第二十一話 天の岩戸のハツコイソウ(前)
「奥様。お身体は如何様にございますか。今宵は若様のお渡りがございますが……」
「ああ、いえ、大丈夫よ……」
無事にお蘭との入れ替わりも果たし、千代は元通り部屋にいた。しかしその頭は、いまだ混乱のさなかにある。
進太郎は、まだ早いと言っていた。今探れば、父である久世里進の不正を暴く、唯一の機会まで失われるかもしれないと。
本当なのだろうか。しかし、息子が冗談でそんなことを言うわけがない。
もしかして、仄火からの手紙にはそのことが書かれていたのかもしれない。だから進太郎はあんなに必死で……。
…………。
「ねえ、今なんて?」
千代が振り返ると、女中は数度瞬きを繰り返した。
「お身体は大丈夫でしょうか、と。今宵は若様のお渡りがございますので」
「ええ!?」
……若様が、奥に来る?
千代の脳裏に浮かぶのは、先ほど庭で転んだ時に目が合った知親の顔だった。着物も女中のものであったし、あの距離からでは千代だとは分かるまい、と思っていたのだが……。
「そ、それは前から決まっていたことなの?」
「いえ、先ほど若様がおっしゃられたそうです」
千代は息を呑んだ。
間違いない、ばれている。
「お身体が優れないのであれば、そのようにお伝え申し上げますが……」
千代は少し考えたが、首を振り、もう一度「大丈夫」と伝えた。逃げることもできるが、結局は先延ばしになるだけだ。
いっそ何も知らないふりで、今日は部屋から出ていないことにしようか。そうすれば、まさか他の女中まで調べ上げるなんてことは……。ないとは言い切れない。
運悪くお蘭が見つかってしまえば、あの女中は詰められればすんなり吐いてしまう気がする。
では、あれが千代だということを認めるのか。いや……。
『どうかこのことはご内密に』
進太郎の必死な形相が思い浮かんだ。もし約束を破れば、ただでは済まされないような気がする。
……横領が真なら、知親にも伝えなければいけないのでは。けれど、それで本当に証拠が掴めなくなってしまったら? 約束を破った千代のせいだ。
「もう、どうしたらいいの……」
*
夜になっても、結局千代は悩んでいた。が、もしかしたら知親は何も追求してこないかもしれない。
淡い期待を胸に、千代はまた一人布団の上で座っていた。
そしてすらりと襖が開き、知親がその姿を現す。
「……少し暑さも和らいで参りましたね」
腰を下ろした知親は、笑ってもいない、怒ってもいない声と表情だ。
すっと通った鼻筋と眉、眦。薄い唇。長い睫毛に誂えられたような涼やかな瞳。ただ行燈によってのみ照らされる顔を、千代はただ見つめていた。
……側室をめぐって争う女性たちは、一度でも知親の顔を見ただろうか。もしそうであったなら皆、心からこの美しい人の側へ寄ろうとするだろう。
千代は「もうじき藩主となられるのですね」と、言おうとした。言おうとした……の、だが。
「も、もうじき……」
蚊の鳴くような声に、知親は少し頭を寄せる。
「申し訳ございません、何とおっしゃいましたか」
その深く落ち着いた響きが、一層千代の身を固くさせた。
「いえ、何も」
千代は俯いて答える。
奥を抜け出したことを問われる問われない以前に、まともに話すことができない。これでは本当に愛想をつかされてしまう。
「お身体の様子が優れないそうですね。そんな折に押しかけてしまい、申し訳ございません」
千代はどきりとした。知親の視線は、やはり何かを探っているような気がする。
「いえ、大したことは……」
つい、目を逸らしてしまう。
もし、ばれたら。知親は呆れるかもしれない、嫌われてしまうかもしれない。そんな思いがますます千代の口を噤ませる。
すると、知親が両手を上向きに差し出した。
「お手を、よろしいですか」
「えっ、あ…………は、はい」
千代はよく分からないまま、恐る恐る自身の両手を置いた。その手先は震えていて、緊張していることが丸分かりだ。
知親の体温の低い手がそっと引き抜かれ、ほとんど力の入っていない手つきで千代の手はひっくり返された。
緊張で火照った体に冷や水をかけられたようだった。
千代の手には、庭で転んだ時の小さな擦り傷がいくつもあったのだ。
「…………やはり、昼の女中は姫様でございましたか」
