第四話 馬鹿と煙はなんとやら(前)
仄火が目を覚ましたのは、もう少しで昼時という頃だった。
すでに清は出かけたのか、部屋には皿に乗った握り飯が二つ残されている。
仄火は大きな欠伸をしながら乱れた髪を結い直し、握り飯を一つ手に取った。もうそんなに米は残っていないと思うが、清はちゃんと食べて行ったのだろうか。
ハクもいない。まあそれはいつものことか、と思いつつ、仄火は昨日のことについて考えを巡らせた。
簪は、現世にもカジュギンカにもない。となれば川に流されたか、はたまた誰かが持ち去ったのか。
人魂については何も分からない。何を目的に現世に現れるのか。もしくは人の方がカジュギンカに迷い込んでいるのか。
「…………なんだかなあ」
なんだか、何かが変な気がする。しかしその正体までは分からない。
やはり今できることは伊波からの連絡を待つだけ。だが、一体どうやって連絡してくるのだろうか。
仄火は一つ残った握り飯を見て考える。
……そういえば、橋向こうのゆきさんのところに久しく行っていない。ゆきさんは小さな米仲買の娘である。さすがに商品の米を譲ってくれることはないが、料理上手の彼女は頼めば何か作ってくれるのだ。それこそ、春に花見に誘った時も昼飯を作って来てくれた。
よし、清が帰ってきたら彼女のところに出かけるか。この握り飯は清の昼飯に置いておこう。
さて口実をどうするか……と仄火がしばらく考えていると、表の方から清の声が聞こえてきた。
「……お役人に疑われているんでしょう? これからどうするつもりなんですか」
「…………家は、さすがにまずいか。どこか隠れられる場所を探さないとな……」
話の内容が気になった仄火は、店の暖簾から顔を覗かせる。
「あ、仄火さん。起きたんですね」
清の隣には、若い男が立っていた。
「どちら様?」
そう仄火が聞くや否や、男はこちらに駆け寄ってくる。
「あ、あなたが仄火さんですか?」
「そーですけど……」
そのまさに必死といった形相に仄火が驚いていると、男に追いついた清が言った。
「買い物の途中でお会いしたんです。なんでも仄火さんに頼みごとがあるそうで」
それを聞いた瞬間、仄火の目はきらりと輝く。
「つまり、依頼ってことですか?」
「は、はい!」
仄火は男の外見に目を滑らせた。
武士ではない、商人だ。小奇麗な身なりにきちんと結わえられた髷。特別に金持ちでもなさそうだが、そこそこの店の奉公人と見た。
仄火は内心で笑う。
……やっっと来たぜ、金になる依頼がよお!
「どうぞこちらへ。お話をお伺いします」
仄火は店の裏の戸を開け、目を細めて笑った。
*
「………………」
「あの、仄火さん?」
藤吉、と名乗るその男は、黙り込んでしまった仄火を心配そうに見つめた。
「ああ、いや、すみません。……つまりあなたは、武家屋敷で起こった小火騒ぎの下手人として疑われている。しかし、なぜその屋敷にいたのかは自分でも分からず、さらには火が出る前に赤く燃える人魂を見た、と」
「はい。信じられない話だというのは百も承知なのですが」
信じられないわけがなかった。藤吉がやってくるまで、仄火はその人魂のことで頭を悩ませていたのだから。
人魂。また人魂。わけの分からないことが増えただけだ。
「それで、自分が下手人ではない証拠を見つけるか、『消えた男』を見つけてほしいと」
「そうです。人魂を見た時、私の周りに人はいませんでした。だから、火をつけたとすれば絶対にその男だと思うんです」
これまたどこかで聞いたような話だ。人魂の目撃者は、なぜか決まって一人。
河原で人魂を見たこうさん、町人街で人魂を見た六郎、そして武家屋敷で人魂を見た藤吉………………。
その時、仄火の頭の中で何か引っかかった。
………………変だ、あまりにも。状況がおかしい。
