第三十五話 雨中の羊に情け無用(前)
ぎらりと光るシムアの瞳に、仄火はどうしたものかと考えた。
「とりあえず、『止まれ』と『隠れろ』は教えた」
サロがそう言ってシムアの背を軽く叩くと、シムアは「トマレ」「カクレロ」とげんなりした顔で繰り返す。
「なんか、言葉選びが物騒すぎやしねえか……」
「何を言っている、トヤクとの国境近くまで行くんだ。だからこいつを連れて行くように長は言ってるんだろう」
眉を顰める仄火に、サロは呆れたように返す。
あの地図騒動から二日。ハルイはトヤクの国境付近で「黒い龍」に関する調べを行うことを決定した。調査に向かうのはアロの兵士二人、シムア、そして仄火の四人である。
「確かに『黒い龍』について調べていたのは俺だが、人質は死んだら意味ねえんだろ? そんなにトヤクの近くまで行っていいのかよ」
「調べている間は、国境近くの兵の野営地に泊まれるよう話を通してある。それにこいつを連れていけば熊が出ても大丈夫だ」
当のシムアはとんでもなく不服そうである。
本当に大丈夫なのか、と思いつつ仄火は腰紐に挟んでいた地図を開いた。その横には一時的に返された刀もささっている。
おそらく『黒い龍』に関する何かが残っているとすれば、人目につかない場所だろう。しかし国境付近なので未開の地は多く、かなり骨が折れそうだ。あとは報告をもとに、トヤクの野営地の辺りを避けながら調べていく。
サロが同じ地図を取り出してシムアにユマの言葉で何かを説明していた。シムアも頷きながら時折何かを聞き返している。
「…………あの、ちなみにこっちの言葉が喋れる人間は……」
仄火は残りの二人の兵をちらりと見るが、彼らは黙ってこちらを見ているだけだ。サロは説明を一度止めて、視線を仄火へと移した。
「いない」
「いねえのかよ。あの、ガラって奴は?」
「ガラはアロの…………あれだ、隠密だからな。暇じゃないんだ。もちろん俺も暇じゃない」
サロはそう言い切ると、地図を丸めてシムアに渡した。
「カギイオレル。…………仄火殿も、武運を祈る」
そんな言葉をどこで覚えるのかと、仄火は城の中へと戻っていくサロの姿を見送った。するとシムアが兵の二人を引き連れて歩き出すので、仄火もあとに続く。
…………本当に、大丈夫なのだろうか。
あの急勾配の階段を降りてカヒ城に沿うようにその下をずっと歩いて行くと、まずは最初の目的地に着いた。国境の山を登るための細い階段だ。
ハルイの話では、まだトヤクと同盟国であった際、内密な使者を出すのにこの道を使っていたらしい。
シムアを含めた三人は器用にすいすいと山道を登って行ってしまうので、仄火はそれに追いつくだけで必死である。
そこで気になったのは、他の二人に比べてシムアがやけに軽装備であることだ。あの黒い胴当ては身につけているが、その下は腕も足も出た服一枚に、穂先を布袋で覆ってある槍一本。だというのに、その肌が尖った葉や幹で傷付く様子は一向にない。やはり慣れているからなのか。
この地では珍しく仄火より背の低い彼女が、男二人付き従えるどころかアロ軍の一番槍だというのだから、やっぱりこの国のことはよく分からない。
階段を登り切って山の中腹あたりに着くと、道は上に行くことをやめて平行に伸び始めた。
道なき道には、微かな木漏れ日が落ちるのみだ。
ふと前を見れば、二人の男は歩きながらもあちこち見回して何かをシムアに言い、それを聞いた彼女が手持ちの地図に何かを書き込んでいる。仄火も負けじと一人で山の中を探した。
しかし、やはり見渡す限り山、山、山。
大体この山に「黒い龍」が眠っていたとして、それを叩き起こすなんてできるのだろうか。ハクがいれば何かを感じ取れたのかもしれないが…………。
その時、僅かだが木々の向こうに淡い黄色が見えた気がした。最初は陽光の反射かと思ったが、どうも違う。
山の頂上近くにあるその黄色に向かって、仄火は道から一歩上へと乗り出した。二歩、三歩と近づけば、どうやらその黄色は花の色のようだ。
顔にかかる髪を払いのけて眩しさに目を細めながら山を登ると、突然その服がぐいと後ろに引っ張られた。
「うわっ」
「トマレ」
崩れかけた体制を立て直して仄火が振り返ると、いつの間にかシムアが立っていた。彼女は険しい顔で苛立ちを露わに、山の向こう側を指で指す。
「トヤク!」
そういえば、この山は国境なのだ。向こう側はトヤクの領土。シムアはトヤクに見つからないよう隠れろと言いたいのだろう。
