第二十二話 春龍、暁を覚える(前)
一日の非番も終わり、進太郎はまた屋敷へと戻って来ていた。
「若様、失礼いたします」
襖を開けると、知親はまた帳簿片手に算盤を弾いているところだった。
「また確かめ算をしておられるのですか。それより弓や馬は如何です? 私でよければいつでもお供いたしますよ」
進太郎が言うと、知親は筆を置いて顔を上げた。その目線の先、部屋の丁度真ん中あたりに一枚の座布団が置いてあることに進太郎は気がつく。
「そこに」と知親が言うので、進太郎は知親の方を向いて正座した。すると、知親は向かって右を指し示す。
「あちらを向いて座ってくれないか」
「はあ……」
進太郎は何が何だか分からないまま、言われた通りに知親が座っている文机と並行になるような向きに座り直した。目の前には、隣の間へと続く襖があるだけだ。
「あの、これは一体……」
進太郎がそう言いかけると、目の前の襖は勢いよく開いた。開けたのは家老の立川勘蔵。そして進太郎の目の前、向かい合うように知らない男が座っている。
「どうだ」
勘蔵がその男に聞くと、男は「はい」と頷いた。
「間違いありません、このお方です」
男は真っ直ぐに進太郎を見ている。
勘蔵は男を下がらせると、こちらの間へと移ってから襖を閉めた。
「先ほどの男が何者か知っているか」
横から知親に聞かれ、進太郎は首を横に振る。
「いえ、存じ上げませぬ。あの方はどなたでしょうか。それに……」
進太郎を見て「このお方です」と言っていた。
一体、あれは誰なのか。見知った顔ではないし、そもそも武士の風体でもなかった。
「あれは灰買いだ」
灰買い。それを聞いて、進太郎は急速に理解した。昨日灰小屋に寄ったばかりだ。
では今のは、きっと、
「あの者には、昨日手紙を持った女中が追いかけて行ったのは、そなたに間違いないかと問うた」
きっとすべて、知親に知られてしまったということである。
「…………奥方様ですか」
進太郎は力なく言う。
進太郎は、昨夜知親が奥に渡ったと聞いて気が気ではなかった。そしておそらく、千代は進太郎が手紙を燃やしたことを知親に喋ったのであろう。
しかし進太郎の予想に反して、知親は首を振った。
「姫は、そなたとの約束を破る訳にはいかぬと何もお話しにならなかった。手紙を燃やしたのがそなたではないかと思うに至ったのは、また別の理由だ」
仄火は、勘蔵の妻である志乃と同じことを伝えようとしたのではないか。志乃からの手紙を見て知親はそう考えた。
そして仄火の手紙を燃やしたのが進太郎だと分かった今、それは確信へと変わったのだ。
「……真か」
知親が言うと、進太郎は畳に両手をついて深く深く頭を下げた。
「………………はい。我が父は藩の公金を横領し、私金としております…………」
知親は静かにため息をついた。勘蔵も冷静さを保ってはいるが、その雰囲気はどこか落ち着かない様子だ。
だが次の瞬間、進太郎はバッと頭を上げる。
「しかしどうか、どうか一つお聞き入れ願えませぬか。手紙を燃やしたのには訳がございます! 例え罪人の息子の言葉だとしても、こればかりはどうか……」
その形相は、いつもの粛然とした小姓姿からは想像もつかないほど必死なもので。
知親は進太郎をなだめるように宙に手を伸ばした。
「あまり大きな声を出すな。それに、そなたの言い分はもちろん聞くつもりだ」
知親が言うのには理由があった。
進太郎が家の不正を隠すために手紙を燃やし、千代に口止めをしたのなら。千代があんなに真剣な目で進太郎との約束を守ろうとするだろうか。
知親は何となく、進太郎が手紙を燃やした理由は別にあるのではないかと思った。ただし理由はあるが、証拠はない。
「手紙を燃やしたのは、今父が疑われるようなことになっては、私の立てた策も潰えてしまうと思ったからです」