「…………清。五日前、深川から東にある町人街で、下手人が捕まっていない騒動はあったか?」
「五日前、ですか?」
急に話を振られて驚く清だったが、下ごしらえの手を止めて考え始めた。藤吉にいたっては、何の話かまったく分からない様子だ。
「確か、その街の鍛冶屋に空き巣が入って、刀と幼い息子が攫われたのが五日前です」
そうだった。結構な騒ぎになっていたので仄火も覚えている。
「息子の方は見つかったんだよな?」
「はい、一昨日の朝に。まだ幼いこともあって、恐ろしさのあまり口をきけなくなってしまったとか」
「惨いことを」と呟く藤吉の横で、仄火は目を閉じて考える。
空き巣が入ったのは五日前。子供が見つかったのは一昨日の朝。
仄火は目を開き、まっすぐに藤吉を見た。
「その依頼、お受けしましょう。数日でかたがつくはずです」
「ほ、本当ですか!? ああ、良かった…………。もうどうしようかと」
「ただし」
強い語気で藤吉の言葉を遮った仄火は、試すように言う。
「お代は六十匁(約10万円)。よろしいですか?」
「ろ、六十匁!? そんな、それは…………。私のような者では、すぐにそんな金は」
「ですが、牢に繋がれるよりは安いでしょう?」
藤吉は泣きそうな顔のまま下を向いた。その額に冷や汗がつたうのが見える。
仄火もしばらく黙って見つめていたが、そろそろ落としどころかと思い口を開いた。
「ただね。藤吉さん、魚屋なんでしょう。最近は高い魚など、滅多に食べられたものではなくてね。どうです、新鮮な魚を二尾卸してくだされば、お代は三十匁にまけましょう」
「え、い、良いんですか? ……こんなありがたいことはない、あなたは命の恩人だ。承知しました。この藤吉、誠心誠意特上の魚をお持ちします」
「決まりですね。事が済んだら、店の暖簾を白くします。その時はお代もお忘れなく」
*
藤吉を見送った仄火が店に戻ると、清が胡散臭そうにこちらを見ていた。
「良かったんですか。すぐにかたがつくなんて言って」
「ああ、もう目星はついてる。それより喜べ、魚鍋が食えるぞ」
仄火が言うと、清は「何の魚でしょうか」と考え始めた。やはり魚は食べたいようである。
その時ふと、残った握り飯が仄火の目についた。
「そういやお前、朝飯食ったのかよ。握り飯二つもこさえて」
「仄火さんが寝てる間に食べました。なのでこの一つも食べて下さい。今から下手人を捕まえに行くんでしょう」
「まあな」
仄火は握り飯を口に運び、ハクはどこにいるだろうかと考えた。すると、清もなにやら出かける準備をしている。
「なんだ、お前もどこか行くのか?」
「はい。魚屋に行ってさばき方を覚えてきます」
草履を履いて立ち上がった清は、いたって真面目な顔でそう言った。
*
「来ると思ってたよ」
焼け跡が目立つ屋敷の近く。座っていた伊波が仄火に笑いかけた。
「ここにいるってことは、お前も人魂の情報を掴んでいたんだな」
「掴んでいたも何も、藤吉さんに仄火を紹介したのは俺だからね」
「お前が? …………道理で、あんな真面目そうな男がすぐに情報屋なんかを頼って来たわけだ」
仄火はあの後、居眠りをしていたハクを見つけてカジュギンカに来ていた。不服だが、この男の力を借りるためである。
「で、どうだい? 小火騒ぎの下手人は分かったのか?」
ああ、言いたくねえ。まさか、自分からこいつに貸しを作ることになるなんて。
「……下手人は情報屋、そうでなくともカジュギンカには出入りできるやつだ」
「屋敷の者が見た『姿を消した男』の話だろう? やはりカジュギンカに入るところを見られたというわけか」
そこまでは予想がついていたのか、伊波は仄火の言葉に驚くこともなかった。仄火は「そうだ」と頷いてから、嫌そうな顔で手を頭にやる。
「で、今から犯人の顔を確かめに行くんだが、俺には顔だけでどこのどいつかなんて分からねえ。だから、その……」
