第二十六話 神も触らなきゃ犬も喰わないわ(前)
「正確には、『元』情報屋と言った方がいいかしら」
志乃は湯呑みを置いた。
「私の獏はもう死んでしまったの。随分と昔に。それに、嫁いでからはこうしてずっと屋敷にいるからカジュギンカにも行けなくなってしまってね」
「…………その時に、久世家に借金があることを知った?」
「そうよ。その頃はまだそんなに情報屋の仕事も流行っていなかったから、私も気の向くままに好き放題できていたの。久世さんの家を覗いたのも、まあ興味本位でね」
目の前のお上品な奥方が、あの物騒なカジュギンカで気ままにしている様子を仄火はどうも上手く想像できない。
まあしかし、藤だって似たようなものなんだから、ありえないということはないのだろう。
「それで、次は何だったかしら。……ああそう、どうして私が仄火さんを呼んだのかだったわね」
正確には、どうして仄火が志乃に用事があることを知っていたのかである。志乃宛ての手紙を預かったことは、夢遊の誰にも言っていなかった。
すると、志乃は先ほど渡したその手紙を持ち上げる。
「昨日、静寂さんが言っていたの。仄火さんが『九葉山』を気にしているって」
「え?」
その話は、静寂には……。いや、確か彼女の箱の中で藤と春日に九葉山について聞いたか。箱の主である静寂には聞こえていたのだろう。
「それを聞いて、あの山が動いたと思ったの。それならきっと『あの子』は、私に何か知らせてくると思って」
ね、と言って志乃は手に取った手紙をひらひらと振る。
「あの山が動いた」だの「あの子」だの、仄火には何のことだかさっぱり分からない。志乃は隣の部屋にいる女中を呼んだ。
「きよ、お茶をもう一杯お願い。もっとあっさりしたお茶でいいわ」
「かしこまりました」
きよと呼ばれた女中が隣の部屋を出ていくと、志乃は「長い話になるから」と仄火に笑いかける。
「さて、何から話そうかしら。あの山のことを」
*
志乃が十七の頃だった。もう直に彼女の獏が死んで、カジュギンカに入れなくなる頃だ。そんなことはつゆも知らない当時の彼女は、カジュギンカで一人羽を伸ばし、その獏とはぐれてしまっていたところだった。
「娑羅ー、どこに行ったの?」
随分年老いた老婆の見た目ながら、豪胆で男らしい性分の獏だった。娑羅、という名前は遠い昔に人がそう呼んだ木の近くに住んでいたかららしい。
いつも娑羅は志乃を野放しにしてくれるのだが、現世に帰ろうと娑羅を探すと、別れた場所に彼女がいなかったのだ。
志乃は瑞穂城の向こう、九葉山の近くまで来ていた。ここも娑羅と別れた場所からはずいぶんと離れている。まさか山を登ったのだろうか。
空の向こうが茜色に染まり始めるのが見えた。早く帰らないと、と焦るままに足場の悪い麓道を歩んでいった、その時だ。
「ハルイ!」
「…………ウレナ、メソシテゲデクレツウナ……」
……道の奥から、何か聞こえた。
子供の声のような。妖だろうか?
志乃は思わず木陰に身を隠した。妖に会うのは初めてではないが、今は娑羅がいない。
「タ、ナカミカ?」
「ナ、ミニ。モコシクオデコウカ」
「デバ! モリクエデデア……」
そのわけの分からない言葉に、ざわりとする。
どうやら二人の子供が喋っていたらしいが、そのうち一人が言葉を切ったまま、何も聞こえてこない。
息を潜めた。子供の妖だとしても、無害だとは限らない。そっと、できる限り気配を消して志乃は城の方角へと移動し始める。後ろを伺ってみたが、子供のような姿は見えなかった。
「………………レタ?」
「きゃああ!」
突然背後から聞こえた声に、志乃は腰を抜かす。黒く短い髪の少年が木の上に座って、こちらを見下ろしていた。
少年は木から軽やかに飛び降りると、先ほどの声の方角から、もう一人もこちらに駆けてくる。
「サロ! イヨニカ?」
「クネ、ハルイ! シハヌショナユマカバ!」
黒髪の少年は何かを取り出した。彼の胴ほどの長さの棒に括り付けられた、鋭い小刀のような石。
志乃は肩で息をした。間違いなく、その武器は人を殺せると感じ取ったからだ。
すると、後から駆けてきた振り分け髪ほどの髪の長さをした少年が、その武器を掴んで志乃から遠ざける。
