第三十一話 青天黒幕、鬼に灯(前)
消えた。カジュギンカの消失と共に。
「…………消えた?」
「俺もこの目で見たわけじゃない」
仄火が聞き返すと、ハルイはばさばさと手のひらで地図の上の埃を払った。黒い線は幾度か引き直された跡がある。そして、そこには色褪せたいくつもの国々。
「…………大昔の話さ」
*
千年も昔。
ある集落に住む人々がこの世界、カジュギンカに堕とされた。人々はすぐに異変に気がついた。自分たち以外に人はおらず、時折現れる魑魅魍魎。喋る人魂。
人々は神の怒りだと考えた。きっとここは魔物が住まう地獄だと。
それでも皆助け合いながら、現世と同じように暮らし始めた。すると段々おかしなことに気がつく。集落は勝手にその姿形を変えた。建物がなくなったり、新しいものが出来たり。住みなれた集落が荒廃したり、荒地が発展し始めたり。
カジュギンカは自分たちが元いた世界と移り変わりを共にしているのではないか、と誰かが気づき、人々はひとりでに変わる集落を捨てて山に移った。
山は変わらなかった。たとえ山の下でどれほど現世の様相が変わろうと、山はなくならなかった。
百年もすると人も増えて、段々と山の中でも住みやすい場所に分かれて暮らすようになる。そこでも「現世」という先祖の元いた世界については語り継がれた。
すると、とある思想が蘇る。「神の怒り」だ。
誰かが神の怒りをかったせいで、自分たちはこの奇妙な世界に堕とされた。一体誰が。隣の集落の奴らか、そのまた隣の集落の奴らか。
そんな考えが広まり、強くなり、やがて争いが起こった。それぞれの集落は国となり、お互いの土地をめぐって、そして神の怒りをかった民を殺すため戦をした。
……トヤクは長らく、アロと良好な関係を築いていた。アロは山の下に最も近く、現世の技術を取り入れ、その研究も盛んだった。アロはその技術をトヤクと共有する代わりに、国々の争いからトヤクが物理的な盾となってアロを守った。
しかし、およそ数百年前。トヤクの向こう側の国に異変が起きる。トヤクから聞くには、ある一定の境界から向こうに進めなくなったという。境界の向こうの景色は靄がかかったように不鮮明で、それまでいたはずの人間も何人か行方がしれない。
人々は不気味だと思った。不気味だと思う内に十人、百人と人が消え、どんどん土地が狭くなっていく。人々は恐怖した。生きる土地を、消えない土地を求めてさらに争いは激化し、境界に消されるよりもずっと速く、多くの人が死んだ。
そしてついに、境界はトヤクの領土までやって来た。それまで亡命してくる人間を探して吊し上げるだけだったトヤクでも、人が消え始める。
すると当然、トヤクも土地を求めて他国の侵略を始めた。周りの集落を味方につけ、時には合併し、残るは同盟国・アロのみ。
*
「トヤクは同盟を…………破棄すると宣言した。それが三月も前のことだ」
重々しく語り終えたハルイの前で、仄火と伊波はまるで信じられないという顔をする……わけがなかった。
喋る人魂に、現世をなぞってひとりでに変化する世界。心当たりがありすぎる。このカジュギンカの話だということは間違いないようだった。
そして仄火にはさらにもう一つ、身に覚えがあった。
「神の怒り」。青龍が日浦家に憑く理由には、九葉山、つまりこの山が関係している。もしかすると、その「神」が指すのは青龍ではないのか?
