第三十四話 玉箒だってはらえない(後)
久世が、この屋敷に。
伊波は去り際に横川家の庭を覗き込んでみたが、そこに人影はない。
流石に無理かと思いつつ、では久世のことを見張っている藤や春日が近くにいるのではないかとあたりを見るも、やはり誰もいない。
諦めた伊波は籠に乗り込む。すると、角の向こうから手代が一人、血相を変えてばたばたと駆け込んで来た。
「ああ、若旦那! どうしましょう、こっちの馬方が」
「馬方? どうかしたのか?」
馬方とは、馬を飼育し荷を乗せて運ぶ仕事の者である。
店から長見まで酒樽を運ぶ馬は確保できたが、困ったことにその馬方が「帰りは魚屋に頼まれた荷を長見から運びたい」と言うのだ。
とはいえ、無理に馬方を買い取って魚屋と禍根を残すわけにもいかない。そこで帰りは長見の馬方に空樽の回収を頼もうとしたのだが…………。
「あいつら、『他所の奴らを手伝うのは長見の商人に申し訳がたたねえ』って、四倍の運賃をねだってきたんです」
「四倍だと!?」
伊波は思わず、動き出す前の籠から身を乗り出す。
足元を見られるのは承知の上だった。しかし、四倍とは…………。いくら何でも、空樽の回収にそんな金を掛けては大損だ。
「……分かった。俺が直接行って話すよ。籠は戻しておいてくれ」
「あ、ちょっと若旦那!?」
馬方のところまでなら、歩いて行った方が早い。籠から飛び出して歩き出す伊波を、手代たちは慌てて追いかけた。
「…………ねえ今、伊波の声が聞こえなかった?」
「え? 本当に?」
春日の呟きに、藤は櫓の上から目を凝らす。しかし見えるのは、横川家の屋敷の前に止まる籠一つだけであった。
「いないわよ。伊波みたいな目立つ格好、すぐに分かると思うけど……」
「じゃあ聞き間違いかなぁ」
「でも、ユマのところに行ってから仄火も伊波も音沙汰ないわよね。二人とも無事だといいんだけど…………。あ!」
途端に大きな声をあげて、藤は目を細めた。久世里進がお松の部屋から出てきたのだ。そのままやって来た男と二人連れ立って、屋敷の別の部屋へと入って行く。
「…………一体、久世は何をしに横川家に来たのかしら……?」
そう言って振り向く藤に、春日はさっぱり分からないと首を捻った。
*
ふと、夜に混じる群青の暖簾を目の端に捉え、伊波は立ち止まった。
……ここは確か、仄火の家ではないか。見れば暖簾の奥には一人の少年が座っている。
「少しばかり待っててくれ」と手代たちに声をかけて、伊波は屋台のそばへと歩き出した。
「…………いらっしゃい」
まさか伊波が屋台の方に来るとは思っていなかったのか、少年は目を丸くしている。
…………弟? しかし、丁度元服前ぐらいに見える少年の外見は、まったくと言っていいほど仄火に重なるところはない。
そこで伊波はふと、仄火がハクに「清を頼む」と言い残した言葉を思い出す。
「……清ってのは、お前のことかい?」
伊波が暖簾を片手であげて言うと、少年は驚いた表情を警戒へと変えた。
「そうですけど…………貴方は?」
「俺は伊波。仄火から聞いてないか?」
清は「伊波?」とその言葉を繰り返した後、引いていた身体を勢いよく乗り出した。
「じゃあ、貴方も九葉山で…………!」
「ああ。すまないね、俺の代わりに仄火は人質に取られてしまった。謝るのもおかしいかもしれないけれど……」
「…………いえ、仕方がないですよ。伊波さんは今、藤さんと春日さんを探しているのでしたか。ハクさんから聞きました」
実際、伊波の装いは清が仄火の話から想像していた人物とはかなり異なった。髪はざんばらではなくきっちりと結わえてあるし、下駄ではなく草履を履いている。汗を拭う姿は飄々《ひょうひょう》とした、と言うより実直な商人の姿に他ならない。
だからてっきり、必死で藤と春日を探しているところなのだろうと清は思ったのだが……。
清の言葉に伊波は下唇を噛んで目を逸らした。
