第三十六話 上手の緩着岡目見る(前)
今日も、久世に怪しい動きはなかった。
もう久世を見張って何日目になるだろうか、藤はいい加減に焦りを感じていた。
笹田屋がご用差し止めになったことは知親から知らされていたので、藤たちは今、横領の確固たる証拠である為替の隠し場所を探している。怪しいのは数日前に立ち寄った横川家だが、お松に為替を託したとは考えにくい。いくら姉の家とは言え、勘定奉行の家に隠すなど大胆すぎる。
でも、もしかするとその裏をかいて…………いや、まさかね。
家路を辿りながら、藤はああでもないこうでもないと考える。横を歩く紫苑がそれを心配そうに見上げていた。
今日は春日が「あとは見張っておくから」と交代してくれた。最近は日中は藤が、夜間は春日が見張るのが定例となっている。とはいえあまり家を留守にしても心配されるので、一日中春日に任せてしまうこともあるのだが…………。
藤は夕暮れの中を早歩きで家に帰る。父が戻る前に夕飯を作ってしまわないと。
その時、どこからか視線を感じて藤は立ち止まった。
「ちょっと、どうしたの?」
「…………誰か見てるわ」
どこかの情報屋か、それとも久世の…………。
すると、その視線は案外近いところからこちらを見ていた。
「春日!?」
「え、やっぱり藤なの?」
さっき別れたばかりの春日は、なぜか慎重に路地の影からこちらへと出て来た。
「やっぱりって、どこからどう見ても藤じゃない」
呆れたように言う紫苑に対し、春日は俯いて自身の頭を触る。
「いや、いつもと違うから……その、髪とか服とか」
それを聞いて、藤は「ああ、」と今気がついたというように自分の服装を見直した。
「だってこの格好だとすぐに武家の娘だって分かってしまうでしょう。武家の娘が一人で出歩いていたらおかしいじゃない」
「そうなんだ」と目を合わせようとしない春日と、家の近くの組屋敷の風景がなんだか似合わなくて、藤はそこではっと気がついた。
「ねえ、どうしてこんなところに? 久世を見張ってくれているんじゃ…………」
「あ、そうだった!! どうしよう、もう見失っちゃったかな」
「あんた何やってんのよ」とヨリメを背に乗せてため息をつく紫苑の横で、藤は春日の言葉を頭の中で繰り返す。
見失ったって、もしかして…………。
「久世は、今この組屋敷にいるの?」
「そうだよ。あっちの方に歩いていったんだ」
春日が指差す先は、まさに藤が今帰ろうとしていた方角である。
薄ら寒い心地がした。
「藤、どこ行くの?」
「久世のところよ」
そう言って歩みを早める藤の後を、よく分からないまま春日たちも追う。
藤は自分の心臓の音が早まっていくのが、はっきりと聞こえた。
*
藤が初めて対峙した夢病は、父親の魂を覗いた時のものである。勘定方に勤めていた父が、謹慎となって間もなくのことだった。
「小笠原、そなたを謹慎に処す」
見えたのは男の足元だった。おそらくこの記憶の主である父親の前に立っているのだろう。
「…………っ、かようなことがいつまでも隠し通せる訳がありますまい。私の口を封じたとて、また誰かが必ず…………」
「口を慎め。謹慎より重い罰に処されたいか」
そう言い残して、男の足はどこか奥の方へと歩き出した。その後ろ姿を、襖が覆い隠す。
「久世殿!!」
父の叫び声で、魂が黒く溶けた。
小笠原家の玄関口には、弟達の草履の他に、父の履き物が置いてあった。
今は父の謹慎も解かれたが、添役という、つまりは閑職に追いやられている。母は縁者の筋を辿って奉公に出ていて、あまり家には帰ってこない。家事と二人の弟の面倒をみるのは藤の仕事だった。
だが、父が帰る時間にしてはやけに早い。早すぎる。
