第三十五話 雨中の羊に情け無用(後)
その晩仄火が止まったのは野営地ではなく、そこから少し歩いた空き家だった。スイヒャによると、ここに住んでいた人間はトヤクとの戦を恐れて城下町に移った者が多いそうだ。
二階建ての家の、仄火は一階で寝ることにする。大きな家具がそのままになっている家には布団も置いてあった。ここの寝具はかなり分厚い敷布団の上に布を被って寝るのが主流らしく、それは城の中と同じだ。正直、板間張りの家で薄い布団を敷いて寝るよりも寝心地はよかった。
そうやってしばらく背中にあたる布団の柔らかさを感じていた仄火だったが、さて、と弾みをつけて起き上がる。
そして地図を手に、家の扉からそっと顔を覗かせた。
シムアが泊まっているのは隣の家だ。一応彼女は人質である仄火の護衛も兼ねているため、すぐそこの場所にいる。
仄火が戸を叩くと、しばらくしてその戸は開いたが……。
仄火は寒いものを感じて思わず後ずさった。扉を開けたシムアは、ご丁寧に槍の袋まで外して先をこちらに向けていたからだ。
「お、俺だって」
そう言ったのが通じたわけではないだろうが、シムアは仄火の顔を見て槍を下ろす。シムアは何かを言おうと口を開きかけて、やっぱり通じないことを思い出したのかもごもごと口を動かした。
家の中に入った仄火が戸を閉めると、シムアは机の上の蝋燭に火打ち石を使って火をつけた。もしかしたら眠っていたのかもしれない。そうだとしたら、仄火が戸を叩いてすぐ槍を持って出てきたのは大した瞬発力である。
「スイヒャ?」
仄火は首を振って、彼の不在を表した。怪訝な顔をするシムアに、仄火は持って来た地図を机の上に広げる。今日調べた神社らしきものや明日からの道のりが描かれた地図を、シムアも上から覗きこんだ。
仄火は腕を組んで考える。言葉の通じないシムアに、ここからは身振り手振りだけが唯一の言葉だ。
*
翌朝。もはやけたたましいと言ってもいいほどの鳥の声に、仄火はぼんやりと閉じていただけの瞼を開く。
大体、戦の前線になろうかという場所の近くでのんびりと寝られるものか。それに加えて、この山では夜でも鳥が鳴く。それが時々人の言葉を話しているような気がして落ち着かないのだ。
…………なにが、妖は街には滅多に近づかない、だ。
街では尻尾が分かれた猫が歩いているし、昨日山ではやたらと大きい狸が走っているのを見た。流石はカジュギンカの住民と言うべきか、ユマの人々はきっとそういう種類の猫や鳥だと思っているのだろう。
するとコンコンと戸が叩かれる音の後、「起きてますか?」と言うスイヒャの声がした。
仄火は疲労の残る身体を柔らかい布団から無理やり起こして、戸に向かって歩く。
「…………はい」
「あら、眠れませんでしたか?」
仄火の顔を見て言うスイヒャの顔はすっきりとしている。
「何か用か?」
「はい。今日ここを出ますよね? 私言葉分かるから、シムア様たちに着いて行った方がいいかと思って」
「あー、なるほど。そりゃ助かるな。言葉が通じないのは思ったより厳しい」
仄火はそう言って目を覚ますため手で頬を叩き、戸をスイヒャに持たせたまま部屋に戻って刀を腰にさした。
「そんじゃ出発前に、目覚ましがてらの朝の散歩に付き合ってくれねえか?」
仄火の大きな声にスイヒャは少し驚いていたが、「私がお供でよろしければ」と笑った。
しばらく歩けば、野営地からは離れた山の付近に出た。スイヒャは仄火の前を、地図を手に歩いている。
「もう少し登ると、見晴らしのいいところあります」
「えーっと」と地図をなぞって方角を確かめるスイヒャに、仄火も横から地図を見た。すると腰に下げた刀がスイヒャの胴にぶつかる。
「ああ、悪い」
「いえ。……それはユマカの刀ですね。私が持っているものより随分立派です」
