第二十八話 矢の木、後顧の憂い(前)
総拝とはいっても、なにも長見藩の武士全てが集うわけではない。大抵は一つの家につきその長が集まるわけで、その殆どは知親よりも歳上なのである。
「此度の江戸へのご参勤滞りなく、ご帰国遊ばされましたこと、恐悦至極にございます」
榊原が静かな大広間で声を張る。ずらりと並んだ家臣たちも一斉に頭を下げた。
ここで声が上擦ったりなどしたら大恥である。いや、自分は将軍の前でも挨拶をしたのだから、その時に比べればなんてことはないはず。
そう、知親は自分に言い聞かせる。
「…………留守中、大義であった」
広間に響く自分の声を聞くと、一体皆どのように思うのだろうと頼りなく感じる他にはなかった。
それでも時が経てば総拝も終わり、ようやく知親の今日の仕事にも区切りがついた。
夕食までしばし暇になった知親は、表立って出ることもなかった城の庭を歩いてみることにする。夕暮れ時の美しい庭で、ざあ、と波の音を聞くと、たった半年離れただけだというのに長見に帰ってきたという実感が湧いてきた。
「……それで、あの後怪しいものを見たという話は」
知親は後ろをついて来る進太郎を振り返った。一人でいいと言ったのだが、やはりそういう訳にもいかないらしい。
進太郎は「いえ、」と首を振った。
「そうか……」
その時、知親はぴたりと足を止める。庭の奥、南門の近くに人影が見えた。それも、よく知っている。
知親がどうするべきか迷った挙句見て見ぬふりをしようとすれば、向こうのほうから「殿」と声をかけてきた。
「少しお話を、宜しいでしょうか」
「何のご用でしょう」
知親に代わって、後ろから進太郎が返事をした。が、知親がそれを片手で制す。
「少し、話をしてくる。ここで待っていてくれ」
「は、か、かしこまりました」
戸惑う進太郎を後に、知親は男の方へと一歩一歩歩き出す。男は今まで見たこともないほど穏やかな笑みを浮かべていた。
「何のご用ですか、ち……」
父上、と言いそうになって知親は口を噤んだ。婿入りした以上、今の実質的な父は明重である。
その男、青木知孝と会うのは以前勘蔵たちに街を案内した時以来だった。知孝は歳をとってなお精悍ともいえるその顔付きを、不気味なほど優しげに歪めて笑っている。
「いえ、少し耳に挟んだのです。何でも家老の席が一つ空くと。殿はそのことについて、一体どの様にお考えなのでしょうか?」
「…………貴方でしたか、あの場にいたのは」
知孝は否定しなかった。間違いない、勘蔵と知親の話を盗み聞きしていたのは彼のようだ。
となれば、もちろん要求は……。
「殿も元の家がこんな家では、何かと肩身の狭いことも多いのではないですか? 今は血筋よりも実力の時代にございますれば、家格の引き上げなど珍しくもありますまい」
暗に、青木家の家格をあげろと知孝は言っているのだ。
それに対して知親は何も答えずにいた。血筋より実力重視の時代というのは間違っていない。それが将軍のお考えであることも。だが藩主になってすぐ、取り立てるほどの功績もない身内を引き上げるのは、それとは訳が違う。
その沈黙から否定の意を汲み取った知孝は、表情から笑みを消し去った。
「…………何のために、私が周りからの誹りを耐え忍んできたと思っている。お前のような者が藩主になるのは、私が取り入って卑怯な手を使ったからであろうと」
馬鹿馬鹿しい、と吐き捨てるように言い、知親の肩に手をかけた。
「お前のせいで、我が家は落ちぶれたのだ。兄の縁談もなく、病床の母の薬も買えぬのだぞ。その責任を、お前は…………」
その時、ばんと音を立てて南門がこちら側に開き、ちょうどその前に立っていた知孝の背中にぶつかった。
体勢を崩した知孝は、「誰だ!」と後ろを振り向く。
「これは、大変失礼いたしました。しかしながら…………」
声と共にその人物の影が、門の向こうから姿を現した。着物は古びて白茶けた薄い水色。片手には藩の家紋が描かれた帳箱を抱えていて、その草履や足袋も土と泥で汚れている。
しかしその出で立ちには不釣り合いなほどの、どこかの役者が舞台から降りてきたのかと思うような顔が見えた。
「先ほどから黙って聞いていれば、いい加減になさいませ、父上」
「……あ、」
知孝も知親も、揃って目を丸くする。
「…………兄上?」
*
「『青柳の君?』」
「ああ、知ってるか?」
