずがない。何か企んでおるだろう。…………それとも本当に、お前の意思だとでもいうのか」
「…………母上は、何もご存知ありません」
それ以上は答えずに、知信は「失礼します」と頭を下げてその場を去った。
嘘ではない、桔梗は何も命じてなどいない。
しかしもし、知信の意思というものに従うならば、今日という非番の日はきっと…………。




