第二十八話 矢の木、後顧の憂い(後)
「…………何のつもりだ知信、それが親に対する態度か」
知孝がそう詰め寄るも、知信は少しもたじろぐことなく真っ直ぐに父親を見返した。
「お言葉ですが父上、それで家格が上がれば殿に取り入ったことは明白。今度はより一層周りからの非難を浴びることになるでしょう。それも、今度は本当に卑怯者として」
「私はお前のためにこそ言っておるのだぞ。次に青木家を継ぐのはお前であろう」
言い争う二人を前に、知親はおよそ五年振りに会う自身の兄をまじまじと見ていた。
二つ上の兄は見た目こそすぐにそうと分かるほどには変わっていなかったが、信じられないのは父と言い争っていることだ。
すると、ぱたぱたと乾いた足跡が向こうから響いた。「どうかされましたか!」と進太郎が歩いてくる。庭の向こうで待つように言ったが、向こうからも知孝たちの様子が見えたのだろう。
知孝は進太郎の姿を目に止めると、息子との口論を辞めて再度知親の方を向いた。
「では、私はこれにて。……先ほどの件、無論検討頂けると信じておりますよ」
そう言い残して、知孝は足早にその場を去る。そして知信と知親の兄弟だけが残された。
「…………兄上、」
「我が父が何を申し上げたかは存じませんが、真に受け取られますな。どうかお忘れ頂きたい」
知信は知親とは目を合わせずにそう言って、門とは反対方向、城の方へと歩き出す。知親はついそれを呼び止めた。
「あの、母上がご病気というのは」
先程知孝が言っていた。病床の母の薬も買えぬ、と。
すると知信は足を止め、ため息をついた。
「……言ったであろう、父の言うことを真に受けるなと。母上はお元気だ」
振り返らずにその細い声でそう言うと、知信はまた歩き出す。
ちょうどその兄とすれ違う進太郎は、その顔をはっとして見てから知親の方へとやって来た。
「どうなさいましたか。先ほどの方々はもしや……」
「父と兄だ」
それを聞いた進太郎は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに納得したように頷いた。
「そうでしたか、青木家の…………。となると、先ほどのお方が『青柳の君』ですか」
「そうらしいな」
兄がそう呼ばれていることは知親も知っていた。そしてその兄が未婚であることも、また事実。ならば母についても、本当なのではないだろうか。兄はああ言っていたが…………。
そんなことを考えていたが、進太郎の「そろそろ夕餉のお時間です。戻りましょう」という言葉に引き戻される。
そうして進太郎と共に庭を戻るうち、知親は大事なことを思い出した。
「そうだ、まずいことになった」
「まずいこと?」
「先ほど、話を立ち聞きしていたのは父であった。それで…………」
知孝の要求のことを、知親はなぜだかその場では言えなかった。
「…………後で、立川を呼んでくれ」
「承知いたしました」
ざくざくと、二人分の足音だけが鳴る。
……兄は、昔から少し風変わりな人だった。
武芸や勉学にはあまり興味を示さず、かといって何に興味があったのかは弟の知親にも分からない。庭ばかり眺めていて、幼い頃はまるで姫のようだと揶揄い混じりに言われていた気がする。
細い声で言葉少なに話し、あまり自分の意見をはっきり言わない。目上の者の言葉には素直に従う、随分と聞き分けのいい、よすぎるほどの子供だった。
だから、まさかその兄が父と言い争うところなど想像だにしなかったのだ。
一体何があったのだろうか。知親が家を出てから家に何かあったとすれば、その原因はおそらく、いや間違いなく。
「殿、もしやお身体のご様子が優れないのですか。先ほどから、顔色があまり……」
「いや、大事ない」
偶然庭の隅に植えられていた大きな柳が、枝垂れ風に揺られているのが知親の目に映った。
*
青木知孝は、何気ない振りをして久世家の屋敷の近くまでやって来ていた。何故久世里進が家老から降ろされるのか、その理由を知れば知親を説得するさらに強力な材料になると思ったからだ。
……しかし、同時にあまり期待をしているわけでもなかった。城からの帰り道に近いから寄ってみただけ、というのが大きい。
知孝は屋敷を遠くから眺めて満足すると、さてどうしたものかと考える。
……近頃ろくに顔も合わせていない知信が、あのように楯突いてくるなど想定外だった。おそらく桔梗の差し金だろう、余計なことを…………。
明重も明重だ。知親を養子に迎えるというから、てっきり青木家の家格もそれに相応しいものに召し上げられると思っていたのに。婿養子などという話は聞いていない。
「そこの者、何をしておる」
いざその場を離れようと知孝が顔を上げた時、前から歩いて来たのはこの屋敷の主人だった。用人を連れて歩く久世里進に、知孝は急いで頭を下げる。
「見慣れぬ顔だな、名を申してみよ。我が屋敷に何か用か」
名乗らない方が余計に不審であると分かりながら、知孝は言葉に詰まる。なぜこの場にいたのかを、どう説明したものか。
しかし結局は、藩内でも柔和で知られる久世の人柄に賭けて、知孝は名乗った。
「郡方手代、青木と申します」
青木の名は今や長見藩の中では知れた名である。どちらかといえば、悪い意味で。現に久世の空気も少し硬くなったような気がした。
「青木と申すにはそなた、殿の……」
「はい、実父でございます」
知孝がそう言うと、久世はしばらく間を置いて、「面をあげよ」と短く告げた。知孝が言われるまま顔を上げると、久世はおよそ見たこともない、凍りついたような表情をしていた。
「…………殿に、殿の使いか。まさか内密に私のことを…………」
知孝はそれを見て聞いて、久世は本当に何らかの不正をしているのだとどこかで思う。だが、どう答えればいいのか咄嗟には分からなかった。知親の使いだと言えばいいのか、使いではないと言えばいいのか。
「……いえ、そうではございません。この道の先に住む者に私的な用がございまして」
そして後者を選んだ。事は荒立てない方がいい。
「………………そうか」
「はっ。では、失礼いたします」
腰を低くして、知孝は足早にその場を去る。去り際に見た久世の顔はどこかまだ不審そうだったが、呼び止められることはなかった。
家に向かって路地を曲がろうとすると、ふと物音が聞こえた。神経が過敏になっていたのか反射的に音の方を振り返る知孝だったが、その方向にはずっと遠くに櫓が聳えているだけだ。そこには人影もない。
気のせいか、と肩を撫で下ろす。人がいたとしても、まさかあんな距離から知孝の顔が見えるはずもない。
知孝はそれでも極力人目に付かぬよう、急いで家路を辿った。
櫓の上で、藤は座り込んだ。
今日は両替商も休みで久世が動くことはないだろうと思っていた。しかし拠点からの帰り、今は久世も帰る頃かもしれないと、一応久世の屋敷を見ていたのだ。
すると久世は来た。藤は夢病が映した久世を見ただけで、実際に目にするのは初めてだった。それだけでも動悸は上がったが、さらに驚いたことに、久世はその場にいた誰かと話し始めたのだ。
それは知った顔だった。つい先日、カジュギンカで会った知親の父。青木知孝が久世と話していた。
知親は久世の横領を暴こうとしているはず、ではその父親は一体…………。
「………………どういうことなの……」
そんな彼女の呟きは、空に消えた。




