第二十五話 世間も見通す胸算用(前)
「…………志乃?」
探していた名前だった。
昨晩、仄火を襲った奇妙ななりの男が手紙を渡せと言ってきた相手。
あの勘蔵の妻が同じ名前で、しかも知親に久世の横領のことを知らせてきた張本人。偶然だろうか。
仄火の頭に、四ヶ月前の記憶が蘇った。久世のことがひと段落した後、伊波はどこへ行ったか。そもそも、なぜ仄火達は久世の横領のことなど知りえたのか。何が始まりだったのか。
「…………仄火?」
黙りこくってしまった仄火を知親が覗き込んだ。
「………………いや、何でもねえ」
仄火が顔を上げると、知親も藤と春日を振り返る。
「では、そなたたちには久世の動向を調べてもらうということでいいだろうか。何か動きがあれば知らせてほしい」
「かしこまりました」
藤と春日はそれぞれに頭を下げる。
仄火はふと気になった。ここに来てからしばらく経つが、知親はこんなに長く寝所を空にしていて大丈夫なのか。しかし、仄火が聞く前にハクが口を開いた。
「話が纏まったのならもう早く戻った方がよいのではないか? そう長い間はごまかせんじゃろう」
「そうだな。こちらからも何か分かれば、仄火を通して文をだそう」
そう言って知親がその場を去る時も、藤は頭を下げていた。武家の娘なのだから作法はきちんと仕込まれているのだろうが。それは本当に知親が藩主になったのだと、仄火に感じさせるのであった。
帰りはハクだけではなく仄火も知親についていった。九葉山のことを話すためだ。
仄火が昨晩の奇妙な男のことを話す間、知親は何だか実感が湧かないような顔で聞いていた。
「…………それは、獏のような妖ではないのか?」
「そうかもな。けど、妖って武器とか使うのか? そう考えるとやっぱり違うような……」
それに、手紙を渡すという行為もおおよそ妖らしくはない。
「分からんぞ。鎌鼬とかいう妖は鎌を持っているそうじゃからな」
ハクのもっともな意見に、仄火と知親は揃って唸る。
ただ、あれは鎌かと言われると……。
「鎌よりは小振りで、短い武器だったな。しかし小刀かと言われるとそうでもないような」
仄火の言葉から、続けて何かを思いつく者はいなかった。そうこうしているうちに知親の寝所へと着いたらしい。あとはハクが現世へと送り届けるだけだ。
すると、部屋の前で見送る仄火を、知親は一度振り返った。
「そういえば『志乃』という名前を出した時、何かを考えていただろう。どうかしたのか」
「ああ、いや……」
仄火は迷う。その男から渡された手紙についても話した方がいいだろうか。志乃が武家の人間なら、知親を通して渡すのが早いかもしれない。しかし……。
「いや、何でもねえよ。知り合いと同じ名前だったってだけだ」
「そうか」
仄火は言わなかった。あの男の、「中身を見たらすぐに分かる」という言葉を思い出したからだ。
それに、今の仄火にははっきりと見えている。志乃に繋がる一筋の道が。
*
夜が明けて、日が昇ってからしばらく経った頃。仄火とハクは、また昨晩と同じように拠点に向かって歩いていた。
欠伸をするハクは一段と眠そうである。そう思う仄火もまた、あまり眠れていないせいか欠伸がうつってしまった。
すると、もうすっかり見慣れた山車蔵が目の前に見えてくる。
春日と藤が昨日の今日でそのまま拠点にいるとは考えにくい。
昨晩解散した後、春日には藤を送っていくように言ったが果たして上手くやれたのだろうか。
まあとにかく、今拠点に誰かいるとしたら伊波だろう。いなければ来るまで待つだけのことだ。
重い戸を引くと、山車蔵に光が差し込んだ。中には誰もいない。
鍵もかけずに不用心だな、と仄火は思う。これではいつ誰に情報を盗み見られるか分かったものではない。しかし、山車蔵の中に昨日伊波が読んでいたような帳簿の類は見当たらなかった。
「一冊も本がねえじゃねえか。どこ行った?」
仄火の言葉にハクも辺りを見回す。
「はて。この辺りにあの量の本を隠せそうなところなど見当たらんがのう。…………ん?」
するとハクは一点に目線を止める。しばらくじっとその方向を見つめると、ハクはニヤリと笑った。
「わしは分かったぞ。本がどこにいったか」
ニヤニヤと笑うハクはどうやら答えを教える気がないらしい。それを悟った仄火は、先ほどハクが見ていた方角を見る。
すると、ある違和感に気がついた。
「待て、確かあそこ、本棚があったよな?」
昨日拠点に来た時には本棚があったはずの空間が、不自然に空いている。
本棚が消えた? 消えた本棚に情報の書かれた帳簿や本が入っていたのか……?