仄火と伊波は、九葉山の向こうを目指して静寂の箱に揺られていた。ハクもいるが、箱の中は飽きたと言って静寂の後ろについて移動している。二人の話題は仄火が先日春日から聞いた、「青柳の君」についてであった。
すると伊波は、「知ってるも何も」と驚いたように言う。
「……そうか、仄火はあまり武家に関わる仕事は受けないんだったか。逆にもし、少しでも武家に関わる情報屋なら誰でも一度は名前を聞いたことがあるんじゃないかな」
「そんなに有名人なのかよ」
「まあ『青柳の君』こと青木家のご長男、青木知信様といえば長見始まって以来の美男子として誉高いからね。武家のお姫様の色恋事情なんて半分は彼みたいなものさ」
ふうん、と仄火は頷いた。そこまでとは。春日に聞いた時から、まあ知親の兄貴ならそうだろうと予想はしていたが。
数多のお姫様たちが知親にそっくりの男に恋する様子を仄火は思い浮かべてみる。ふと、その中にあの娘の顔も浮かんだ。屋根から落ちて来た、千代という娘。
なるほど、確かにああいう娘は知親のような男が好きそうな感じがする。もっともそれは仄火の恋愛遍歴による独断なのだが。
「『青柳の君』ねえ……」
「苗字もそうだけど、その儚げな様子からそういうあだ名が付いたと聞いているよ。まあ実の弟君が藩主になって、青柳の君も色々大変なんだろう」
儚げ? 仄火は耳を疑う。『青柳の君』は知親とよく似ていると聞いていたが。弟の方は槍が百本振ってこようが平気で生きてそうな感じがする。
「その弟が藩主になったこと、お前はどう思ってるんだ?」
仄火が聞くと、伊波は意外にも興味なさげに言った。
「青木、じゃなくて日浦知親様のことか。さあ、一時期はどの情報屋もこぞって調べていたけど、真相は明らかにならずだろう。そういう時は意外とつまらない答えだったりするからね」
たとえば単に隠し子だったとか、という伊波に、仄火はそれのどこが「つまらない」答えなんだと呆れる。
「それにもう藩主になられたのに、どうこう言ったところで何になるんだ」
どうやら知親が藩主になったことは、伊波からすればとうに過去の話らしい。その頃伊波は「夢遊」の設立に追われていただろうし、構っている暇もなかったのかもしれなかった。
するとその時、ガタリと箱が傾いた。仄火と伊波は揃って体勢を崩し、壁に体をぶつける。
「静寂? どうかしたのか?」
伊波が上に向かって声をかけると、箱の一面が開いてハクが上から顔を覗かせた。
「おい、どうもまずいことになっとるようじゃ」
「まずいこと?」
箱の向こうには果てなく緑の森が広がっている。しかし仄火が箱から降りると、その足は平らな地面に着いた。道がある。
「最悪、いきなり撃ってこないでよ」
箱の後ろ側には静寂が身を隠していた。その着物の端が少し破れている。
どうしたのかと聞こうとすると、ハクがいきなり仄火の頭を掴んで押し下げた。ヒュン、と頭上を何かが飛ぶ音がして、遠くの木が音を立てる。
仄火はその方向を見た。木には、矢が刺さっている。
矢が。
ぞっと足の方から肌が逆立つ感覚がして、仄火は急いで箱の中に身を隠し、伊波もそれに続いた。
「な、何なんだ今の」
脈打つ心臓に仄火が息を切らしていると、その横で伊波は箱の中から何とか向こうを見ようとしている。
「おい、危ないだろ」
仄火がそう言っても、伊波はその忠告を聞かなかった。
「仄火見なかったのか、今、向こうに……」
すると人の声が響いた。何かを怒鳴りつけるような女の声。そして、次々に飛んできていた矢の音もぱたりとやむ。
しばらく矢が飛んでこないのを見計らって、何事だろうかと仄火も伊波に続いて顔を出した。
そこには、到底信じられない光景が広がっていたのだ。
「………………何だ、あれ……」
そこに森はなかった。聳り立つのは大きな大きな木で出来た扉、いや、門か。点在する物見蔵のようなものの上に小さく人の姿が見える。
その時がさりと、頭上で木の葉が鳴った。何かと思う間もなく人が飛び降りてくる。
「うわっ!」
仄火は思わず箱の中に戻りかけたが、すでに箱はなく、勢いよく地面に尻餅を着いた。だが、痛がるのも忘れて仄火は目の前の人物を見上げる。
黒い甲冑の様な変わった形の胴当てに深い緑の衣服。履いているものはえらく短く、南蛮人のもののようにも見えた。
飛び降りてきたのは少女だった。向けられた槍の先端が、太陽の光を反射する。
「ユイ、レタ? ユマカナサシノシバニンカ?」




