第二十七話 壁に耳あれば四面楚歌(前)
は、と知親は小姓の声で目を覚ます。昨日長見に帰って来て、瑞穂城で目覚めるのは久しぶりだった。もちろん目覚めるのは以前暮らしていた奥の部屋ではないし、一人でもないが。
「お目覚め麗しゅうございます、殿」
「ああ」
殿、という響きはいまだ知親の肩に重くのしかかる。昨日長見に着いた時の行列などはとんでもなかった。領民たちが平伏する道を家臣に囲まれながら、知親が馬に乗って進むのだ。
やはり高貴な血筋の方ならばこんな時も立派に振る舞われるのだろう。そう思いながら、知親はなんとか城まで帰って来たのである。
思い出しているうちにも、身支度はどんどん終わっていく。身支度が終わればまたいつも通り明重に挨拶をして……。
…………いや、違う。明重は隠居して江戸の下屋敷に残ったのだ。長見にはいない。明重も千代も日浦家の人間は皆江戸にいて、なんの血の繋がりもない知親がこうして瑞穂城にいる。なんとも妙な話である。
支度が終わると、襖が開いた。そこから久世が姿を現したのを見て、知親はすっと目が覚める感覚がする。
「殿、本日は書付への花押(判子を押すこと)と、その後は家臣一同の拝謁がございます」
「…………ああ」
此度の参勤交代と同時に、久世と勘蔵が城代家老として長見に。榊原と納橋は今日の拝謁を済ませてから江戸に立つ。
しかし、久世は一体いつ動くのか。今日は久世も一日中城で執務にあたらなければいけないはずだ。
では、代わりの者を立てる可能性は。いや、息子ですら知らない横領に関することだ、よほど信用のおける者でないと、使いは頼めないだろう。
知親は朝食を取るため、小姓に続いて部屋を移動する。すると歩いている途中に、少し開いている部屋の中が見えた。そこでは大量の、あまりにも大量の書付たちが山積みになって知親の花押を待ち受けている。
…………なんというかやはり、藤達に久世の見張りを頼んでおいてよかった。
殿様は忙しいのである。
*
「…………納得できるか、といえば否だね」
「伊波だけにか」
上手くないよ、と真顔で返す伊波に、仄火は頭を掻く。志乃から聞いたユマという民の話、そして彼らが情報屋殺しに関わっていることを話したが、やはり伊波の反応は芳しくなかった。
「だからって、行ってみるしかねえだろ。そうじゃないとお前の情報屋殺しの件も、何も進まないままだぜ」
「行かないと言ってるわけじゃない。ただ、危険すぎるだろう。『夢遊』の組合員が、そのユマって奴らに四人も殺されてる。そこに春日も藤もいないのに、二人だけで乗り込むなんて無茶だ」
主戦力である藤と春日は、今日から早速久世里進や、その周りを調べに行っているらしい。仄火が知親に頼みに行った手前、まさかそれを中断してこちらに来いと言えるわけはなかった。
「お前は、戦えないのかよ?」
「刀を握ったことは、あまりないかな」
駄目だこりゃ。伊波の答えに仄火は苦い顔をした。とはいえ、仄火も伊波を守りながらユマを相手にするほど腕に覚えがあるわけでもない。
移動に便利だから伊波と静寂を連れて行こうかと思ったが、もしかするとやめておいた方がいいのかもしれなかった。
「今、俺を置いて仄火だけで行こうと思ってるだろう」
「そうなるだろ、今の話じゃ」
伊波の言葉に仄火はため息混じりに言う。すると伊波はうーん、と唸って何かを考え始めた。静かになったかと思うと、覚悟を決めたように顔を上げる。
「分かった。俺も行くよ。国の長の客人とあっちゃ、そう易々と手出しはできないだろうし。いざという時は静寂の箱で逃げればいい。何より……」
「?」
「仄火が行って帰ってこなかったら、今度は俺が一人で行かなきゃならないかもしれない。そっちの方が危険だ」
俺が死ぬ前提なのかよ、と仄火が思う横で、伊波は「とりあえず藤たちに伝えないと」と紙を出してきて何かを書き始めた。
何というか、ここ一年で伊波もかなり本性を表し始めた。人の話を聞かない自分勝手な奴という印象はそのままに、その実、かなり端的に人と金の価値を見て物を考える男だということ。
癪なので、伊波の代わりに勘蔵に捕まえられたことを仄火は言わないでおいた。せいぜいこれからも、志乃に呼び出されるたびに要らぬ緊張をすればいいのだ。
その時、ガチャリと山車蔵の戸が開いた。顔を出したのは藤と春日である。
「え、お前ら見張りはいいのかよ?」
挨拶よりもつい先にそう言った仄火に、藤は首を振った。
「今日はないわ。両替商は休みだし、笹田屋は参勤交代が終わって、昨夜からお酒の注文で大忙しだもの。とても大金をゆっくり受け取る暇はなさそうね」
「まあ、久世里進も数日は忙しいだろうしね」
