第三十三話 中夏無為まであと何里(後)
「はは、あっははははっ! ガラがそんなことを!」
さっきの男の名前はガラと言ったらしい。大笑いするハルイの向かいで、仄火は「何がおかしいんだよ」と肉に噛み付く。
料理の名前は忘れたが、熊の肉らしいそれは味が濃くて香ばしい。現世で肉を食べたことなどないので、初めて食べた時、仄火は思わず固まってしまった。それぐらい美味しい。
「悪い悪い。でも、噂をしてる奴らは修行が足りないな。俺からすれば、どう見たって仄火は男だ。なあ、マフル?」
肉を噛み切りながら、仄火はハルイの視線の先を共に追う。乳母らしき老女に匙で食事を食べさせてもらっている幼い子供。その頭身はどことなくヨリメを思わせる。顔は似ていないが。
「誰?」
朝食に誘われた仄火が部屋に入った時から、この子供はいた。最初は不思議そうに仄火を見ていたが、今は食べることに夢中なようだ。
ハルイはにこにこと笑って言った。
「娘だ」
「娘だあ?」
仄火は食べる手を止めて、子供を見る。どう見たって娘は三つか四つ。一方でハルイは…………背丈で推し量ることは出来ないが、成人しているといってもまだまだ若く見える。
「…………奥方は?」
「奥方? ああ、嫁のことか。長の一族は結婚はしない。子供を産んだ女が母親ってだけだ。マフルの母親は、今生まれた家に帰ってる」
当たり前のようにそう言ってのけ、ハルイは椀に入った汁を飲む。なんとも「当たり前」が現世とは違いすぎて、ここに来てからもう何度も仄火は面食らっているのであった。
薄く透き通った汁に味はあまりなく、しいて言えば少ししょっぱい。味噌汁とはまた違う味だ。
「で、『黒い龍』については何か分かったか?」
ハルイが持つ鉄製の椀が、机の上でカンと音を立てた。仄火は目線だけをあげて、同じく飲み終わった椀を置く。
「…………ひとつ、分かった」
ここ数日、仄火はこの城の書院で「黒い龍」について調べていた。そこにあるのはユマの言葉で書かれた本ばかりかと思いきや、とある古い本を見つけたことで事態は急変したのだ。
その本には確かに、仄火の知っている言葉が記されていた。とはいえ、古い漢文だったので全てが読めたわけではないが。
「多分ここの先祖が、カジュギンカに堕とされてすぐ書いたものだと思う。確かに『黒い龍』について書かれていた」
「そうだな」
「え?」
「『その人、民を率いて山に入る。山の背を行くこと六里にして臥す。忽ち黒龍と為りて去る。始めてその神たるを知る』だろ?」
それはそっくりそのまま、仄火が読んだ本の中身と同じだった。「なんで、」と目を丸くする仄火に、ハルイは笑う。
「有名だからな。山の下の言葉を読む練習には必ず使われる。……だが、それで黒い龍を探すのは無理だろうな」
ハルイはいつのまにか食事を終え、立ち上がって娘の頭を撫でると部屋を出ていく。仄火も慌てて残りの一口を片付けると、その後を追った。
ハルイが行き着いたのは彼の自室だった。
仄火が人質に取られた日のように、ハルイは机の上に地図を広げてみせる。そして地図の横から、木で出来た不可思議な道具を取り出してきた。
それは円の形をしているが、中心から一定の幅で切り取られている。ハルイが束ねている紐を解けば、中心の円と大小様々な輪へと別れた。
ハルイは中心の円のさらに中心に小さく開いた穴を地図の一点に合わせた。そこは瑞穂城の近く、九葉山の麓のあたりである。そして輪を六枚、その周りに順に嵌めてみせた。
「この円の外周が、山の背から大体六里だ。それで、今ユマが暮らしている範囲に絞ると……」
ハルイは謎の道具の輪郭を指でなぞった。山々を避けて国がある部分に限ると、どうもその円周はすっかり黒い線の向こう、カジュギンカがすでに消失した範囲に収まってしまうらしい。
「な? もう黒い龍が眠ったとされる土地は消えてしまったんだよ」
ハルイは地図の上から手を離し、困ったように首を傾げて言った。
………………しかし。
「…………ん?」
仄火は幾度か瞬きすると、腕を組んでじっと地図の上を見つめた。
「……なあ、もう一回言ってくれ。さっきのやつ」
「え? ああ……。『その人、民を率いて山に入る。山の背を行くこと六里にして……』」
「それ」
仄火は地図から顔を上げた。一体どうしたのかと見返すハルイに、仄火は中心部の円を上に引き抜く。
「山の背って言ったら、ここじゃねえの」
その地図は現世よりも随分と優れた技術で描かれていて、山の高低差もよく分かる。仄火は円の中心に開いた穴を、山脈の中でも一際高く走る頂上の一点にのせた。
「山の背ってのは山の終わりじゃなくて、連なってる山の頂上のことだろ」
あっさりと言う仄火は、ハルイが単に間違えただけかと思った。しかしハルイは呆気に取られたように、仄火が置いた円を見ている。
「…………本当か」
「ああ。………………多分」
そこまで言われると、当たり前に思っていたことでも疑わしく思えてくる。しかし山の背というのはやはり頂上のはずで…………。
するとハルイは、急いだ手つきで残った六枚の輪をその円の周りに嵌めこむ。
「『山の背』。ユマでは『山』は『サン』、『背』は『ハリ』と言う。それで、『サンハリ』はこの山の終わりのことを指すんだ。するとユマは皆、この言葉の意味を間違えていたわけか」
最後の一枚を嵌め終わると、ハルイは中心の円を持って、穴の位置を『山の背』上で滑らかに動かした。
「…………あるな」
道具の円周はトヤクもその向こうの国々も超えた頂上を中心に、こちら側へと広がっている。
仄火は息を呑んだ。
その円周は山の背のどの位置からでも、ちょうどトヤクとアロを隔てる山の上で六里を示していた。
ハルイはそれを見ると手を顔に当て、鉄の椅子に倒れ込むようにして座った。その口元は笑っている。
「…………はは、トヤクの奴ら、てんで見当違いのところに寺だの祠だの建てていたわけだ!」
そう言ってまたがばりと起き上がる。その急激な動きに少しばかり後ずさる仄火だったが、見ればハルイの瞳孔は開き、鳶色の瞳は爛々と光っていた。
「仄火、これはあるぞ。『黒い龍』を見つけてトヤクの言い分を潰せば、まだ戦を防ぐ方法はある!!」
立ち上がったハルイはそのまま戸の近くまで歩いて外に顔を出し、「サロクタリイエ!」と誰かに呼びかけた。
仄火はもう一度、地図を見た。木の輪を少しずらせば、トヤクとアロを隔てるなだらかな山が見える。
ここに、「黒い龍」が眠っている。




