第三十三話 中夏無為まであと何里(前)
おそらくはもっと早く来るべきだったのだろう、とハクは思った。
一度家に帰って清に事情を説明した後、ハクはすぐに城に向かった。しかし、すでに夜は更けていた。当然知親も眠っている。
清は「明日にした方がいい」と言っていたのに、それを聞かずに来てしまった。やはりどうも焦っているらしいと自分でも思う。
清は事情を聞いてなお、落ち着いていた。まったく動揺しなかったわけではないが、やはり賢い子供だ。賢すぎて、そこが反って難儀な子供でもある。仄火に対しても、昔似たようなことを思っていたが…………。
明日出直そう、と思いつつ、ハクはとりあえずその場に座った。人に見えないのをいいことにちらりと隣の間を覗くと、小姓が二人、不寝の番をしている。片方は眠気覚ましなのか、本を開いてごく小さな声で読んでいた。
知親はそれも気にならないのか、綺麗な寝相で寝ている。仄火も清も寝相が悪いので、ハクはそれを見て器用に寝るもんじゃなあ、とぼんやり考えた。
「おーい、青龍」
ハクはぼそりと呟いてみたが、それにも声が返ってくることはなかった。静かで暗い部屋には、小姓の「太平記」だか何だかを読み上げる声が微かに聞こえるだけだ。
何だかハクはムッとする。仄火が人質になったのはどう考えてもハクのせいだ。ただどこかで少し、青龍に責任転嫁したい気持ちがあるのかもしれなかった。
「青龍め。何だか知らんがお前が藩主になんぞ憑くから、こっちは困ったことになっておるのじゃ」
…………いや違う、青龍が憑いたから知親は藩主になったのだった。これでは逆である。だが、知親の中の青龍が口を出して、それを訂正する気配もない。
その代わり、少し部屋の空気が動いたのをハクは感じた。
「…………ハク、か?」
小姓ではない声にハクが顔を上げると、知親の目が薄く開いている。起こしてしまったことに少し罪悪感のようなものを感じながら、ハクはその側に寄った。
「すまん、起こしてしもうたな。じゃが少し話を聞いてほしい」
「…………どうかしたのか。随分、いつもと様子が違うな」
するとぴたりと、小姓の声が止んだ。人に聞こえないのはハクの声だけだ。知親とハクがしばらく黙っていると、また小姓の声が途切れ途切れに聞こえてきた。
「返事はせんでいい。耳だけで聞いとくれ」
ハクがそう言うと、知親は体を起こして頷いた。
「以前仄火がお前さんに話した、奇妙ななりの男の話じゃ」
*
「…………何とも、夢のような話だな」
「それは分かるが、夢だと思ってもらっちゃ困る。今も仄火はカジュギンカにおるんじゃから」
「青龍と引き換えに、か……」
知親は囁く様に言った。随分目が覚めたのか、考える瞳は冴えた色をしている。
「…………青龍の力を使えば、体をここに残して意識だけでカジュギンカに行ける。だが、それはやはり危険なのか」
それを聞くや否や、ハクは目を閉じて首を振った。
「それでお前さんが死なんように、仄火は人質になっとるんじゃ。向こうで本物の『黒い龍』を見つければ、青龍で偽の神を作る必要もないと」
ハクは「じゃが…………」と肩を落とした。
「果たしてそんな物が見つかるのか。千年も前からの言い伝えが本当かどうかなど、分かったものではない」
「…………では、どうすればいい」
「何とかここを出て、カジュギンカに来ることはできんか。意識だけなら青龍に乗っ取られて死ぬ可能性もあるが、体ごと入ればその心配もない」
知親は黙っていた。しかし、その眉根は少し寄っている。
今や藩主の知親に、人の目がない時など一時もないのであった。今だって、小姓達に聞こえないようごく小さな声で話さなければならない。
それを見てハクも黙る。
仄火が言うように、やはり青龍を、知親を城から出すことなど不可能なのか。だが、「黒い龍」を見つけるのも同じぐらい不可能なことのようにハクには思える。伊波は最悪強行突破する気のようだが、それもあまりいい策とは言えない。
一体どうすれば…………。
「…………分かった」
「ん?」
「あり得ぬ策かもしれんが、現に不可能ではないことはこの目で見たしな…………」
独り言の様に呟く知親に、何の話か分からずハクはきょとんとする。知親はそんなハクを見上げた。
「一つ考えがある。が、準備にはかなり時間がかかるだろう。…………特に、今は久世に関することも片付けなくてはならない」
知親はそこだけ一層声を潜めて、耳打ちするように言った。ハクは思わず知親の目を見る。
「…………本当か」
「ああ。だがすぐには難しい。少なくともひと月は…………」
