第二十三話 深山幽谷、昼想夜夢(後)
夜になって、仄火はようやく草履を編み終えた。前の物は随分使い古していて、今度の雪でとうとう駄目になってしまったのだ。
すると清が仄火の前に夕飯を置いた。
「まだしばらく、カジュギンカには行かない方がいいんじゃないですか。情報屋殺しなんてものが流行っているのなら」
「相変わらず地獄耳なことで」
仄火はそう言って味噌汁を一口飲む。暖かい食事が冷えた体をじんわりと温めた。
椚が殺されたり、久世の横領のことが明らかになってからの四ヶ月。青龍の情報を得るために「夢遊」の一員になった仄火だったが、一向に青龍の情報は入って来ない。
いよいよのんびりとしていられないので、「夢遊」からの情報を待つ間は現世の資料を調べていた。
普通の人間では立ち入れないような場所も、カジュギンカに入れば差し障りなく同じ物を見ることができる。
しかし、青龍の情報はまだ一つも見つかっていない。ちらほらと龍神が祀ってある神社はあるものの、それが青龍だと言い切れるまでの証拠はなかった。
「別の依頼も受けてみたらどうです? あまり青龍のことばかり考えていても、逆に分からなくなるだけかもしれませんよ」
「そんなもん来てたらとっくに受けてるっての」
仄火は米を飲み込む。
残念ながらこの四ヶ月、情報屋としての仕事はからっきしである。まあ、もともと三ヶ月に一度依頼があればいい方だ。こんなこともざらである。
ふと、四ヶ月という言葉で仄火は思い出した。
「そういえば、知親は帰って来てんじゃねえのか? もう半年経つだろ」
「そうですね。すでに江戸は立たれたと思いますよ。今はもう長見にもほど近い道中かもしれませんね」
「あいつ、俺の手紙は読んでねえんだろうな。やっぱりどこかで捨てられたか」
「…………それ、まずくないですか。もし横領を隠したい側の人間に手紙が見られていたら、仄火さんは横領の事実を知っている人物ですよ」
清がそう言ったきり、部屋には箸と食器の音だけが響く。
「なんの話か知らんが、客が来とるぞ」
ハクは、清の隣に座っていた。清はいきなり現れたハクにも眉一つ動かさず「おかえりなさい」と食事を続けている。
「客? こんな夜にか?」
仄火は立ち上がった。今日はやけに来客が多いな、と思いながら戸を開ける。
しかし、そこにはただ夜の暗がりがあるだけだった。
「おい、誰もいねえじゃねえか」
「違う違う、こっちじゃ」
ハクは仄火の側までやって来て戸を閉める。カタン、という音と共に空気が変わり、カジュギンカに入ったことを仄火は肌で感じた。
振り返ると、そこには清ではなく知親がいた。
「は!? お前、なんで………………」
「久しいな」
知親は別れた時と何も変わらず、群青の羽織と腰には刀を刺していた。これまた相変わらずの無表情で短く言う。
「大名行列はまだ長見に帰って来てねえだろ? まさか一人で抜け出して来たのか!?」
知親はすでに藩主の身であるはず。参勤交代の途中で抜け出すことなどできようか。
焦った顔で聞く仄火に、知親はああ、と今気がついたような顔をした。
「これは青龍の力だ」
「青龍?」
「体は大名行列の本陣で寝ているが、意識だけをこちらへ運んだ。カジュギンカとは不思議なものだな。意識だけの存在でも実態があるらしい」
知親が壁を軽く叩くと、確かにコンと音が鳴った。
「お前、前はカジュギンカに入るのだけでもやっとだったじゃねえか。一体いつの間にそんなことまで……」
「青龍と話をしたら、それから多少上手く力を使えるようになった」
「話をしたって…………」
ああ、そういや前の藩主も一度だけ青龍の声を聞いたとか言っていたか。それなら青龍が喋ること自体はおかしくない。
仄火は一周回ってもはや冷静だったが、頭だけは痛くなるような気がした。
