第三十話 草を見ずして髪を断つ(前)
青木知孝が久世の屋敷から逃げ帰っている頃。時を同じくしてその長男、知信も城での用事を終えて家路についていた。
組屋敷の一角にある青木家は古びている。手入れをする人間もいないのでしょうがないのだが、知信がたまに門前を掃除して庭の草を摘むのにも限界があった。
すっかり空は暗いが、知信は手に下げた提灯で庭を照らす。畑の野菜が芽を出すのが昨年よりも遅い。昨年同様また不作では、郡方の仕事も気詰まりなものである。
家の中に入ると、居間には一人分食事が置かれていた。青木家の食事を作るのは大概知信で、最近は漬け物なんかにもできる範囲でこだわっているのだが…………。
知信は荷を降ろすと、一旦食事は素通りして奥の部屋へと向かう。
「母上、本日はお加減もよろしいのですか?」
知孝の妻であり知信の母である桔梗は、細い体を起こして本を読んでいた。
「ええ、少しは。それに貴方の帰りが遅いから、きっと今から何か作るのは億劫でしょうと思って」
少しやつれた頬には似合わない長い睫毛と鋭い光を宿す瞳が静かに知信を見る。かつて柳眉の桔梗の方で知られたその目力は、そこらの男なら睨まれただけで震え上がってしまいそうなものを、知信は「それは何より。ありがとうございます」と平然として答える。
「ああ、母上。去年畑で採れた大根を沢庵にして漬けているのがもう食べられると思うのですが、一口如何でしょうか」
それを聞いて、桔梗の方は柳眉を寄せる。
「……知信。幾ら郡奉行のお務めだからといえ、お前は野菜に漬け物にと……。あまつさえ、畑のせいで庭にはもう剣の素振りをする場所もないではないの」
情けないと桔梗は嘆くが、果たしてこの先の人生で武術が役立つことなどあろうかと、知信は甚だ疑問に思うのであった。自分は弟とは違うのだ。
「そういえば、今日知親に……殿にお会いしました。まあ随分と立派になって、上背など私より高いぐらいで」
話を逸らそうとした知信だったが、上手くいったと言うべきなのか、桔梗はその言葉に本を置いた。
「あの子に…………」
たちまち曇るその表情に、知信は自身の発言を多少後悔する。
知親が城に上がることを、母は反対した。家格のために知親を養子に出そうとする父とは随分揉めて、結局引き留めることはできなかった。それ以来、父は家にはほとんど帰ってこず、母も病に臥せりがちだ。
父が知親に家格を上げるよう迫っていたことは黙っておこうと知信は思う。
「あの子は、もうこの家の人間ではありません。弟だからといってその威信に縋ろうなどとせず、この家の跡取りとして誇りを持ちなさい」
桔梗はいつもそうだ。武家として人一倍の矜持を持ち、子供にも幼少からその志を厳しく説いてきた。
「…………もっとも、お前はそんな馬鹿なことは考えないでしょうけど」
……ため息をつく桔梗の言葉が、誰を指すのかも知信には当然分かっていた。
食事を終えたところで、水瓶の水がなくなったために知信は井戸に水を汲みに家を出た。こんな夜中に人気のない井戸まで行くのもあまり気乗りしないのだが、流石に朝から水がないと不便である。
知信が門を開けると、こんな時間に娘が一人、その後ろ姿が見えた。
「もし、そこの方。このような夜更けにどうされました」
知信の声に娘はぴたりと足を止めて振り返り、幽霊でも見たかのように驚いた声を上げる。
「あ、あおやっ……! いえ、青木様でしたか」
「おや、藤殿」
振り向いたのは藤であった。ここらに住んでいる武士ならば、大体は小さい頃からの顔見知りである。藤もまたその一人だった。
「もう夜ですよ。一人歩きは危ない」
「はい、少し寄り道したら道に迷ってしまって……」
笑って藤は頬をかく。まあ、小笠原の家はすぐ近くだ。そこまで心配する必要もないだろう、と知信は思う。そして思いついたように「しばしお待ちを」と言ってもう一度家に引っ込んだ。
戻ってきた知信が皿に乗せて持ってきたのは……沢庵である。
「よければどうぞ。少々作りすぎてしまって」
「は、はあ…………ありがとうございます」
藤は苦笑いでそれを受け取る。なぜ、沢庵。
「皿はいつでも」とにこにこ笑って井戸の方へと歩き出す、その笑顔はまさに光源氏の再臨のようだが、手元に残るのは沢庵である。
相変わらず変な人……と毒気を抜かれたように彼を見送る藤だったが、はっとしてまた家への道を歩き始めた。
*
「…………なんで沢庵?」
翌朝、夢遊の拠点で春日は皿を手に言った。
「もらい物よ。たくさんもらったし、おいしかったから少しどうかと思って」
藤の言葉に、春日はポリ、とそれを手に取って齧ってみる。
「本当だ、おいしい。…………で、なんの話だっけ?」
もう一口、沢庵を口に運びながら春日が言うと、藤は自分で書いた手紙を広げてみせた。
「だから、久世と殿様の実のお父上が話してたのよ! どういうことなのかしら」
「お殿様が言ってた協力者に、お父さんの名前はなかったけど。じゃあお父さんは久世側ってこと?」
「それは…………」
それはないのでは、と藤は考える。こう言ってはなんだが、青木知孝は郡方の手代。味方につけるなら勘定奉行の横川源吾を丸め込んだ方が、余程久世に取って利がある。
「まあ味方にせよ敵にせよ、とりあえず殿様に知らせないと。それが私たちの仕事なんだし。でもどうしましょう、元は仄火を通して知らせるって話だったけど…………」
仄火と伊波は今朝方、例のユマという者たちに会いに行ってしまった。そちらも気掛かりではあるのだが、とにかく今となっては知親にこのことを知らせる手だてがない。
「藤が手紙を渡しに行くことはできないの?」
「無理よ! 絶対無理! 本当なら殿様の顔なんて一生見れなくてもおかしくないんだから。でも普通に手紙を宛てても時間がかかるし、誰かに中を見られたら…………」
珍しく頭を悩ませる藤を見て、春日はハッといつかの仄火の言葉を思い出した。
「男がいい歳して守られてばかりなのは、藤にも少し情けなく思われるかもしれねえぞ」
情けなく思われる、のは春日としても避けたい。ならばここは一つ、自分にも頼りになるところがあると見せるべきなのではないだろうか。
「手紙を渡す方法なら、あるよ」
「え? 本当に?」
「うん。こ、個人的なつてだけど……。頼んでみたら何とかなるかも」
「それって、どんな人?」
「そ、れは…………。ごめん、それは言えないけど、信頼できる人だよ」
藤はそれを聞いてなおしばらく悩んでいたようだが「分かった」と言って手紙をもう一度開いた。
「一応、内容をぼかしておく。直接的に久世の名前は書かずに…………」
そうして書き直された手紙を、春日は受け取る。
「ありがとう。頼んだわ」
藤にそう言われるのは初めてのことで、何だか頼りにされるというのもまったくもって悪くない、と春日は手紙を懐にしまった。




