第三十二話 天知る地知る我知る君知る(後)
城門を潜ってすぐ、また青木知孝の姿が見えた。今度は屋敷の前ではなかったが、彼はやはり知親の命で自分を探っているのかもしれない。
千両の為替がない限り、知親が久世の横領を裁くことはできない。笹田屋の動きを封じた今、その為替のありかを探らせていると考えるのが自然だ。
ならば必要以上に知孝と顔を合わせたくはない。なに、向こうも無理に聞き出してはこないだろう。そのような無礼を働けば、むしろ知孝を遠ざけるよい口実に…………。
「久世様!」
目が合うや否や、知孝はこちらに駆けて来た。その予想外の動きに久世がぎょっとしていると、知孝は穏やかな顔で笑った。まるでいつもの久世が人前で取り繕うように。
「何用だ」
「久世様、きっとお困りでしょう。笹田屋が差し止めになってしまって」
「な、」
何を言っている、本当に。この男はどういうつもりなのか。
久世はその背丈も歳も、己とさして変わらないであろう男を唖然として見た。
まさか知親は為替を諦め、久世の口から白状させて証拠としようとしているのか。そんな馬鹿げた策が…………。
いや、裏をかえせばそれほど久世の横領を確信しているのか…………?
この時ばかりは、久世は笑うことを選ばなかった。代わりにすっと細めた目で知孝を見る。
「開口一番にかようなことを申すか。いくら殿の使いとはいえ、無礼極まるぞ」
すると、知孝は本当に焦ったような顔で、大袈裟にその両手を胸の前で振った。
「いえいえ、私は殿の使いでは決してございません。私は久世様のお力になろうと参ったのです」
「私の?」
「ええ。きっと笹田屋が差し止めとなった理由は、久世様が何かご存じではないかと思いまして」
そう言う知孝の言葉を、久世もまさか鵜呑みにはしない。ここで久世が認めた瞬間、知孝が息子である知親に伝えに行く可能性がある。
久世は無表情のまま、知孝をあしらうように背を向けた。しかし知孝がその後を追う。
「お待ち下さい久世様、私は本当に…………」
「青木。これ以上の無礼は謹慎とするぞ」
久世が発した一言に、知孝の声もやんだ。立ち止まった知孝に、久世は振り返ってその顔を見やる。だがなんと、不気味なことに知孝は薄く笑っていたのだ。
なるほど、作り笑いをやめれば知親に似ていないこともない、と刹那的に思う久世に、知孝は言った。
「構いませぬ。謹慎とまではいかずとも、すでに登城差し止めの身にございます故」
「何?」
これには久世も聞き返さざるを得なかった。登城差し止めということは、彼は城への立ち入りを許されていないことになる。
「そのような知らせは聞いておらぬが」
「では、あちらの方々に尋ねられては如何でしょう」
知孝が指し示すのは、遠くに見える正門に立つ門番たちだった。
どういうことだ、と思いながら久世は正門へと歩き出す。登城差し止めともなる不祥事があったなら、家老の久世の耳にも入っていなければならないはずだ。
門番たちは、先ほど城を出たのにまた戻って来た久世に驚きながらも、すぐに門を開こうとした。しかし、それを手で制した久世は片方の門番に聞く。
「青木知孝、という男が登城差し止めになっているとは、真か」
「はい。その様に仰せつかっております」
「…………そうか。では私に知らされないのは一体どういうことなのか……」
すると聞こえていたのか、もう一人の少し歳のいった門番がこちらに駆け寄り、小さな声で言った。
「恐れながら、青木殿の登城差し止めは公のものではありませぬ。私共も南門の者たちも、立川様からその旨仰せつかったのでございます」
久世が戻ると、知孝はなおそこで彼を待っていた。
「真にございましたでしょう?」と言う知孝を無視して、久世は考える。
青木知孝は、本当に知親の使いではないのかもしれない。何より、そうだとすれば下手すぎる。
笹田屋のことなど話せば、より一層久世を怪しませるだけだ。知親は、何より立川勘蔵がそこまで阿呆のわけがない。
「そなたの登城差し止めは、立川殿による門番への直接の命であった。心当たりはあるのか」
久世が聞くと、「ああ、それでしたら」と知孝はその長い睫毛を二、三度閉じる。
「恐らく私が殿と立川様の話を立ち聞きしたせいでありましょう。それで久世様が近々家老の座を降ろされる、と耳にしたのですが」
それを聞いて、久世はもはや神妙な顔付きになるのを隠そうともしなかった。
なぜ、なぜだ。なぜそこまで久世の不正を確固たるものとして見ているのか。為替以外に証拠はないはず、そもそもがばれるはずのない話だというのに……!
「…………なぜ、私の味方をしようとする。殿は、そなたの実の息子であろう」
「ええ。しかし困ったことに、殿は血縁である私どもが周りからどのような目で見られようと、もはや知ったことではないと。私がお頼み申し上げても突き放されてしまうのです」
何を頼んだのかは、聞かなくても分かった。
おおかた、青木家の昇進でも願い出たのであろう。別に実家の役職を上げるのはおかしな話ではない。が、知親も藩主になったばかりの状況では周りの目も厳しい。その判断は賢明と言えた。
「ならば久世様。私はあなた様にお力添えし、不正も墓までお守りいたします。ですからことが済んだ暁には是非、お役に付けますよう取り計らい願えませぬか」
なるほど、久世にはその言い分が分かった。そして知孝の目が権力に魅せられ、澱んでいることも。
姉のような下手な身内より、金目当ての方が信頼できるかもしれない。それに、先ほど現実的ではないと諦めた「為替を始末する策」も、この男を巻き込めば実行可能だ。
それがおそらく、久世にとっては大きな決め手となった。
「今は郡方の手代だと申しておったか」
「左様にございます」
久世は歩き出す。なおもついて来ようとする知孝を一睨みして立ち止まらせると、また顔を背けた。
「足高の制に習い、役目を果たしたなら…………。改役ぐらいは用意してやろう」
すでに多くの者が家へと帰ったのか、辺りに人はいない。
久世と知孝を見下ろすのは、ただ月のみであった。




