第三十四話 玉箒だってはらえない(前)
「はあ…………」
悩ましげに吐き出された吐息は、麗らかな陽気と蕾を綻ばせ始めた桜という、一年で最も華やかな季節には似つかわしくない。
梅の花のように鮮やかな着物にぼんやりと庭の先を眺める眼差しは、江戸の喧騒とはまるでかけ離れた遠い世界を見つめているようで…………
「まったく、いつまでそうしておられるおつもりですか!」
後ろに座る菊野はじれったそうに、眉間に皺を寄せて言った。
「もうかれこれ一月近くもそんなご様子で。もっとこう、しゃんとして下さいまし」
「だって、菊野…………」
春風ですら彼女のため息を吹き飛ばせない、そんな懊悩の姫君―――もとい千代姫は、その大きな瞳を少し伏しがちに腰元の菊野を振り返った。
「殿はきっともう国許にお着きになられて、江戸には一年半も帰ってこられないのよ」
「それはそうですが……。一年半など、時の流れに身を任せていればすぐに経ちますよ」
「きっと国許には美しい女性もたくさんいるのでしょうね…………。私なんて、殿が江戸を立たれるその日まで、結局覚悟が決まらなかったもの…………」
そう言って曇る千代の表情を見て、どうしたものかと菊野は考えた。
別に大名が側室や妾を持つことは稀ではない。というか、世継ぎの問題は御家のために最も大切だと言っても過言ではないわけで。
結婚前には「家臣の息子との婚姻など日浦家の為にならない」と断言していた千代が、そんなことを分かっていない筈がないのだが………………今ではこの有様である。まったく青木、いや日浦知親はとんでもない番狂わせであった。
「ほら奥様、そんな時こそ本でもお読みになって、気を紛らわせては如何です?」
菊野は手を合わせて、励ますように千代の横顔を覗き込む。この菊野が本の虫である千代に読書を勧めるなど、一年に一度あるかないかのことだった。
しかし、千代は菊野とは目を合わせないまま、「本なら読んでいるわ」と呟く。菊野はその向こうに何冊かの本が積まれていることに気がついた。後ろから回ってその本達の表紙をめくってみる。
「……って、『源氏物語』に『伊勢物語』、それについこの間禁令の出された、近松の心中物ではありませぬか! どうしてこんな時にかぎって悲恋の話ばかりお読みになるのです!」
これでは気分が沈むのも当たり前である。頭を抱えた菊野と、相変わらずぼんやりとしたままの千代のため息が重なって響いた、その時。
「奥様、お手紙が届いております」
廊下から、千代にはよく聞き覚えのある声がした。菊野が障子を開けると、やはりその奥にいるのはお蘭である。かつて千代の入れ替わりに協力してくれた女中であった。
「どなたから?」
千代が尋ねると、お蘭は「殿からです」と落ち着かないように答える。
「え?」と目を見開く千代の横で、菊野はさっとその手紙をお蘭から受け取った。
「まさか、また読めない文字ではないでしょうね……」
ぼそりと菊野が呟くのが聞こえて、千代は思わず苦笑いを浮かべる。あの読めない手紙は、本当は知親が書いたものではないのだが…………。
しかしその心配もなかったのか、表書きを見てほっとした顔をした菊野は千代に手紙を渡した。
……殿からの手紙。
表書きを見て、緊張のあまり封を切るのも躊躇ってしまう。だが思い切って千代は手紙を開いた。
そこに並べられた字の一つ一つを見るだけで手に力が入ったが、何とか気持ちを落ち着けて、書かれている内容を千代は目で追った。二度、三度と。そして瞬きを繰り返す。
「……………………え?」
*
久世里進はようやくできた非番の日、夕闇に紛れて勘定奉行の横川源吾が住む屋敷へと向かっていた。籠には乗らず、歩きである。頭には笠をかぶっていた。
郡方から届く相変わらずの不作の報告に、他藩からの使者との面会。笹田屋のご用差し止めについても仕事は山積みであった。
そういった中の非番でもこうして横領がどこからばれたのかを突き止めなければならないとは、ほとほと嫌気がさす日々である。
横川家の門前には籠が一つ止まっていた。その周りにいる者の身なりから見ても、来客は武士ではない。おそらく笹田屋の代わりになろうとするどこかの酒屋が、勘定奉行の横川に賄賂でも渡しに来たのだろう。
横川源吾が客の相手をしているならばちょうど良かった。久世が用があるのは、その正室であり久世の実姉、お松である。
久世は裏口の門を叩いた。
「はい、」と顔を出したのは若い男だった。奉公に来ているどこかの町人であろう、彼は笠をかぶった久世の顔を見ても不審がるだけで久世だと気がつく様子はない。