「話をしたといっても、一度だけだ。私のせいでいつもは声も発せないと悪態をつかれた。それがどういう意味かは分からないが…………。だが一方で、分かったこともある」
知親は、思い出すように少し目線を上に向けた。
「まず、青龍は大名家である日浦家に拘っているということ。そして代々日浦家に憑いている理由は……」
そこで知親は言葉を切った。珍しく言葉を濁したかと思うと、ため息を一つつく。
「九葉山、らしい」
「九葉山あ?」
息を呑んで待っていた仄火は拍子抜けした。
九葉山といえば、海を望む長見の背に聳える山である。瑞穂城からもほど近く、長見の者ならば馴染みある山だ。
「ああ。私はもう以前のように一人で出歩くことはできぬ故、代わりに九葉山を調べてはくれないか」
「…………分かったよ。まあ、それが依頼だからな」
とはいえ、山を調べるとは一体。土を掘り返したら宝でも出てきたりすんのか。
それに、九葉山は果てなく広がる山脈の一部だ。どこまでが九葉山なのか検討がつかなかった。
「それと、そなたの手紙だが」
「あ! そうだよお前、見たなら返事ぐらいよこしやがれ」
仄火が眉根を寄せると、知親は「そういうわけにもいかんだろう」と首を振った。
「確かに返事を書かなかったのは謝るが、なにせ横領のことについてだ。返事を出したとして、途中で中を見られてはたまったものではない」
「じゃあそれはともかく、証拠は? 見つかったか?」
仄火が聞くと、知親は今度は首を振るわけでも、頷くわけでもなく真っ直ぐに仄火を見た。
「それは、これから見つける。久世が笹田屋に横領した金を横流ししていることは分かった。そこを抑えるのが一番確実だろう」
笹田屋といえば、長見で一番の酒屋である。まあ横領の黒幕としてはありそうな人選だ。
仄火はそこで、今朝家を訪れた藤のことを思い出した。
「なあ、お前に手紙を出したのは、久世に陥れられたやつの身内から話を聞いたからなんだ。久世を成敗するなら、そいつも仲間内に入れてやっちゃくれねえか」
「それは、構わないが……。一度その者と会っておきたい。一歩間違えれば改易だからな」
「じゃあ明日の夜、会わせるからここに来てくれよ」
「それは、やめといた方がいいじゃろ」
黙って聞いていたハクが、そこで口を挟んだ。仄火たちがハクの方を振り返ると、彼は知親に近寄ってその肩を叩く。
「青龍を閉じ込めておるのは、お前さんの肉体じゃ。それを置いてきてしまったなら、いつ青龍にこの意識を乗っ取られるともしれんぞ」
ハクは知親の耳に口を寄せて、いやにおどろおどろしく囁いた。
「意識を乗っ取った青龍が、そのまま体に戻らなければ……。お前さんは死んだも同然じゃ」
それを聞いて、知親はもちろん、仄火も揃って息を呑んだ。同時に知親をさっさと帰らせるべきだと判断した仄火は、家の戸を開ける。
「…………帰りながら話すか」
知親も頷いて、部屋を出た。冬の夜は凍てつくような寒さである。
「お前、その格好で寒くねえのかよ」
知親は夏に見た時と同じ格好をしている。群青の羽織りは薄手ではないが、冬を凌げるようには見えない。
「寒さはそこまで感じないな。やはり実際の身体ではないからだろうか」
そう言って平気そうな顔で歩いている知親は見ているだけでも寒く、仄火は奇妙なものを見るような目で肩を縮めた。
「今、どこまで帰って来てんだ」
「土地勘がないのでよく分からないが、あと一日二日で長見に着くだろうと、立川が」
「…………待て、じゃあどうやってそんな距離を一晩でここまで来たんだよ」
仄火が言うと、知親ははっとした顔になった。
「……そういえば、意識だけなら好きなところに飛べるのであった」
「なんだよ、じゃあ今すぐにでも帰れるじゃねえか!」