しばらく二人は何かを話していたが、黒髪の少年は怒ったような表情で、長髪の少年がそれを宥めているようだ。しばらくすると、長髪の少年がこちらを見た。
「ユマカカ?」
「え…………」
彼は志乃に喋りかけているのだが、何を言っているのか分からない。彼も困ったように頭を掻いた。
「……ワカラナイカ? コレハ、ユマカの言葉だと思うんだけど」
あ、と志乃は声をあげる。彼の言っていることが、急に分かるようになったのだ。志乃が頷くと、すると少年は黒髪の少年の方を向いた。
「ラ、ユマカ! ユレイタダ。 …………なあ、あなたはユマカなんだな?」
「ユマカ?」
聞きなれない言葉に目を丸くすると、黒髪の少年は武器を地面に突き立てた。
「ユマカだ。ユマの住む、サン……山、の下に住む者のこと」
「ユマのことは知らないんじゃないか、なあ?」
黒髪の少年も言葉を話し始めたかと思えば、長髪の少年もこちらに問いかけてくる。
「知らない、何、誰なのあなたたち……」
よく見れば、少年たちの服装は見たこともない奇妙なものだった。黒髪の少年は藍の風合いをした布に、少しごわついた生成りのような布。そしてそれとは反対に柔らかそうな白い股引き。
長髪の少年も同じような赤い服装だったが、こちらはじゃらじゃらとした飾りを首から下げていた。その、長髪の少年が言う。
「俺はハルイ。アロのコマイだ」
「あろのこまい…………?」
志乃が戸惑って言うと、黒髪の少年がため息をつく。
「アロ、はお前達の言う国と一緒だ。ユマにはたくさん国があって、アロはそのひとつ。国の、長がマイ。その子供がコマイ」
子マイということだろうか……と、つい志乃はどうでもいいのに考えてしまう。要はこのハルイという少年は、アロ国の長の息子らしい。
ハルイは、黒髪の少年を指差した。
「こっちはサロ。サロはうちのリラン、じゃなくて、えー…………かしん! そう、家臣の息子だ」
「な、なるほど?」
夢でも見ているのだろうか? カジュギンカだからといって、こんなことって。
志乃が呆然としていると、ハルイは志乃の手を取って立ち上がらせた。
「俺たち、ユマカを探していたんだ! あなたはカジュギンカに住んでいるのか?」
「いっいいえ。違うわ。私は現世から……」
「ゲンセ? というのはどこだ? カジュギンカではないのか?」
不思議そうにするハルイの大きな目が、志乃を見上げる。
現世とは何か。志乃自身もカジュギンカについてよく分かっているわけではないのに、説明できるだろうか。
「現世、というのは……。本物の? 世というか、カジュギンカの、外の世……?」
志乃が言うと、ハルイは弾かれたようにサロを見た。サロも驚いたようにハルイを見返す。
「ラ、ペルアシゲハカジュギンカ!」
そう早口でサロに言うと、ハルイはまた志乃の方を見る。
「俺たちはそのゲンセに帰りたい。どうしたらゲンセに帰れる?」
「帰る?」
ハルイは頷いた。
「父さんが言ってたんだ。ユマはずっとずっと昔、そのゲンセにいた。だから帰りたい」
子供が、慣れていないのであろう言葉であどけなく帰りたい、と言うのには流石に志乃もどうにかしてあげたいと思った。それによく見れば、ハルイもサロも服や言葉が違うので異国の国の人間のように見えるが、顔付きだけなら現世の子供とよく似ている。
すると、山の上の方からまた人の声が聞こえた。複数人、男の声だ。
「誰かいるわ」
「……たぶん、俺を探しに来たんだ。まさかこんなところまで…………」
「お前が最近、ユマカのことを気にしているからだ。山を降りたと思われたんじゃないのか」
サロはそう言って立ち上がる。
「もう行かないと。ハルイ、ほら」
「でも、」
「ま、待って!」
志乃は思わず声をかけてしまった。そして懐から手紙を取り出す。最近江戸にいる父とやり取りした時のものだ。
表書きに「志乃」と書いてある部分をちぎって、ハルイに渡した。
「私は志乃。何かあったら文をよこして」
ハルイはそれを握り、しばらく言葉を探してから「ありがとう」と言った。そして二人は山の上へと帰って行く。
それから数日後だ、娑羅が死んだのは。死んだというより、彼女は娑羅の木になったのだ。あの美しい木になりたいと神様に願ったら、叶えてくれたと言っていた。




