第二十七話 壁に耳あれば四面楚歌(後)
知親は高く登った日を見つめていた。徐々に暖かくなってきた日差しは、春の冷たい空気を解いていく。「春眠暁を覚えず」とよく言うが、春の陽気は確かに知親の眠気を誘った。
それはもちろん春の陽気のせいだけではない。午前中の膨大な執務のせいでもある。
江戸にいる間に溜まりに溜まった書付は、残念ながら一部明日に持ち越しとなった。領内の検地帳や年貢の免除を求める届けに、城の維持に関する書類。
明日もその三割ほどを裁かなければならない。そしてそこには、参観交代を含む江戸での経費を書き留めた帳簿もある。久世が一番関与しているはずの書類だ。
知親は午後からの拝謁のために、自室で正装に着替えていた。すでに城の外からは大勢の人の気配がする。彼らが皆知親に会うため来ているのだと思うと、早速気が重かった。
すると、部屋の襖が開く。顔を覗かせたのは進太郎だった。
「殿、ご支度が整いましたら書院に。大広間での総拝より先に、家老の方たちとの拝謁がございます」
知親の前で進太郎が書院の襖を開けると、すでにそこには筆頭家老の榊原善司が座っていた。思わず、部屋に入ろうとする知親の足が止まる。
榊原と最後に会ったのは半年前。榊原達が知親を急襲した後、布団に横たわる姿を見たのが最後である。
気まずい空気が流れたが、それでも部屋に入って座らないわけにはいかなかった。
「殿、お久しゅうございます」
「…………ああ、息災であったか」
一言そう言っただけで、知親の首に冷たい汗が流れるのを感じる。挨拶もそこそこに、榊原は隣に置かれていた紙を知親に渡した。
「早速ですが、殿が長見を立たれる前におおせつかった、帳簿見直しの記録にございます。不審な支出も今年は一切ございませんでした」
広げると、そこには知親が江戸に立つ前の時期も含めた、ここ一年の支出金額が項目ごとに纏められている。その内の幾つかには印が付いていた。
「これは、」
「印が付いているものは、余分な箇所、又は工夫次第で無駄を抑えることができると判断したものにございます」
知親は思わず顔を上げて榊原を見る。
……やはり、長見藩の筆頭家老。知親が江戸でちまちまと算盤を弾いて僅かな貯金を作っている間に、榊原は遥かに実用的で具体的な策を形にしていたのだ。
思わず頭を下げそうになったが、知親は体に力を入れて何とかそれを堪える。
「…………大義であった。たった半年でこれほどの帳簿を改めたこと、見事と言う他ない。感謝する」
「勿体なきお言葉にございます」
榊原は知親に頭を下げる。知親の背中を、また冷や汗がつたった。
「進太郎、あれを」
拝謁の終わりに知親が言うと、進太郎は手紙を一通、榊原に手渡す。
「これは……?」
「この藩にとって、極めて大切なことが書いてある。江戸に着くまで決して開かず、私から手紙を受け取ったことも他言せぬよう」
随分と唐突な話だと知親は分かっていたが、榊原は動揺など少しも表に出さずに「かしこまりました」と手紙を受け取った。
そして知親が榊原に江戸までの道中を気遣う言葉をかけ、榊原の拝謁は終いとなった。
榊原が部屋を後にすると、知親はやっと息ができるようになった気がした。
「殿、次は父の番でございます」
しかし安堵の時間も束の間、進太郎がそう告げる。
…………先程榊原に渡した手紙には、久世の横領について書かれている。江戸に行く榊原たちに何も伝えないわけにもいかず、この方法を取った。しかしそのすぐ後に久世の拝謁とは。
「順番は、もう少し何とかならなかったのか……」
「はい、歳の順ですから」
汗を拭って言う知親に、進太郎は涼しい顔をした。
久世は、相変わらず穏やかな雰囲気と共に部屋に入って来た。
「殿、ご無事のお帰り何よりにございます。この久世里進、引き続き誠心誠意お役目を果たさせて頂きまする」
やはりどうも、うまく結びつかない。目の前の善良そうな男が横領をしているなど。
「……明日から早速、江戸での勘定を見直さねばならぬ。勘定奉行の横川共々、頼りにしている」
知親がそう言ったのは、ほんの出来心であった。久世の横領はもはや疑う余地がないとはいえ、本当なのかどうしても実感は湧かなかったからだ。
しかしその瞬間、久世の穏やかな雰囲気は一瞬だが確かに消えた。その場に流れる緊張感のようなものを知親は感じ取る。
久世ははっ、と一言返事をしただけだった。普段なら気の利いた一言でも添えるはずでは、と思うのは知親の深読みなのだろうか。それとも……。
そうして、久世里進との短い拝謁は終わった。
納橋との拝謁はさらに短かった。両者の間に面識がないので話すこともあまりないのである。
初めてその目で見る納橋京成は噂に聞くほどに冷徹そうな印象ではなかったが、とにかくその立ち居振る舞いからしてとても静かな男だった。
納橋家は国衆の末裔。この長見でも一際大きな血縁と地縁を持つ一族だ。知親が藩主になる前の騒動でも、城の中の八割はこの男の側についていたというのだから、決して無視できない存在であることに違いない。
納橋はこの後、榊原と同じく江戸へと立つ。知親が藩主になったことに対して思うところがないわけではないだろうに、最後まで余計なことは一切喋らなかった。
「失礼いたします」
「ああ……」
最後に入って来た勘蔵を、知親は生気のない声で出迎えた。
「殿、大丈夫ですか」
「……どうにかなりそうなほど緊張した……」
「そのようにおっしゃられるなど珍しい」
さて、と勘蔵は知親の前に座った。
「昨夜はしばしの暇を頂き、忝うございます」
「いや、江戸からの移動で疲れたであろう。屋敷での用というのは済んだのか?」
「はあ。まあ一応は……。ところで、久世殿はどうでしたか」
勘蔵も珍しく言葉を濁したかと思えば、次には単刀直入に聞いてきた。
そういえば、勘蔵は先ほどまでの書類仕事の時にも久世と共にいたというのに、特に疑いを表に出すこともなかった。勘蔵も大概器用な男である。
「久世はいつも通りだった。しかし江戸での勘定の話を出すと、少し雰囲気が揺らいだようにも見えたな。気の所為かもしれないが」
「左様にございましたか。…………久世殿のことが明らかになった暁には、家老の席が一つ空きますが。その後はどうお考えで?」
「そうだな、それは」
その時、ギイ、と廊下で床が軋む音がした。
知親と勘蔵は、揃って音の方角に顔を向ける。勘蔵は素早く立ち上がり、襖を開けた。知親もその後ろから外を見たが、廊下に人の姿はない。
勘蔵は隣の間を開けて、そこに座る進太郎に聞いた。
「そちらの部屋から、誰かの姿は見えなかったか」
しかし、隣の間も廊下に面する襖はぴったりと閉まっている。進太郎も面食らった顔で、勘蔵の問いかけには首を振った。
「近くの者に、誰か見なかったか尋ねて参ります」
進太郎はそう言って立ち上がり、部屋を出る。
……横領、という言葉は直接声にしていないが、家老の席が一つ空くということは話していた。久世の名前も。
一体、誰が。
知親がいくら見つめていても、廊下は静まり返ったままだった。