するとハルイは一旦区切りをつけるように、「さて」と机の上で両手を組んだ。
「それでそう、情報屋殺しの話だったな。……今トヤクがアロを攻める理由は、主には消失から逃げ、土地を確保することだ。だが、おかしいと思わないか?」
「それまでアロとトヤクが同盟国だったのなら、戦を仕掛ける必要がない。逃げられるよう、アロに交渉すればいいだけですね」
仄火も同じことを言おうと思ったのだが、僅かに伊波の方が口を開くのが早かったので譲ってやることにする。
伊波の言葉にハルイは頷いた。
「だが、そうはならなかった。開戦のきっかけは『神の怒り』を信じる者だ。彼らはアロの民が神の怒りをかったから、世界が縮み人が消えるのだと主張した。そして、少数だが無抵抗のアロの民を殺したんだ」
少し不自然にも、仄火には思われた。
そんな主張がまかり通るのか。何をもってして、「神の怒り」をかったと決めつけるのだろう。
「トヤクは他国から亡命して来た人間も多く、土地も減って国としては困窮している。一方アロは山下の技術を取り入れ、トヤクに比べると豊かだ。その資源を奪おうという意図だろうな。『神の怒り』信者は、いわば火付け役だ」
そう言うハルイは、どこか冷めた目をしている。先ほどから自分の国の民が殺され、攻め込まれようとしている話だというのに。ハルイの声には怒りも不安も滲まない。
そのことに、仄火は少し違和感を覚えていた。
「悪い、また話が逸れた。…………つまり、『神の怒り』を信じる者の攻撃の矛先は、アロに限らなかったということだ」
「それは、情報屋にもというわけですか。……なるほど、それなら彼らが矢のようなもので殺されていたことにも説明がつく」
情報屋も「神の怒り」をかったと判断されたのだろう。誰の思惑かは知らないが、もともと他者を攻撃するための理由付けなのだから何でもありだ。
しかしそのためにわざわざ山の下まで出向いてくるとは、その殺意は並ではない。
仄火には、籠の中で少女が怒った理由が分かった気がした。その情報屋を連れ込んだことがトヤクに知れれば、開戦の決定打になりかねない。
「それで、俺たちアロの問題と、その情報屋殺しの問題。同じ方法で解決できると思わないか」
そう言ってハルイは仄火たちを見た。
アロの問題と、情報屋殺しの問題。共通するのはトヤク、そして『神の怒り』。
「…………『神の怒り』など幻想だと、突きつけるか」
仄火の言葉に、ハルイは「話が早くて助かる」と頷く。
「情報屋のお前たちに頼みたい。『神の怒り』を否定するなら、カジュギンカが消える、代わりの理由を示さないと。それを突き止めてほしいんだ」
その時初めて、ハルイの瞳の中に仄火は光るものを見つけた気がした。それに気を取られていると、横で伊波が身を乗り出す。
「分かりました。受けましょう」
「待った」
何を軽々しく言ってるんだ、こいつは。
少し相談します、と仄火は伊波の襟首を掴んで椅子から引き摺り下ろす。後ろにいたハクと静寂も近くに寄ってきた。
「何を迷う必要があるんだ、仄火。このまま情報屋殺しが続けば、次に殺されるのはお前かもしれないのに」
伊波の顔は不満気半分、理解できないといった戸惑い半分だ。
「いや、カジュギンカが消える理由なんて、何をどうやって調べる気だよ。そこを聞かないうちは賛同できねえ」
仄火が問いただすと、伊波はうーんと唸った末に、静寂の顔や仄火の顔を交互に見た。そして、澄ました顔で言う。
「彼らの信じる神をでっちあげて、『カジュギンカが消えるのは誰のせいでもない。争いはやめなさい』とか喋らせて説得するのはどうかな」
「真面目にやってくれ」
「大真面目だよ。『神の怒り』なんて証明のしようがない。情報屋なら情報戦で仕掛けるべきだ」
真剣な表情をする伊波は、どうやら本気らしい。確かにその言い分には一理あるかもしれないが…………。
「わしはいい策じゃと思うがのう」
伊波への思わぬ賛同者は、なんとハクだった。仄火は驚いたようにハクを見る。
「いや、どうやって『神』を作るんだよ。お前がなりすますのか?」
「まさか。ただの獏風情ではすぐに妖だとばれてしまう。ここは一つ、青龍に喋らせてみてはどうじゃ」
「「青龍?」」
仄火と伊波の声が重なった。
「青龍ってあの、仄火が調べてる妖か?」
「そうじゃ。青龍は喋るんじゃろ、あの若造が言うには」
「若造?」
「…………ハクお前、どういうつもりだ」
ハクの言葉の意味が分からず不思議そうにする伊波の横で、仄火は信じられないというようにハクを見る。
青龍を巻き込むということは、すなわち知親を巻き込むということ。長見の藩主となった知親をこんな騒動に呼び込むなどありえない。
「……『相談』は終わったか?」
ふと背後に気配を感じて仄火が振り返ると、後ろから仄火達を覗き込むようにハルイが立っていた。
「嘘の神を作って、トヤクを説得するのか。確かにとりあえずの解決にはなるな」
「聞いてたんですか」
仄火が見上げると、ハルイは「聞かないとは言ってない」と肩をすくめた。
「それより、俺は『青龍』の方が気になる。それは妖か?」
くそっ、ハクのせいで…………。
食いついてきてしまったハルイに、仄火はもう一度ハクを睨む。だがその心境はハクへの怒りよりも、なぜあんなことを、という疑問が大きかった。
知親を巻き込むのがまずいことが分からないほど、ハクは馬鹿ではないはずだ。第一こうやって口を挟んでくること自体、普段から考えると珍しいことだった。一体何を考えているのか見当もつかない。
仄火は仕方なく、ハルイと、そして伊波に向けて青龍のことを説明する。
「青龍ってのは妖で…………今は、現世のとある高貴な人間に憑いている。だから、ここに呼び寄せるのは絶対に無理です」
慎重に言葉を選んだつもりだったが、ハルイの顔に何かを考え直すような素振りはない。それもまた仄火を焦らせた。
「青いのか」
「え?」
「その龍は、青いのか」