「どちら様でしょうか」
「奥方様の身内の者だ。用があって来た」
男は「奥方様の…………」ととぼけた顔をしていたが、少ししてはっと息を呑んだ。
「ということは、久……」
「静かに」
流石に久世家のことは知っていたようだ。お松がその家の出であることも。
「あまり人には知られぬよう、内密に奥方にお会いしたい。話を通して来てはくれぬか」
「は、はい。承知いたしました」
男は慌てたように、戸の向こうへと姿を消した。
しばらくして、再び戸を開けたのは女中であった。彼女は「お待たせいたしました。こちらへ」と前に立って久世を先導する。
庭に人気はあまりない。横川はまた屋敷の者を減らしたのだろうか。相変わらず、もはや趣味なのではないかと思うほどに倹約家だ。だが長見の金回りに余裕があるわけの一つは、この男が勘定奉行であるからに違いない。
それがどうして、皮肉にもこのような妻を迎えてしまったのか。
「久方ぶりにございますね」
「お久しゅうございます、姉上」
ぎらぎらと夕陽を反射する鏡に、目新しい掛け軸、部屋の前からでもそうと分かる香。深みのある黒の着物に、頭にさすのは黄楊の櫛。
まあなんとも贅の限りを尽くしたその部屋とお松本人は、見かけこそ上級武士の奥方のものに違いないが、その雰囲気にはどこか暗いものを備えている。これらが全て久世の渡した金で賄われているのかと思うとやるせなかった。
「あなたが自らお越しになるとは、一体どうなさいました?」
赤い唇で茶を飲むお松に、久世は小さく「人払いを」と囁く。お松が外の女中に目配せすると、それまでも少なかった人の気配が完全に絶たれた。
「二人きりでお話しするようなことなど、ございましたかしら」
そう言う姉の瞳は、まるで何を考えているのか分からない。久世は言葉を慎重に選んだ。
「姉上。ここのところ、殿と何かお話しになられましたか?」
「…………ご用差し止めとは、また急な事でございましたね」
お松の言葉に、久世は息を呑む。やはり彼女が言ったのか。久世の横領のことを。
しかしお松はこう続けた。
「確かに立川様のご用人が、私が使った三十両についてお尋ねになられました。ですが私は、『三十両は私金にございます』とお答えいたしましたよ。そうでございましょう?」
すっと、お松の目が細められた。その色はどこか凄みがあり、久世を脅しているようだ。
まさか「そうではない」などと、久世には言えるはずもない。
*
「…………なるほど。これほど地に足のついた商いならば、案ずることもあるまい。ところで我が藩は、笹田屋に八百両ほど借りておるのだが」
「左様にございますか。…………もし手前共にご用の末席を汚させて頂けますならば、ご借財の、二百…………いや、二百五十両、お引き受け申し上げます」
それを聞いた横川源吾は期待以上、という顔で手にした扇を閉じた。
「相分かった。では……」
その時、庭を草履が駆ける音と、小さくだが二人分の人の声が聞こえてきた。
「なら……本当…………か。………方様の」
「確かに。久世………………」
耳を澄まさねば聞き取れないほどだったが、その名前は横川源吾の耳にはっきりと届く。
久世家。横川の正室・お松の実家だ。
横川は「失礼」と腰を上げると、障子を開いて庭を見回した。やはり隅の方に、先ほどの声の主と思われる男たちが二人で何か喋っている。
「そなたたち」
「だ、旦那様! 申し訳ございません、来客中に騒がしく…………」
そのまま縁側沿いに歩いてくる横川に、二人は肩をすくめた。
「久世、と申しておったな。何の話をしていた」
「実は……先ほど久世様と思しきお姿をお見かけ致しまして。奥方様の部屋に向かわれたようですが、果たして旦那様はご存知なのかと」
「何?」
久世が来るなどと言う話は聞いていない。一体どういうことだ。いや、とやかく考えている場合ではない。
「直ぐにご挨拶に伺わなければ。そなたたち、居間を片付けて参れ」
威勢よく返事をする男たちに背を向け、手に汗を握りながら横川は部屋へと戻る。
久世里進は内密に屋敷へやって来たのだろうか。いやしかし、屋敷の主が重要な客の出入りに気がつかないなど面目が立たない。今からでも紋付に着替えて久世に会わなければ。
「すまぬが伊波屋。今日のところは引き取ってくれ。また後日、追って沙汰を出す。………………伊波屋?」
「……えっ? …………ああ、申し訳ございません。はい、承知いたしました」
伊波は目が覚めたような顔で、恭しく頭を下げた。




