第三十六話 上手の緩着岡目見る(後)
「あ、」と春日は顔を上げて、家から出てきた藤を見た。
「今、久世があっちの方に行ったけど。帰ったのかな? あとをつけた方がいいよ、ね…………」
春日はそこで言葉を切った。藤が自身の顔を両手で覆ってしゃがみ込んだからだ。
「ど、どうしたの? 何かあったのかい」
「私…………」
春日はあたふたとしながらも特に何もできずに、ただ横で藤の話を聞く。藤は手を外して、俯きがちに言った。
「……私、間違ってた。笹田屋に借金をしたのは久世里進じゃなくて、その先代である久世武進様だったのよ」
「え?」
「父上は武進様の莫大な借金のことを知って、それを藩に伝えようとしていたの。それを恐れた武進様は跡を継いで家老になった息子に、父上を追放に処するよう命じた」
「追放って…………」
藩のご家老の名前など春日にはさっぱりだが、その言葉の重みは分かった。しかし、藤の家は現に追放されることなく目の前にある。
「久世里進はその言いつけを破って父上を謹慎にすることで、あえて武進様から父上を遠ざけたのよ。父上は後からその事実を知った」
藤は鼻を鳴らして、込み上げてくる涙が落ちないよう上を向いた。しかし夕暮れの強い茜色が、かえって沁みてくるようだ。
「私、何をやっていたのかしら。少しの情報で全て知った気になって、家を守って頂いた恩を仇で返すような真似を……」
春日はしばらくその横顔を見つめていたが、どう慰めればいいのかてんで分からない。はなから余所者の自分が何を言っても、藤を傷付けてしまうのではないかと思った。
「……でも、久世が横領をしているのは事実なんだよね?」
「え…………」
春日の言葉に、こちらを向いた藤の瞳はきょとんとしていた。
まずい、悩んだ挙句一番まずいことを言ってしまったかもしれない。
「いや、その。久世は父親に逆らって藤の家を守ったかもしれないけど、横領は本当だし。なんなら、今度は自分の息子に裏切られたわけだし……。その、連鎖みたいなものを止めるのは必要なんじゃないかな」
一生懸命取り繕ってみるが、藤の表情は動かない。
どうしよう助けて、と縋るようにヨリメと紫苑を見るが、ヨリメは勿論のこと紫苑も何も言ってはくれなかった。
「…………そうよね」
すると藤が、気がついたように言葉を発した。
「横領は横領。恩義があるからって、そもそもの原因は久世家にあるんだもの。父上が告発しようとしたのに、その娘が黙ってていいわけない」
そして袖の端で目元を拭うと、すっと立ち上がる。
「ごめんなさい。せっかく春日にも手伝ってもらってるのに、こんなことで揺らいじゃ駄目よね。私ってば、ちょっと感情に流されすぎるみたい」
藤は「ありがとう、目が覚めた」と凛々しく春日に笑った。
それに少しの間呆けていた春日だったが、急にその首がぎゅっと締まる。
「うぐ、」
見ると大人しくしていたヨリメが春日の背中にぶら下がっていた。春日は後ろ手でヨリメを捕まえて、前に抱え直す。
「じゃ、じゃあ僕、久世の見張りに戻るよ」
「うん、ありがとう」
春日は一度藤を振り返ってから、久世が歩いて行った道を追った。
後ろ姿を見送って、藤と紫苑は家へと戻る。紫苑はない肩をすくめたいような気持ちでため息をついた。
「藤って、案外近くのことは見えてないわよね……」
「そうよね。父上の仇を取ろうと、ずっと調べていたのに……」
「いやそっちじゃなくて」
眉を下げる藤に紫苑が慌てて言うと、藤は今度は瞬きを繰り返し、「じゃあなんのことよ」と首を傾げた。
*
お松でもない。小笠原でもない。では他に誰が横領を知り得るというのか。
久世はまた深く笠を被って、組屋敷の通りを歩いていた。仕事が終わってから小笠原家に立ち寄ったので、もう今日は屋敷に帰るつもりである。
……小笠原は、先代のことすら誰にも話していないようだった。それはそうか、久世家に三千両もの借金があると知れればもっと騒ぎになっている筈である。
今は亡き父・久世武進は、最初は家老になる機会を掴むため、笹田屋から少し金を借りただけであったという。
恐らくは無事家老になって気が大きくなったのか。いつでも返せると思っていたのか。浪費癖は一度つくと中々治らない。久世が父の家督を継いだときには、利子だけで信じられない額になっていた。
幼い頃の贅沢癖が治らないのは、姉も同じだ。先日横川家を訪れた際に目にした調度品の数々は、久世に父親の姿を思い出させた。