「……実は、思わぬことに家の方がかなり忙しくなってしまってね。もちろん藤と春日も探しちゃいるが、正直に言うと寝る暇もないんだ。今も、そこの馬方に話を付けに行くところさ」
「あ、そうでしたか…………」
俯く清に、伊波は申し訳ないやら心配やらで、とにかくかける言葉を探した。すると持て余した片手が、ふと商品の紙人形にあたる。
「…………これ、もらっていくよ。いくらだい?」
「え? ああ、二十文です」
伊波は腰に下げた巾着を開けると、中から一連になった百文を取り出してじゃらりと屋台の上に置いた。
「釣りは取っておきな」
「そ、そんな! こんなにもらえませんよ」
清は急いで百文の紐を解いて、八十文を返そうとした。
しかし向こうで手代たちが焦ったように足踏みするのを見た伊波は、笑ってその場を去ろうとする。思わず、清は金を置いてその袖を掴んだ。
「あの、馬方の差配の権八さんは、弱いのに大の酒好きなんです。酔いが回るとすぐに上機嫌になるとか」
振り向いた伊波はしばらく瞬きを繰り返していたが、清の意図を理解すると「そりゃあいい」と目を細めた。
「あ、若旦那。ようやく戻って来なさった。どうされたんです?」
「ちょっと情報屋のところにね。おかげでいいことが知れた」
「情報屋?」
はて、と眉間に皺を寄せる手代たち。伊波は紙人形を巾着に入れ、そしてごまかすような、企むような笑みを浮かべた。
「馬方のところへ行く前に、あれを用意してくれ。旦那様が持たせて下さった、『奥の手』をね」
*
伊波は二杯目の盃をごくり、と飲み干した。
「…………では、空樽と一緒に運んだ長見の野菜・炭・薪を、商人に売ることができるようこちらで口利きしておきます。ついでに、空樽を運ぶ度に、余った酒を馬方の皆様と権八殿に振る舞いましょう」
「なに、この酒をか!? それはええのう、これは格別な酒じゃ」
向かいでもごくり、と酒を煽る権八は、話に聞いた通りすっかり上機嫌で三杯目を注がせている。
「いや、これと同じ酒というわけでは……」と伊波が戸惑ったように言うも、権八は話を聞いていないようだった。
まあいいか、他にも美味い酒はいくらでもあるのだから。
「それでは、運賃は四倍の五百六十文ではなく、二百八十文で。宜しいでしょうか?」
「宜しい宜しい。こんなに美味い酒が飲めるならなんでも宜しいぞお」
赤い顔の権八は墨に親指を浸すと、請書に黒印を押した。伊波は「確かに」と両手でそれを受け取る。
「では、手前共はこれにて」
酔っぱらいの宴会からはさっさと逃げるが吉である。伊波屋一行は酒瓶を残して、にこにこと愛想笑いを浮かべながらその場を後にした。
「いやあ、まさか旦那様の『奥の手』があんな使い方だなんて、思ってもみませんでしたよ」
道中、手代の一人が楽しそうに伊波に言った。
伊波の父・久右衛門が息子に持たせたのは火がつくほど強い、正に劇薬の焼酎である。
「あのお父っさんのことだもの。俺ははなからこういう時の酒だろうと思っていたよ」
そう言う伊波の顔は涼しげである。やっと一仕事片付いたといった様子で、目を閉じて夜風を感じていた。
「しかし馬方の頭なんて、真っ赤になってひっくり返っとりましたよ。旦那様の家が一族皆うわばみだから出来る、これぞお家芸ってやつですねえ」
寝不足の伊波の頭に、浮かれた手代の声はうるさく響いた。伊波はじっとりとした目で彼を振り返る。
「いいか、今度は向こうの八百屋やらに口利きをしに行かなきゃいけないんだ。金は安く抑えられたが、やることは増えてる。いつまでも浮かれてちゃいけないよ」
その真剣な声色に、手代は「すみません」と決まり悪そうに頭を下げた。
それを見て、やっぱり伊波は忙しさで自分も少しまいっていることを自覚する。
はあ、と少し酒くさい息を宙に向かって吐いた。
いっそ酔えるものならば。酔って少しの間でも、忘れたいものである。