「策?」
「はい、」
進太郎は息を落ち着けて、膝の上で両の拳を握りしめる。
「始まりは長見の実家で、とある証書を見つけたことでした。両替商からのもので、『預かった八百両を笹田屋に届ける』という内容でした」
笹田屋というのは長見一番の酒屋で、藩のご用商人である。久世は八百両を両替商に預け、笹田屋に送るよう頼んだということだ。
「そして笹田屋から、八百両を受け取ったという証書も。私は、きっと笹田屋への掛け(買い物をまとめて後払いする仕組み)を払ったもので、これから藩の帳簿に記される証書であろうと思いました」
落ち着きを取り戻し始めた進太郎の口調に、知親も静かに相槌を打つ。
「しかしそれらはいつまでたっても家に、隠されるようにしまわれていたのです。なぜだか父には聞けず、城に奉公に上がってから証書と同じ年度の帳簿を調べてみました。しかし、笹田屋に藩が八百両も払った記録はなかった。それで……父のしていることが分かったのです」
勘蔵が知親の方を見た。
言いたいことは分かる。進太郎の話を聞く限り、横領に関してはあの笹田屋も共犯であるということだ。
「……それで、そなたの策というのは」
知親が聞くと、進太郎は「父の不正の証拠を、突きつけるのです」と唇を噛んだ。
「その証書は、父が江戸から長見に戻ってすぐの日付でした。であれば、次に長見に戻る時も、父は両替商に金を預けに行くはず。そこを取り押さえれば、動かぬ証拠となるはずです」
なるほど、と知親は頷いた。
「その前に私たちが下手に調べて久世の警戒が強まれば、金を送る日取りも読みづらくなってしまうと。だから横領を知らせる手紙を燃やした……」
「はい。若様や立川様が、帳簿の洗い直しを始められたことは存じておりました。そこに、立川家の用人である瀬川様には不釣り合いな字の町人の手紙……。長見の街には情報を売る裏の商人も多い、何か調べさせていても不思議ではないと思いました。そして中を見ると、案の定……」
進太郎はそこまで言うと、深く息を吐いた。そして知親と目を合わせることもなかった。罪人の息子だと明かしてしまった以上、もう自分にできることはないと思ったのだ。
…………しかし知親は言った。
「では、その策に乗ろう」
「え?」
「この何年、誰も横領を見抜けなかった。ならばそなたの言うように、金を送るところを抑えるのが確実であろう」
横領の額は八百両近く。その中のたった十両以下である書物の帳簿間違いを指摘したとて、久世が大金を横領している直接の証拠にはならない。動かぬ証拠を押さえるには、進太郎の策が最良であると知親は判断した。
一方で、進太郎は驚いた顔をすることしかできなかった。どうして、横領をしている息子の言い分をこうも易々と信じるのか。
「明日にはお上へのご挨拶も控えていることだし、どのみち今表沙汰にすることはできぬ。それに江戸ではなく長見で片がつくのならそちらの方が好都合だ」
知親は、どうも本当に進太郎の策に利点を感じているようだった。するとそれまで立って話を聞いていた勘蔵が、進太郎の方を向いて腰を下ろす。
「一つ聞かせてはくれぬか。そなたはなぜ、父の不正を告発する気になった? 久世殿ばかりでなく、そなたも『不孝』としての厳罰は免れぬぞ」
親を売るような行為は、孝行に背く人の道を外れた行為。例え親の罪が事実だろうとも、そのような外道を行った者には厳しい罰が下る。
しかし進太郎は何だそんなことか、とでも言うような澄んだ目で勘蔵を見た。
「横領した金で私腹を肥やすなど、武士のすることではありませぬ。そのような生き恥を晒すことなどどうしてできましょうか。親が外道なら子も外道。どうか父を裁くその時には、私の首も刎ねて下さいませ」