…………証拠の為替は、今は久世の元にはない。しかし無事為替を処分できても、情報の出所が分からなければ依然として安心はできない。
久世にはもう、心当たりがなかった。
その時、笠が視界を邪魔して誰かにぶつかった。
「! 申し訳ございません。お怪我はありませぬか」
相手の声は若い。
本来なら無礼極まりないが、今の久世は身分を隠しているので騒ぎ立てるわけにはいかなかった。
「いえ、こちらこそ……」
久世は相手の顔を見た瞬間、思わず、殆ど反射的にその肩を押し返してしまった。男は勢い余って地面に崩れる。
なぜここに。なぜここに、知親が。
震える足が動かない。まさか私の居場所を突き止めて…………。
そこで久世は気がついた。
知親ではない。着物は煤けているし、顔もよく見れば、知親よりも青木知孝に似た…………。
「あの、父がどうかいたしましたか」
地面に座ったままの男は呆気に取られた様子で口を動かした。まずい、考えていたことが口に出ていたか。
「いえ、失礼」
突き飛ばしておいてそのまま立ち去るなど不躾にもほどがあるが、今の久世にはそこまで頭を回す余裕がなかった。
兄か。よく似ている……本当に心臓に悪い。父親の名前をつい溢してしまったが、大丈夫だろうか。
いや、本来なら家老の久世が一手代の知孝の顔を知るはずもないのだ。かえって久世の正体をごまかせたかもしれない。
藩主の兄が組屋敷に住んでいるのだから、それは今更ながら久世に此度の養子取りの歪さを感じさせた。
春日が久世を追いかけていると、道の真ん中で男が一人座り込んでいた。刀をさしているので武士には違いないが、着ている物の質は春日とそう変わらない。
立ち上がる様子のない男を前に春日も立ち止まる。あまり近づきたくないが、久世を追うためにはこの道を通らなければならないのでどうしようもない。
ゆっくりと歩みを進めると、俯く男の手が僅かに動いていることに春日は気がついた。
「…………あの、何をなさってるんですか」
「え?」
声に顔を上げた男に、春日は驚きのあまり思わず後ずさった。
「お、お殿様!?」
その顔は知親そのものだったからだ。
どうしてこんなところに。まさか、久世を追って……?
しかし、「あ、いや、私は……」と言う男の声が、知親とは違った。よく見れば着物も違うし、知親よりも細い。知親よりも少し日に焼けている。
と、いうことは…………。確か藤が話していた。殿様にそっくりな、その兄弟の話。
「青柳の君」!!
春日は衝撃で動けなかった。彼の顔は精巧に作られた人形のように美しい。
こんな人が、藤の幼馴染…………。
するとその手が雑草を握っていることに気がついた。
「えっとそれ、雑草ですよね?」
「ああ、そうです。家の前に生えているのに気がついて、つい摘むのに夢中に……」
なんで自分にまで敬語なんだ、と思いつつ、春日は彼の手を取って立ち上がるのを助ける。ついでに久世について聞いておくことにした。
「あの、さっきここを男が通りませんでした?」
「通られましたよ。どうも父の知り合いのようでした。……そういう貴方は、弟を知っているようですが」
「い、いや…………」
春日はぎょっとして目を逸らした。すると「青柳の君」はにっこりと美しい笑みを浮かべ、春日の手を離す。
「手を貸して頂き有難うございました。夜道は暗いので、お気をつけて」
「はあ……どうも」
綺麗だけど、変な人だ。一体何なんだと思いながらも、春日は背を向けて久世の跡を追った。
*
余談だが、久世里進が「青柳の君」こと知信を突き飛ばしたのは左手である。
そうなれば当然、知信には久世の刀が見える。そこにあしらわれた家紋も見える。
知信は行燈の光を背に青木家の縁側に座って庭を見ながら、はてと考えた。
なぜ家老の久世里進がこんな寂れた組屋敷まで。しかも父の知孝を知っているようだ。
そして知親の知り合いが、久世を追っていた。
笹田屋がご用差し止めになった理由は、藩士たちには公にされていない。
…………同じ郡奉行だから分かるが、知孝は明日非番である。奇遇なことに知信も非番である。
しかし、明日はせっかくだから畑の種蒔きをしようと思っていたのだが、どうするべきか……。
「知信。武士たるもの義を重んじ、正しいことを正しく行わねばなりません」
桔梗の声に、知信はハッと奥の間を振り返った。しかしそこからはか細く咳き込む声が聞こえるのみ。
幻聴か。
無理もない、母は何十回もその言葉を知信ら兄弟に言ってきたのだから。
知信は静かにため息をついた。