本当に、目の前の知親は実体ではないのだ。なんだかそれは本当に危うく見えて、仄火はぞっとしない心持ちであった。
「明日は俺たちがそっちまで行く。移動手段には当てがあるしな。お前はちゃんと肉体ごとカジュギンカに入って待っといてくれ。布団になんか入れとけばごまかせるだろ」
「ごまかせるだろうか…………」
「あと、間違っても名乗るなよ。藩主がカジュギンカと関係があるなんて知られたら面倒なことになる」
主に、伊波に知られたら。
知親は不安そうだったが、最終的には仄火の案に頷いた。そして立ち止まると、顎に手を当てて「どうやって飛ぶのだったか」と考え始める。
なんだか仄火は小さく違和感を覚えた。
「なーんかお前、人間っぽくなったな。結婚したからか?」
青龍と話したり、離れた場所に意識を飛ばしたり。やることはどんどん人間離れしているが、その一方で多少声色に変化があったり、前より口数も少し多くなったような気がした。
しかし当人に自覚はないようで、首を捻っている。
「……本当に、江戸では様々なことがあったからな。言葉遣いや江戸城での挨拶で何度神経をすり減らしたことか。姫君もなんとも…………」
知親がそう言いかけたところで、すっとその指先が透けた。ぎょっとする仄火に対して、知親は平然と口を開く。
「ああ、ようやく帰り方を思い出したようだ。では、また明日に」
言い終わると同時に、まるで幻のように知親は消えた。
*
ハクは家に残ったようだ。大方、寒いから外に出たくなかったのだろう。
知親を見送ってから、仄火はカジュギンカの夜道を一人歩いた。
何はともあれ、久世の件については上手く纏まりそうで何よりである。清が言うように横領の事実を知っていると命を狙われる心配もなくなった。
だが一方で、十両に向けて九葉山を調べるという訳のわからない仕事がやって来たのである。
……引き受けちまったが、山を調べるって大雑把過ぎるだろ。第一、現世の九葉山を調べりゃいいのか、カジュギンカの九葉山を調べりゃいいのか…………。
そこで、仄火の足が止まった。
………………誰かに見られている。
気配の位置を探ろうとするが、気配は薄く、冷たい風も邪魔をした。
「情報屋殺しよ」
「それも『夢遊』の組合員ばかりね」
藤の声が頭に蘇った。そして気がつく。刀を持っていない。
いつもカジュギンカに来る時はハクから刀を受け取っておくのに、こんな時に限ってすっかり忘れていた。
…………家までの距離はそうない。走って逃げ切れるか。
仄火は地面を蹴った。編んだばかりの草履はまだ固く、足に馴染まない。しかし構っている余裕はなかった。
だが、次の瞬間には空を見上げていた。
「動くな」
男の声だった。何か尖ったものが首の近くにある。相手の顔は暗くて見えない。
瞬時に目を走らせた。鳩尾になんとか一発入れられないか、砂で目眩しできないか。
「お前は情報屋だろ。共にいた男は武士か」
「は?」
仄火が声を上げると、首元の武器は離された。仄火は殴り飛ばして逃げようと拳を固めたが、その瞬間、顔の前に一通の手紙が突きつけられる。
「現世の志乃という者に届けろ。中を見てはいけない」
言っていることは分かるが、男の言葉は抑揚が少し不自然だった。
もう一度強く突きつけられた手紙を、仄火は思わず受け取る。すると男は仄火の上から身をひいた。
男は日に焼けた肌で、見慣れない奇妙な衣服を着ていた。着物と似ているが、色味はほとんどないような。
男は仄火を指差した。
「中を見てはいけない。見たら、いつでも分かる」
声も出せないでいる内に、男は消えた。正確には素早く駆けて行った。
どこへ向かうのかと仄火はその方向を見上げる。
そこには、夜闇の中に黒く聳える九葉山があった。




