第二十二話 春龍、暁を覚える(後)
「……どうされるおつもりで?」
進太郎を下がらせた後、部屋に残った勘蔵は知親に問いかけた。どうするつもりかとは勿論、進太郎の処遇についてである。
聞かれた知親は、無意識に掌で顔の輪郭をなぜた。
久世の横領が明らかになったならば、一族郎党藩を追い出されるか、家を取り潰されるだろう。それでも、まだ年若い進太郎が死罪を免れる可能性は高かった。
しかし、そこに親を売るという不孝が重なれば子供であろうと恐らくは……。
「進太郎が密告をしたことは伏せ、私達だけで久世を裁くことはできないだろうか」
そうすれば、最悪でも進太郎が死ぬことはない。
しかし、知親の提案に勘蔵は極めて端的に告げた。
「若様が死罪を言い渡さなければ、あの者が自分で腹を切るだけのこと。元服もまだだというのに、あの目は微塵も死を恐れておりませんでした。いや……」
勘蔵はそこで言い淀む。
「若さ故に、己を曲げることを知らぬのでしょう。周りが知らずとも、己は己の罪を知っている。たとえ己に対してでも、恥じるような生き様を見せる位ならば死を選ぶと。武士道としては天晴れにございますが…………。今の世は、それだけでは生きてゆけぬのもまた事実」
進太郎は聡い。いち早く仄火の手紙に気がつき、それを奥に隠して処分させる立ち回りまで、おおよそあの歳の子供がすることとは思えない。
だが、清らかで真っ直ぐな若さの上で、その知性は彼に死の決断を下させたのだ。
「………………進太郎の処遇については、追って取り決める。それと奥方様の手紙はすぐに処分し、返事もそれと分からぬように書いてほしい」
知親が言うと、勘蔵は「はっ」と頭を下げた。
「すべて恙なく。若様もどうか今は、明日のご挨拶にお心を注がれますよう」
勘蔵はそう言って部屋を出た。
……進太郎にしても勘蔵にしても、知親の周りには優秀で誠実な者達が多くいる。彼らが正当な理由なく藩主となる自分に付き従っていることに、知親には申し訳なさすら覚えた。
すると勘蔵が部屋を出たのを見計らい、また別の小姓が部屋に入ってくる。
「若様、ご挨拶の下稽古の時間にございます」
「ああ、分かった」
下稽古、つまり明日のご挨拶に向けて、失礼がないよう作法の予行演習である。今まで何度も行った下稽古だが、いよいよ大詰めといったところだ。
知親は小姓に続いて広間への廊下を歩く。
ふと見ると庭はすっかり秋の姿に色を変え、萩や女郎花が咲いていた。
……進太郎の決意に関しては、勘蔵の言う通りで間違いないと思っている。だがそれと同時に、知親には一つ思うことがあった。
進太郎は父のために死ぬのではないか、と。
父に横領という外道を辞めさせるため告発する。そして親を売った自分も一蓮托生として父と同じところへ行く。
そうであれば、知親の「進太郎の告発を隠して彼の罪を軽くする」というのは、最も進太郎の望まぬところではないか。
随分涼しくなった風が吹く廊下を進むにつれ、草花の中に青紫の桔梗が鮮やかに見えた。
「…………元より孝行を説く口など、持ち合わせてはおらんな……」
「何か仰られましたか?」
こちらを振り向いた小姓に、知親はいや、と小さく首を振った。
広間には、驚いたことに明重がいた。彼が座っているのは上座、つまり将軍の位置である。
「明日は一等大事なお目見え、それも知親一人で公方様にご挨拶をする日じゃからな。藩主としての最後の仕事じゃ。一つ稽古の成果を儂に見せてはくれぬか」
明重は笑いながらも、鋭い眼差しをしていた。
明重だけではない。それまでの下稽古よりも倍の人数が広間には集まっており、今ここで知親が藩主たるかを見定めようとしているかのようだ。その中には久世里進もいた。