見つめ続けていると、ふと仄火は気がつく。当たり前だが、本棚は四角い。もし本棚という機能を無視するなら、その輪郭は限りなく箱に近いのだ。
「まさか、あの本棚も静寂の箱の一つか。ここを留守にするときは情報をあの本棚ごと空間の中に閉じている、と」
「その通りだよ」
仄火の声に応えたのは、気がつけば山車蔵の戸の側に立っていた伊波だった。その後ろには静寂もいて、彼女もまた眠そうに目を擦っている。
「ちょうどいいところに来たね、仄火。昨夜はどうだった? 久世の件は無事に進みそうかい?」
「まあな。そっちも、情報屋殺しのことは何か分かったのか?」
拠点に敷かれた畳に座る伊波は、昨日よりかはいつもの調子を取り戻しているように見えた。しかし、伊波は仄火の質問には首を横に振る。
「いや、駄目だね。どうも妙なんだ。刀で斬り殺されたわけじゃない、あれは…………矢傷というのが正しいんだろうけど」
「矢傷って……」
カジュギンカで、大きな弓や何本もの矢を嵩張らせて歩いている情報屋など、仄火は見たことがなかった。
「人じゃないとすれば………………矢を射る妖なんて、いるか?」
「それも調べたけど、まず見当たらないね。大昔に鵺が弓で退治された話ばかりだよ」
仄火はハクの方も振り返ったが、伊波と同意見らしく肩をすくめてみせた。
情報屋でもなければ妖でもない。ならば一体誰が矢で四人も殺したのか。
「そうだ、仄火も何か用があって来たんだろう。昨日の今日でまたここに足を運ぶくらいなんだから」
「ああ、そうそう」
仄火は懐からあの手紙を取り出した。そしてその表書きを伊波に見せる。
「この『志乃』って人が、この『夢遊』に金を出した人物で、お松さんについての依頼人だろ?」
簡単なことだった。どうして志乃は、知親に久世の横領について手紙を出せたのか。あの時、仄火たち以外に横領のことを知りえたのは誰か。
それは依頼人以外にない。仄火が知親に手紙を出すことを提案した後、伊波は依頼人の志乃のところへ行っていたはずだ。そこで志乃は横領を知った。
すると伊波は驚いてから、呆れたような顔で笑った。
「参ったな。本当に持ってたよ」
その言葉の意味が分からない仄火に、伊波はどこか愉快そうな目を向ける。
「そうだよ。立川家のご正室、志乃様が俺の依頼人で、この『夢遊』の、ある意味最高権力者さ」
「やっぱりな。何でそんな人がカジュギンカを知ってる? それに、お前にお松さんの調べを急ぐよう言ったのだって、横領のことを何か知っていたとしか…………」
矢継ぎ早に問う仄火に、伊波は苦笑して「まあ待ちなよ」とそれを手で遮る。そして懐から一通手紙を取り出した。
「実はさっきまで、またご機嫌伺いに行って来たところでね」
そしてその手紙を仄火に差し出す。上質そうな紙の上、表書きには「仄火様へ」と書かれていた。
「どうやら、彼女の方が一枚上手のようだ」
仄火は目を見開き、しばらく固まった。
そして手紙を奪い取るようにして中を見る。大急ぎで綴られた文字を追った。
「ぜひ一度お目にかかり、お話してみたく存じます。きっと貴方様にも、積もるお話があることでしょう。
先日京より玉露が届きました故、冷めてしまわぬうちに遊びにいらして下さい。
心よりお待ち申し上げております」
仄火は、唖然とした顔で手紙を畳んだ。
「………………どうなってんだよ…………」
どうして志乃は、仄火が彼女に用があると知っているのか。
「さっき言ってたようなことも、彼女に直接聞くといい。その手紙もね。俺としても依頼人について勝手に喋るのは気が引けるし」
伊波はにこやかにそう言うと、振り返って静寂を呼ぶ。しかし返事はない。見ると先程までなかった本棚に寄りかかるようにして静寂は寝ていた。
「あれま、流石の静寂も疲れたみたいだ。これは自分の足で行ってもらうしかないね」
伊波は悪びれもせず、まあ頑張って、と仄火に手を振った。




