第三十二話 天知る地知る我知る君知る(前)
「…………これから、どうするつもりなんだ」
静寂の箱に揺られながら、伊波はハクに問うた。
言葉の通じないアロの人々に見送られ、彼らは九葉山を降りているところだ。
ハクはといえばやはりどことなく元気がなくて、まあそれは自身の発言のせいで仄火が人質に取られたことを気に病んでいるのだろう。
「何とかして青龍と、青龍が憑いている若造を連れて行く」
「上手くいきそうなのか?」
「さあな」
伊波が聞いても、ハクはどこか上の空であった。
「……俺はとりあえず、藤と春日を探すよ。今あの二人がどこにいるのかは分からないけれど、久世を見張ってるならその近くにいるはずだ」
「……それは、上手くいくのか?」
「さあね。俺が説得できるかどうかかな」
春日はまだしも、藤は親の仇打ちがかかっている。そちらを一旦放り出して来てくれるかは怪しいが、藤が動かなければ春日も来ないだろう。
だが、藤は情に弱いところもある。仄火の危機とあれば、作戦次第では乗ってくるかもしれない。
ガタン、と箱が止まると、壁が開いて見慣れた山車蔵が見えた。
「伊波、やっぱり拠点には藤も春日も居ないわ」
箱を降りた伊波に静寂が言うと、予想はついていたのか、伊波は「そうか」と短く返事をする。
「もう日も暮れる。俺は一度家に帰って、明日の朝一番からすぐに二人を探しに行くよ。ハクは?」
「……すぐに若造のもとへ乗り込みたいところじゃが、わしも一旦帰る。仄火に家の事を頼まれたんでな」
はらりと手を振って、ハクは街の向こうへと姿を消した。それを見送ってから、伊波はまた箱に乗り込む。
道中、「ねえ伊波」と箱の外から静寂の声がした。
「何だか、今日は街が騒がしいわ」
「街って、ここはカジュギンカだろう?」
「そうだけど、肌で感じるのよ。現世で何か騒ぎが起きているのかも」
一体何事かと、普段の伊波なら探りに行ったかもしれない。しかし今日ばかりは、その気力もなかった。
*
何とか日が暮れる前に家に帰った伊波は、夕日が差し込む廊下を歩いて自室へと向かった。
藤と春日を探すためには、二人が見張っている久世の動向を掴むことが一番の近道。なれば、まずはそれについて調べなければいけない。
しかし背後から名前を呼ばれて、伊波はその歩みを止めた。
「この馬鹿者、こんな時にどこへ行っていたんだ」
その響きにどきりとして、伊波は固い動きで後ろを振り返る。
「お、お父っさん…………」
声の主である伊波屋三代目、久右衛門は元々の強面を更に厳しくして、呆れたように息子を見ていた。
「まあいい。それよりお前も直ぐに支度をしなさい。明日の朝一番に長見へ立つが、おそらくひと月は帰って来れんだろう」
「長見に? 待って下さい、どうして長見へ?」
「何だ、知らんのか。お前にしては珍しい」
静寂の言った通り、長見で何か起きているのだろうか。それにしたってひと月も帰ってこられないとはどういうことだ。
伊波が父の言葉を待っていると、久右衛門はその口元を僅かに緩めて告げた。
「長見御用達の笹田屋が、ご用差し止めだ」
「…………笹田屋、が?」
長見一番の大店である酒屋、笹田屋。その名前を聞いて伊波が一番に思い出すのは、久世里進の名だった。
久世は横領した金を笹田屋に渡していたと聞く。まさかそれでご用差し止めになったのか。
だとすれば、久世の横領はすでに藩の知るところなのか…………?
「お父っさん、どうして笹田屋は差し止めになったんです?」
「さあ、そんなことはどうでもいい。既に、代わりに御用達になろうとする酒屋がいくつも動き始めている」
御用達になるにはご機嫌伺いが常だ。たとえば藩の借金を一部肩代わりする事や、献上金を渡すとか……。
「長見は、このご時勢には珍しく大きな借金もない。そりゃどこの酒屋も御用達になりたがるでしょうね」
「そうだ。だが、借金の肩代わりという策がない以上は、御用達は冥加金の額で決まる。だからこそ伊波屋は、他に先を越されぬようにしなければ」
このあたりの酒屋で、一番金を出せるのは伊波屋だろう。だから久右衛門は、先を越されさえしなければ御用達は固い、と言っているのだ。
伊波屋はすでにこの領地を治める藩のご用商人である。父はその上で諸家御用、店先にかかる御用達の札を二枚に増やそうと目論んでいるのだ。
「ですが一月も留守にして、店はどうするんで?」
立ち止まるのをやめ、歩みを進める久右衛門の後を伊波は追う。
まさかそのために今の仕事を疎かにしていいわけもない。当代とその息子がいっぺんに店を空けて大丈夫なのだろうか。
すると久右衛門は歩きながら息子を振り返った。
「もちろん、私が店に戻らなければいけないこともあるだろう。その時はお前が私の代わりに、長見での一切を取り仕切るのだ。次の伊波屋当代としていい修行になるだろう」
「俺が……」
修行といっても、御用達を取り付けるのは伊波屋に取って大きな仕事だ。失敗は許されない。
しかし、今の伊波にとっては藤と春日を探す絶好の機会かもしれない。役人との交渉の中で久世のことも分かる。
すると自室の前まで着いた久右衛門は、部屋に足を踏み入れながら伊波を見る。
「荷物を纏めたら座敷へ来なさい。朝までに、長見のお役人へお伺いを立てるための手紙を書き上げてしまうぞ」
「え、でも出発は朝一番と、さっき……」
「何を寝ぼけたことを言っておるのだ。御用達を勝ち取るまで、寝る暇はないと思え」
久右衛門の声色は大袈裟なものでも、厳しく叱り飛ばすようなものでもなく、ただ単に事実を伝えているようだった。閉じた障子の前で、伊波は立ち尽くす。
御用達を取るのが、大変な仕事だというのは分かっている……。が、ひと月もの間、不眠不休…………?