藤の横で呟く春日は、どことなく元気がないように見えた。藤はあまりそれには気が付いていない様子で、春日の言葉に頷いている。
伊波は書付を書く手間が省けたと言わんばかりに、執ろうとしていた筆を置いた。
「ちょうどいいところに」
伊波は仄火の方を見た。説明しろということだろう。
確かに一度、ユマと思われる男を見ている仄火が説明した方がいいのだろうが…………。春日はともかく、藤がこんな突飛な話を信じるだろうか。
仄火は不安に思いながら、伊波の代わりに畳の上に腰を下ろした。
「その話が本当だとしたら、私はやめた方がいいと思う。そのハルイって人が本当に味方だって保証はある?」
意外にも藤はユマの存在を認めた。やはりカジュギンカなんてところに長くいると、誰しも感覚がおかしくなるのだろうか。
「危険には違いない。…………てな訳で、そっちから春日を借してもらえたりとかは」
仄火は試しに聞いてみた。知親という味方を得た今、久世の見張りぐらいなら藤一人でもできるのではないか。彼女だって腕は立つのだし。それに、春日がこっちに来てくれれば百人力である。
しかし、藤は信じられないものを見るような目で仄火を見た。
「本気なの!? どうしてそんな危険なところに春日を連れて行くのよ?」
ああ、そうだったと仄火は頭を抱えた。藤は春日が戦えることを知らないのである。反対するに決まっていた。
すると、伊波が諦めたように立ち上がる。
「まあ、それならやっぱり俺たちだけで行くしかないね」
「伊波までそんな、危ないわ」
「危険を恐れていては、カジュギンカでは何もできないだろう?」
戦えない奴が何言ってやがる。
けっ、としらけた顔をする仄火の横で、藤はなおも伊波を止めた。
「……そうしたら貴方、人探しはどうするのよ? そのために『夢遊』を作ったんでしょう?」
今度は、伊波は何も言い返さなかった。しん、と拠点の中が静まり返る。
……「夢遊」は情報を集めるため、そして伊波が人を探すために作った組合。確かに、幾ら情報屋殺しのためとはいえ、ユマのもとへ行くことは伊波の本来の目的からは外れるものかもしれない。
一体伊波はどうするのか、と仄火は彼の方を見た。すると意外にも、伊波は迷いのない目をしている。
「これは、人探しにも大きく関わることさ。……きっとカジュギンカ中を手当たり次第に探さないと、『あいつ』は見つけられないから」
行く価値はあるよ、と伊波は明るく笑った。
*
「…………で、何?」
話が終わった後、仄火は春日に呼び出された。引っ張ってこられた場所は、いつぞやも二人で話した拠点の外にある山車の近くである。
呼び出した癖に、春日は何も喋らない。仄火は痺れを切らしてこちらから話しかけた。
「そういや俺の知り合いが長見の藩主だって、伊波には喋ってないんだな」
「……別に。何でもかんでも伊波に言うわけじゃないよ。仄火はできれば、僕らにも秘密にしておきたかったんだろ。……僕も伊波の人探しについて詳しく知ってるわけじゃないし。情報屋同士ってそういうものでしょ」
春日は冷めた目でそう言うと、やっと目的を話す気になったのか仄火の方を向いた。
「……仄火が山に行く前に、僕にも聞いておきたいことがあって。危ないところらしいし」
何でどいつもこいつも俺が死ぬ前提なんだよ、縁起でもない。
仄火は春日の横に座って、その話に耳を傾ける。どうせ藤絡みだろうな、と思いながら。
「その、お殿様なんだけどさ。藤はすぐに知り合いだって分かってたよね。向こうは気がついてなさそうだったのに」
「ああ、そうだな」
やっぱりそのことか。仄火は話の方向が見えてきた。
知親はまあ側から見てもいい男である。そんな男が藤の昔馴染みとなれば、不安になるのは当然といえば当然だろう。
「聞けばあのお殿様、今年で二十一歳らしいんだ。で、城に上がったのが五年前ってことは、十六の時だよ? 十六と二十一じゃ全然見た目も違うじゃないか」
「うん、まあ……」
それはそうかもしれないが……。
仄火から見て、別に藤が知親に対してどうこうといった様子は見受けられなかったように思う。しかし、それを言ったところで今の春日は冷静ではない。
「それで、どうしてすぐに分かったのかって藤に聞いたんだ」
「聞いたのか!?」
こくりと、春日は頷く。仄火ははあ、と驚きと感心の声を漏らした。
それで、藤が「知親に気があるから分かった」とでも言ったら春日はどうするつもりだったのだろうか。随分と無謀な真似をするものだ。
「そうしたら、藤は……」
春日はそう言って顔を上げた。まるでここからが本題だ、とでも言うように。
「『青柳の君』に、そっくりだったからって」