思わず、知親は久世に視線を留めてしまう。老中の位置に座る久世は相変わらず穏やかな表情だった。久世は知親の視線に気がついて、「では、」と頷きかける。
知親は我に返って広間の外へと出た。下稽古は廊下で名前を呼ばれるところから始まる。
今は、余計なことを考えている場合ではない。
江戸について間もなく、明重と共に江戸城へ参上した時と同等の緊張が知親を襲った。
瑞穂城で日陰暮らしをしている間も、知親は礼儀作法について学んでいたため、これまでの下稽古では目立つ失敗をすることもなかった。
だが今はどうだ。この緊張で普段通りやれるのか。それも明重の前で。久世を目の前に、余計なことを考えずにいられるのか。
「長見の国、日浦長門守!」
奏者番の役が高らかにそう読み上げ、襖が開いた。
*
知親はぼんやりしていた。見ただけではいつもの無表情を張り付けているだけなのでそうとは分からないが、頭の中は確実にぼんやりとしていた。そして時々我に返る、を繰り返す。
知親は疲れていた。
下稽古は緊張の中でも、体に染みついた癖のおかげで何とか乗り切れた。途中までは。
さああとは部屋を下がるのみ、というところで、明重が問いを投げるまでは。
「長見は飢饉の折においても米がよう取れると耳にしたが、一体なにゆえか」
明重はそれが青龍の加護のおかげだと知っていながら、知親にそう問いかけたのである。
だが、極限状態の知親がすぐに対応できるわけもなく。
「海沿いにおいては稀に見る肥沃な土地と、何より我が藩の民が公方様のご恩に報いんと農耕に精を出している故にございます」
知親がその答えを出すのに、少々時間がかかった。これが江戸城でのことなら、将軍をお待たせしたとして大失態である。
「うむ。農民の下りはよかったが、あまり土地を褒めると取り上げられて天領地にされてしまうぞ」
明重は懐から取り出した扇子を仰ぎながら笑った。
そしてやり直し。知親はまた同じことを、もしくは別のことを聞かれるかもしれないと身構えたのだが、二回目は何事もなく終わった。まあ通常、長見のような小藩の大名に将軍自ら声を掛けることなど滅多にない。
明日に備えて、いつもより早くに知親の部屋の明かりは落とされた。暗くなった部屋で、明日のことを思うと気が知れない。今日のような失態を働けば、最悪日浦家は改易である。
恐ろしく疲れているというのに、知親の目は冴えてしまっていた。明かりが消えてもう半刻は経とうとしているのではないか。眠らなければと思うほどに眠れない。
知親は、少し歩こうと思った。歩いて外の空気を吸えば、少しは落ち着けるかもしれないと体を起こす。
「若様、如何なさいましたか」
それに気がついた、隣の間に控えている小姓が声を掛ける。
「ああ、すこし厠に……」
「さっさと寝たらどうだ、この阿呆が」
どこからか、声がした。
「…………今、何か言ったか」
知親が聞くと、小姓は不思議そうに首を傾げる。
「いえ、何も……?」
小姓は手燭を掲げて襖を開け、厠の方向へと歩きだした。知親もよく分からないまま後ろへと続く。
小姓の声ではなかった。もっと成熟した男の声。というより、反応を見るに小姓には聞こえていないのではないか。
ならば、幻聴か。さっさと寝ろと言っていたし、疲れすぎて心の声が幻聴となって聞こえたのかもしれない。
きっとそうだということにして、知親は冷たい廊下を歩いて行った。
「もし寝不足のまま、この家を取り潰したら承知せんからな」
また、足が止まる。前を歩く小姓が知親を振り返った。やはり小姓には、何も聞こえていない。
しかし今、確実に声がした。そして声が響いたのは………………。
知親は寝間着の襟元をぎゅっと掴んだ。
ここからだ。
「やっと気がついたか、若造」