驚きもせずに呟く知親に、千代は両手を勢いよく引っ込める。
そしてハッとした。しらを切ればよかったものを。この慌てようでは自ら肯定しているのと同じではないか。
「なぜ、あのようなことを?」
知親には呆れた様子も、千代を責め立てる様子もない。彼の心情が読めない千代は俯いていた。しかし、進太郎のことを話せるわけもない。
黙ったままの千代を知親は待っていたが、しばらくして諦めたのか、懐から一冊の帳簿を取り出した。
「もう一つ、お聞きしたいことが」
呼びかけられて、千代は不安そうに顔を上げた。
知親は帳簿をめくり、ある項目を指さす。
「これは勘定方の帳簿です。そしてこの、書物の項ですが……。『漢詩選』や『古事記』など、占めて十両。これは、姫様が買われたのでしょうか」
「え?」
千代は耳を疑った。
本に十両? いくら何でも、そんなに使った覚えはない。それに、その題名は……。
千代はさっきまでのことも忘れて帳簿を覗き込む。
「……いいえ。『漢詩選』も『古事記』も人に借りたものです。買ってはおりません」
……どうして、帳簿にこんなことが。
嫌な動悸がした。久世に頼んで、本を上屋敷まで運んでもらった時。その時に久世は、千代の持っている本を見ることができたかもしれない。
それで、買っていない本まで帳簿に記して……。
『江戸で浮かせた金を送る……そこを抑えるしかないのです』
頭の中で、進太郎の声が重なった。
「では、他の誰かが買った物でしょうか」
知親の声で、千代は我に返る。
そうだ、決めつけてはいけない。だが、どうしても進太郎の必死な顔が頭をよぎってしまうのだった。
知親は帳簿を閉じ、枕の横へと置いた。
「本についてはまた調べましょう。……それでなぜ、姫様はあのようなところに?」
千代は無意識に唇を噛んだ。どうやら向こうに諦める気はないようである。
しばらく音のない押し問答が続いて、とうとう千代は観念した。知親相手に、このまま一晩だんまりを貫く自信がない。
「……手紙を届けに行っておりました」
「手紙? ……一体誰に」
どこまでなら話してもよいのだろう。迷いながら一つずつ言葉にしていく。
「瀬川様、という方に。どこかで入れ違って、私のもとに届いてしまったのだと思います。送り主は、仄火さんという方から」
その時、知親の空気が僅かに揺らいだような気がした。
「……手紙には、何と?」
「それは読めませんでした。町人の字は、私たちのものとは随分違いますので……」
「では、その手紙は今どこに?」
「…………燃えました」
千代の言葉に、知親は一瞬止まる。
「……というのは。誰が燃やしたのですか」
千代は何も答えずに項垂れた。
進太郎が燃やしたと言えば、彼はその理由を尋ねられるだろう。
であれば、横領のことをばらしてしまうことと何の違いもない。
「それは、申し上げられません」
千代は照れもせず、まっすぐ知親の目を見た。不思議なことに声も震えなかった。
「その方に、誰にも言わないと約束したのです。たとえ若様であっても、申し上げることはできません」
千代は畳に両手をついて、頭を下げた。
「私のことはどのように仕置きされても構いません。ですが、どうか手紙のことは……」
「頭を上げてくださいませ」
知親は慌てたように言った。夫婦であるとはいえ、元は下級武士の次男と大名家の娘。頭を下げた千代に、知親はこれ以上追求する術を持たない。
「……分かりました。手紙のことについては、もうお尋ねいたしません」
それを聞いた千代は、やっと肩の力が少し抜けた。同時に、自分はなんと大それたことを、と恐ろしくなる。
「ですが、二度とあのように危険な真似はなさらぬよう。今後、手紙のことは私にお任せください」
「はい……」
知親の口調は静かだったが重く、千代は反論できるはずもなかった。
「さて、もう夜も更けてまいりましたし、火を消しましょうか」
知親が行燈の火を消すと、隣の間からの明かりが微かに漏れるのみとなる。
千代は布団に潜り込んで考えた。
やっぱり、知親のことが千代にはよく分からない。それは千代がまだ子供だからだろうか。約束をしたからと、意固地になっているような……。
そうしているうちに知親が他の女性と心を通わせてしまったら、どうすればいいのだろう。
それは、どうしようもないことなのだろうか。