「分かっておる、それでもいい。………………すまない。ありがとう」
ハクは妖である。どうやっても人とは気配が違う。だが、その時のハクの表情は何だかとても人間じみていて、知親は不思議なものを見ている心地になった。
「…………それは、成功してから聞こう。城を出ることができたら、とりあえずは仄火の家に向かう。それでよいか」
「ああ、分かった」
ハクはそう頷いて、最後にもう一度「ありがとう」と消えた。
薄暗い部屋に一人残された瞬間、知親はここで寝れば全てが夢になってしまうのではないかと、ふと不安になった。
しかしまだ、外は暗い。もう月明かりも傾いたのか、そこにあるのはただ小姓の眠たげな声だけだった。
朝一番、知親は手紙を書いた。
…………まさか、長見に帰ってから最初に宛てる手紙がこんな奇天烈な内容になるなど、想像もしていなかった。
「進太郎、この手紙を江戸に」
呼び寄せた進太郎は、知親から手紙を受け取る。そしてその表書きを見てああ、という顔をした。
「かしこまりました。奥方様にですね」
「…………そうだ」
どこか浮かないその顔に、進太郎は首を傾げながら手紙を持って部屋を出た。
*
鳥たちが高い声で囀る。どこからか滝の音が聞こえる。
仄火は大きな欠伸をして、目を覚ました。
もう暦はとっくに弥生になっただろうが、山の上はまだまだ寒い。やたらと肌触りのいい布で眩しい朝の日差しを遮り、仄火は二度寝を決め込む。
人質生活も、はや十日は経っただろうか。目を覚ませば一番に目に飛び込んでくる、この部屋の天井の高さにもすっかり慣れてしまった。
あてがわれた部屋は現世の仄火の家より三倍、いやそれ以上に広い。客用なのか物は少なく、しかし寝起きするだけには十分すぎるほどだ。
その上特に決まった予定もないため、仄火は好きな時に起きて寝て、好きな時に二度寝をして…………。
その時、ゴンゴンと戸が叩かれた。初めてのことに仄火は飛び起きて、急いで戸を開ける。
「あ、お前…………!」
戸の向こうに立っていたのはあの日の、志乃宛ての手紙を渡してきた男だった。
「仄火と言ったか。マイが……長がお呼びだ」
「ハルイが?」
その男に会うのは、初対面以来初めてだった。やはりハルイに仕えている者だったらしい。
明るいところで見ると、男は仄火よりもかなり年上に見えた。あの日ほとんど色味がないように見えた服も、見ると深い藍の色をしているのが分かる。
朝からハルイに呼ばれることも初めてで、まだ眠い気もするが人質として応じないわけにもいかない。
仄火は「はいはい」と返事をして、布団の横に置いてある草履を突っかけた。すると、男は明らかに顔を顰める。
「その格好で行くつもりか」
「は?」
仄火が着ている服はサロから渡されたもので、今は軽く柔らかな生成りの服だ。首元のあたりは着物と似ているが、帯ではなく留め具のようなもので前を合わせる仕様で、足には同じ色の股引き。似たような服を何着か渡されので、仄火は適当にそれらを着回していた。
「そんな格好でマイの前に出るとは、礼儀知らずな」
「え、そうなのか」
男の反応を見るに、もしやこれは寝巻きのような扱いの服なのかもしれない。仄火は数日前もこの格好で城内をうろうろしていたことを思い出す。
…………そんなもん、分かるかっての!!
「じゃあ、どれ着て行きゃいいんだよ?」
仄火が畳んで並べてある服をめくると、男がその中から赤い布を引っ張り出した。
「これでいいだろう……」
それを仄火の頭から被せようとする男の手が、ふと止まった。自分より上にある頭を、仄火は訝しむように見る。男も同じく、難しい顔をして言った。
「お前、女じゃないよな?」
「あ?」
途端に眉間に皺を寄せる仄火に、男は「違うな」と赤い布を仄火に被せた。そして腰紐を容赦なく締める。
「悪い。城の中じゃ、お前を女だと思って噂している奴もいるから」
「な…………」
仄火は唖然として、二の句が告げなかった。
確かに、顔で女に間違われるのは初めてではない。だがそれも昔の話、今ではほとんどそんな事はなくなっていた。
しかしここではどうだ。確かに仄火は他の男より背が低く、せいぜい行き交う女中たちといい勝負だ。少し見ただけでは本当に女に見えるかもしれない。しかも寝巻き同然でうろついていたとなれば…………。
「…………そーいう不届な輩は、ぶん殴っちまっても別にいいんだよな?」
「そんなことは起こらないようにするから、揉めごとはやめてくれ」
「けっ」と不服そうな仄火に、男は白い布を腰紐の上から結んだ。