仄火は「分かった」という意味でこくこくと頷いた。シムアも同じように頷き返す。
危ない。つい気を取られてトヤクの兵に見つかるところだった。
シムアに続いて道へと戻る仄火は、そう思いながらもう一度黄色の花を振り返った。
そして気がついた。なぜうっかりするほどあの花が気に掛かったのか。
普通、植物は住めるところが決まっているのでその場所に集まって生える。
だがその花は群れることなくただ一本、その景色の中から孤立するように一本だけで立っていたのだ。
*
それからも歩き続けたが、一つ神社ものがある以外は何もない山だった。
もちろんその神社は調べたのだが、古びた小さなその建物には「黒い龍」に関するようなことは何もなく、ただ今にも崩れかかりそうであった。
そして仄火がようやく言葉の通じる相手に出会ったのは、山を降り、麓の野営地に着いた時である。
「貴方が、野営地で言葉通じないと困るからと、長の命でやって来ました」
人のよさそうな明るい青年は、少しつっかえながらも朗らかにそう言った。
仄火が馴染みのある言葉にようやく安心する横で、シムアは驚いたように青年を見る。
「スイヒャ!?」
「ラア、シハヌシムアサ。ピサシミユリ」
「ユ、イヨニシバク……」
「ペルアチュライシダ、トヤクヨリヌギキタ。コルシ、シバホシラレテシ」
「トヤク」しか聞き取れなかった仄火が何かを話し続ける二人を見ていると、青年の方がそれに気がついた。
「ああすみません。私、スイヒャと言います」
「スイヒャ?」
なんとも言いづらい名前である。発音が独特で、仄火は彼らのようにその名前を滑らかに言えなかった。
「二人は知り合いなのか?」
「はい、私はカヒ城で働いているので。シムア様は一番強いです。だから皆安心、喜んでます」
そう言ってスイヒャは野営地の人々を見渡す。
確かに彼の言うように野営地の兵士達は皆一様に湧き立って、見ればシムアに椅子を用意し、飲み物まで出している。
野営地そのものは木に布を張った簡素な作りだが、シムアがそうしているとまるで戦の陣で大将が構えているようであった。
「アロは、トヤク以外と戦をしたことはあるのか?」
「いいえ。ですが同盟国として、トヤクに協力することがありました。シムア様はそこで、『アロの一番槍』として有名なったのです」
野営地での食事は流石に城でのものほど豪華ではなかったが、獲ってきたばかりと見られる魚や肉が焼かれる音は食欲を誘った。
兵士たちは近くにそれぞれ布を張って寝泊まりし、偉い人間は近くの民家や空き家を利用しているらしい。しかし、食事だけは全体で煮炊きして食べるようだ。
シムアがここの兵糧を食べ尽くすのではないかという勢いで口を動かすのを見ながら、仄火も甘い味付けの肉を頬張る。
「ヨルシリハ、ユニシハヌアグ」とスイヒャが自分の魚を一尾シムアに差し出したが、シムアは首を横に振った。
「ユレコハヌスニ」
スイヒャは差し出した魚を引っ込めて、自分で齧った。「お気に召さなかったようで」と隣に座る仄火に笑う。シムアはさっきから肉ばかり食べているし、偏食なのかもしれない。が…………。
仄火は大皿からまた大量の料理を自分の器に移すシムアを見た。
「…………なあ、アロでは何人か俺の言葉が分かる奴に会ったんだが、この国では喋れる人間も結構多いのか?」
スイヒャは魚の骨を取りながら、仄火の問いに少し考えるような様子を見せた。
「……多くないです。でもアロは一番ユマカ近いから、他の国よりユマカのこと知ってます」
「でも、アロの長と家臣のサロっていう二人は特別こっちの言葉が上手くないか? 城で働いてたなら知ってるよな?」
仄火が聞くと、スイヒャは「もちろん」とにっこり笑った。
「長の一族とクウ家は特別です。あなたたちが喋る言葉記録して、それを子供の頃から教わるのです」
「クウ家?」
「サロ様の家です。クウ家はずっとリラン……一番偉い家臣です」
なるほど、それであんなに上手いわけだ。
ガラもこのスイヒャも、言っていることは分かるがどことなく辿々《たどたど》しさは抜けない。それに比べて、ハルイとサロは仄火たちとほとんど変わらないように喋る。その違いがずっと、仄火には気になっていたのだ。
そしてサロは、現世でいう家老のような役目を果たしているらしい。今朝「忙しい」と言っていたサロの顔が思い出された。
「なるほどなあ…………」
仄火はスイヒャと同じ魚を取って食べた。香ばしくて厚い身に齧り付くと、ふいに小骨が口の中を突いた。