藤と春日を探す時間など、果たしてあるのだろうか。
*
長見の街は騒然としていた。笹田屋のご用差し止めは瞬く間に街中の知るところとなり、それまでかの店と取り引きをしていたいくつもの店がこれからの行く先を案じている。
そんな中、瑞穂城では久世里進が足早に廊下を歩いていた。
笹田屋がご用差し止め…………。やはり青木知孝は殿の使いだったか。
しかし久世の顔は、決して焦りを覚えているものではなかった。
横領の証拠はどこにもない。先日の江戸滞在時の帳簿改めに立ち会った時も、久世はそれを確かめたばかりである。此度持ち出した千両は、いつも通り帳簿のいたるところに少しずつ紛れ込ませてあった。
取り分け今回は、青木知親が新しく殿になるということでやりやすかった。本来ならば必要のない方面にまで贈り物と献上金を配り歩いたことにしても、知親はおろか、立川勘蔵にもそうと気がついた様子はなかった。
勘蔵が優秀なのは久世も認めてはいるが、所詮は少し前に家督を継いだばかりの若手。これが先代の士蔵相手なら危なかったかもしれないが、長見育ちの勘蔵に江戸の勝手は分からなかったようだ。
他にも千両は知親たちが江戸に上がる前の時期からの屋敷の修繕費、消耗品、人足など、どうやっても本当の出費か確かめられないところに入り込んでいる。多少の帳簿のずれがあったとしても、まさか久世が千両も持っている証拠にはならない。
そう、証拠はないのだ。千両の為替を両替商に渡し、笹田屋に送ってしまえば。
しかし笹田屋が今、その証拠たる為替を受け取ることはないだろうと、久世は思う。笹田屋はそ知らぬふりで受け取っていても、久世が大金を返済することに何の疑いも持っていなかったとは考えにくい。
ご用差し止めの理由に他に心当たりがなければ、久世からの金は拒否するだろう。なにせこの差し止めは、笹田屋にとっては命綱を切られたも同然である。
つまり久世は横領の唯一の証拠をいつまで経っても処分できない、非常に困った状況にあった。
一体どうして知親は、証拠もないのに横領のことを知り得たのか。思い当たる節は皆無とはいえない。姉のお松か、まさか小笠原か…………。
久世は考えながら玄関先へと赴き、届いた書状たちを受け取る。皮肉なことに、今は家老として笹田屋の代わりを探す仕事をこなさなければならなかった。
部屋に戻っていくつもの酒屋からの手紙を選り分けるが、やはり一番有望なのは伊波屋だろう。冥加金としては手始めに二百両といったところか。
ふと、証拠の為替をこの冥加金に紛れ込ませられないかと考えるが、流石に千両のはごまかしきれない。
「久世殿、よろしいですか」
「ああ、これは立川殿」
部屋に入ってきたのは勘蔵だった。彼は久世の持つ書状を見て、「ご用達願いですか」と腰を下ろす。彼が横領のことを知っているのかどうか、久世には分からない。
「やはり伊波屋が有力ですな。冥加金も、これだけの蓄えがある店なら二百両は見られるでしょう」
久世が差し出した手紙を、勘蔵も受け取って眺めた。
「それは心強い。実はご用差し止めにあたって、我が藩が笹田屋に借りていた金も返してしまおうと思うのですが」
久世はそれを聞いて一瞬息が止まった。だが、すぐに元通り呼吸をする。
…………落ち着け。自分じゃない、長見藩が笹田屋に金を借りている話だ。
確かに藩も笹田屋に金を借りているが、大した額ではない。それも久世の場合とは違って利子のない大名貸しだ。返そうと思えばいつでも返せたが、藩の出費も綱渡り。万が一を考えると中々まとまった金で返せる機会がなかっただけのこと。
「今、いくら借りているのでしたか」
「占めて、八百両と少しにございます」
やはり大した額ではない。それぐらいなら伊波屋が一部肩代わりするのではないか、とも思う。
そんな時、久世は一つ思い付いた。為替を始末する方法を。
いやしかし現実的ではない、そう思って首を振る。
すると外では、七ツ時を知らせる鐘が鳴った。
「では私は、本日はこれにて。立川殿は?」
「私は今しばらく城に残ります。これからは多忙を極める日々になるでしょうから」
勘蔵はそう言ってようやく手紙から顔をあげ、ちらりと久世を見た。
立川勘蔵は明重の後継争いの時にも早くから知親の味方に着き、かつての彼の父と同様、今や知親の一番の腹心と言っても過言ではない。
今の久世にとっては、あまり相対したくない相手には違いなかった。しかしその視線が何を思うのか、久世にはやはり分からない。