「情報屋の組合長である俺にも確かめてほしいと。なるほど、合点がいった」
言葉の先を攫って、伊波にすべて言われてしまった。だが自分の口から頼むよりいいかと仄火は思い直す。
「じゃあ行くぞ、場所はこの先の町人街だ」
仄火が向こうに見える街を指すと、伊波は「ああそれなら」と立ち上がった。
「静寂」
「なに、どうかしたの?」
伊波の声で現れた静寂に、「町人街まで」と伊波は告げる。すると宙に裂け目が入り、周囲から切り取られたような箱が姿を見せた。
「………………あ?」
思わず呆気にとられる仄火に、伊波は首を傾げる。
「あれ、知らなかったかい? 数は少ないが、獏には特別な力を持つものがいるんだ。静寂はこの箱を自在に取り出せる」
「さあ入った入った」と言われるがままに箱に詰め込まれた仄火は、もうなんでもありだな、と思いながら箱の中を見回す。
中には確かに壁があるのだが、真っ暗なのでどこまでが箱かが分かりづらい。そのくせ伊波やハクの顔ははっきりと見えるのだから、どういう仕組みかさっぱり分からなかった。
しばらく箱に揺られていると、「着いたわよ」という静寂の声と共に箱が開く。外には確かに町人街が広がっていた。
仄火がまったく信じられないという顔でハクを見ると、彼は「普通の獏で悪かったの」と口を尖らせた。
「それで? そろそろ人魂についても教えてくれないか」
歩きながら言う伊波に、仄火は「証拠はねえけど」と前置きして話し始める。
「五日前、この町で鍛冶屋の息子が攫われたのは知ってるだろ?」
「随分な騒ぎになったらしいね。しかも下手人はまだ捕まっていない」
「そう。人魂はその夜、この街に現れた。そして今度は武家屋敷の小火騒ぎだ」
「つまり人魂が出るのは、下手人が悪さをする時ってことか? じゃあ河原に出たのは」
それが一番分からないところだった。しかしその時の状況を想像すれば、一つの推測ができる。
「たとえば下手人が、攫った鍛冶屋の息子を河原で殺そうとする。しかし人魂が現れ、驚いた娘が簪を落とす。下手人がそれを拾いにいった隙に、鍛冶屋の息子が逃げる。…………その翌朝に息子が見つかったことを考えても、」
「筋は通るね。逃げた子供が口をきけなくなったのは、下手人にとっては不幸中の幸いだったわけだ」
「…………」
話だけでその背景を瞬時に察するその洞察は見事だが、言葉を遮られる仄火は面白くない。相変わらず人の話を聞かないやつだと思いながらも、仄火は気を取り直して話を続ける。
「簪を落とした娘のおかげで、下手人が子供を殺すことはなかった。ここで二つ目の疑問だ。なぜ、行商の娘は夜に河原へ行ったのか? 同様に、お百姓はなぜ夜に町人街へ行ったのか? それは」
「藤吉さんと同じく、人魂に操られていたから。そうでなければ普通はそんな場所には行かないからね。つまり人魂が現世に出る理由というのは」
「人を呼び寄せて下手人の悪事を止めることだ」
お返しだと言わんばかりに、仄火は伊波に言葉を被せる。しかし伊波は、そんなことにはまったく気がついていない様子だった。
「じゃあ下手人を捕まえるには、その人魂について行けばいいってことかい?」
「まあそうなるが、もっと手っ取り早い方法があるだろ」
ほら、と仄火が足を止めた先は、一軒の鍛冶屋だった。
「なるほど。下手人の顔を唯一知っているのは攫われた子供というわけか。口をきけずとも、カジュギンカの魂に尋ねれば関係ない」
「そういうこった」
仄火が片手を差し出すと、ハクはその上に背負っていた刀を置いた。
「口をきかぬ子供の魂を覗くんじゃ。夢病もそうやさしいものではないぞ」
「わかってるって。上手くやるさ」
それに、勝てば明日は魚鍋。
仄火は鍛冶屋の中で浮かぶ青白い魂に向かって、口を開いた。