そこで藤は、父の履き物の隣に知らない草履がある事に気がついた。またどくりと、嫌な汗をかく。
「藤?」
開いたままの戸からそっと顔を覗かせた紫苑に、藤はしゃがみ込んだ。
「紫苑、春日たちには外で待っているように言って。もしかしたら、今家に…………」
「姉上?」
はっと藤が振り返ると、家の中から弟たちが顔を見せた。藤は紫苑に目だけで合図して、扉を閉める。
「父上が探しておられましたよ、姉上はどこに行かれたのかと…………」
歳の離れた九つと十二の弟は、藤の外出については菓子でもって口止めしてある。父に姉の居場所を聞かれて随分困ったであろう。
「ねえ、どなたかいらしてるの?」
藤が草履を脱いで居間に上がりながら聞くと、弟たちは後ろの部屋を振り返って頷いた。その部屋からは、確かに二人分の話し声が聞こえてくる。
藤は息を呑んで、音を立てないよう一歩一歩襖の閉まった部屋へと近づいていく。
「あ、姉上……!」
慌てるような上の弟に、藤は「静かに」と口の前で指を立てた。そろりそろりと近づくにつれ、声ははっきりと聞こえるようになる。
「いえ、そのような…………。私のような者が殿にお会いするなど。総拝の時ですら、頭を下げていたのでお顔を拝見することもありませんでしたのに」
聞こえてくる父の声は、どうやら知親のことを話しているらしい。藤は一層息を詰めて、襖の向こうに聞き入った。
「…………真であるな」
…………手が震えた。
短く聞こえたその声は確かに、父の魂、そしてお松の魂に映った久世里進の声だった。
……そうか。笹田屋がご用差し止めになったから。久世はどうして横領が殿に知られたのか、その情報の出所を探しているんだわ。
早く脈打つ心臓とは裏腹に、妙に頭は冷静でそんなことを考える。
なんと身勝手な。横領を知った父上にあらぬ理由で謹慎を押し付け、あまつさえそれがばれそうになれば堂々と疑いに来るなんて。一体どういうつもりなの。
すると襖の向こうで父が何かを受け答えした後、畳に布が擦れ、人が立ち上がる音がした。
藤は慌てて襖から離れ、弟たちの肩を抱いて別の部屋へと移動する。その部屋の襖を閉めようと藤が立ち上がった時、久世が姿を現した。
「あ…………」
近くで見る久世は、一見人のよさそうな顔をしていた。しかしその瞳は冷たく、今は笑み一つ浮かべていない。
藤が動けずにいると、後ろから弟に袖を引っ張られて平伏するような形になる。同じように平伏する弟たちに挟まれながら、藤もそうしないわけにはいかない。
どうしてこんな男に、と藤は目を固く閉じて歯を食いしばっていた。
久世は藤たちを一瞥すると、その足音は玄関に向かって遠ざかっていく。その後ろに、見送りをする父の足音も遅れて響いた。
久世が家を出た頃合いを見計らって、藤は顔を上げる。弟達に聞こえないよう部屋の襖も玄関も閉めて、まだ軒先で頭を下げている父に駆け寄った。
「父上!」
「藤。お前どこに行って……」
「父上、なぜにございますか? 私、存じ上げております。……父上を偽りの理由で謹慎に処したのは、久世様でいらっしゃることを」
「お前、なぜそれを」
藤の父・小笠原行矩は焦ったように娘を見た。しかし藤の目がどこまでも真っ直ぐに自身を見つめ返していることに気がつくと、問いただすのを諦める。藤は昔から、何でもよく見通す娘であったからだ。
「父上、なぜですか。このままいいようにされていては、小笠原の名折れではありませぬか!」
「藤」
行矩は藤の肩を掴んだ。そして眉根を寄せて悩んだ挙句、彼は重々しく切り出す。
「お前は思い違いをしておる」
「…………思い違い?」
「ああ。久世様は、久世里進様は…………」