スイヒャが懐のあたりから取り出したのは、ぎざぎざとした形の小刀だった。ふと、仄火は既視感を覚える。
「それ、ガラって奴の武器と同じだな。…………やっぱお前も、隠密だろ」
「え?」
「学者ってわけでもなさそうだし、仕事のためにこっちの言葉を覚えたんだろ? それならガラと同じ、ハルイの隠密かと思って」
「そ、その通りです。よく分かりましたね」
スイヒャは感心したように武器をしまった。しかし反対に、仄火は刀を抜く。何かと思いながら、スイヒャはその刃が反射する光を見つめていた。
「で、ハルイの命で言葉が通じない俺の手助けに来たと」
「はい」
「…………じゃあ、俺の名前を言ってみろよ」
仄火は、刀の先をスイヒャに向けた。
「ハルイから聞いてるだろ?」
「え…………あ、」
仄火はカタリ、と刀を持ち替えて、刃をスイヒャの首へと傾けた。
「おかしいよな。俺の言葉が話せる奴は少ないらしいし、サロもガラも忙しい。なのにお前という適任がいたなら、どうして最初から着いてこない?」
「そっそれは……! 私はこの近くの野営地に留まっていて、昨日、長の命受けてこちら来たのです」
スイヒャは迫る刀に身動きも取れず、冷や汗をかきながら息を切らした。しかし、仄火の目は一層細められる。
「それも、嘘だろ?」
「嘘では…………」
「シムアに聞いた。アロの隠密だったお前は、同盟が切れる直前にトヤクへの内密な使者として立ち、そこから行方知れずだったらしいな」
昨夜、仄火が身振り手振りでシムアから聞き出したことだった。スイヒャと出会った時、シムアとの会話で「トヤク」という言葉が出てきたのが気になったからだ。
実際シムアも怪しんではいたようで、だからスイヒャに差し出された魚を受け取らなかった。
…………今度は、スイヒャの反論はなかった。その沈黙はもはや、肯定と取れる。
「同盟が切れた時トヤクにいたお前は、アロに帰れなくなったはずだ。だが、今ここにいるってことは」
その時、仄火の体に強い衝撃が走った。突き飛ばされて倒れた体の前に、一本の矢が落ちる。
矢を落としたのはシムアの槍だった。
「カクレロ!!」
シムアは木の盾を仄火に持たせると、茂みの向こうへと押しやる。
「な…………」
何が起こった。
押しやられて困惑する仄火の耳に、ヒュンヒュンと矢が飛ぶ音が聞こえる。攻撃されているのだ。
仄火はすぐには力の入らない手で盾を押さえながら、恐る恐る向こうの様子を伺う。こちらに矢が飛んでこないということはシムアが攻撃されているはずだが、彼女の姿が見当たらない。
すると、木の上から人が落ちてきた。甲冑を付けて弓を持った人々が左から順に落ちていく。
その時、仄火の目はシムアを捉えた。彼女は木の上を走るように矢を避け、その槍で持って次々に敵を貫いていく。目にも止まらぬ速さで、どんどん宙を飛ぶ矢の数も減っていった。
仄火は盾を持つのと反対側の手に刀を握っているのを確かめ、スイヒャを捕まえようと立ち上がった。
おそらく敵はトヤクの兵士。スイヒャはやはり、トヤクの手に落ちたのだ。
すると、仄火の首に冷たいものが当たった。
「エメ、サガリク! ソユサリスルバ!!」
仄火の首に自身の武器をつき当て、スイヒャは叫ぶ。
それを聞いたシムアははっとしたようにこちらを振り向き、苦々しい顔で木から降りた。そして槍を構えながらもこちらに近づいて来る。
仄火はもはや恐怖も忘れて、握った刀でスイヒャに反撃しようと試みた。だが、首元の刃はあと一寸でも動けば仄火の喉を切り裂くだろう。
どうする。スイヒャの意識をもう少しでも逸らすことができれば…………!
その目の端、向こうの茂みより遥か遠くに、こちらに向かって弓を構えるトヤク兵の姿が見えた。その矛先は…………。
「避けろ!」
仄火が叫ぶと同時に矢の鈍い音がして、シムアの姿が目の前で崩れ落ちた。




