第二十話 火のない所に紅涙落ちず(後)
千代は頭の簪を外し忘れていることに気がついて、急いで袖の袂の中へと隠した。
八つ時まで、あと一刻ほど。とにかく、この手紙を本来の宛先まで届けなければ。
その前に、千代は灰小屋へと向かう。
手紙は念入りに燃やさなければ、灰の中に切れ端が残ってしまうことがある。故に手紙が燃やされたと分かれば、進太郎はその灰を確認するのではないかと思ったのだ。そのためにお蘭に言付けを頼んだのだが……。
千代は灰小屋の場所を知らなかったが、庭に出ると一人の下男が火消し壺を抱えていた。千代はたまたま行き先が同じふりをして、それとなく後をついていく。
空は青く、彼女の頭上を鳥の群れが飛んでいった。
……外に出るのは、この上屋敷に移った時以来だ。下屋敷ではある程度自由に庭に出たりしていたが、そんなこともこれからはあまりできないのかもしれない。
千代は大きく外の空気を吸い込んだ。ふう、と息をついて、そこで気がつく。
そういえばこの前、海を見たじゃない。じゃあ外に出たのはその時以来……っていや、あれは夢だったわ。
あの夢はどうも現実のようで、分からなくなってしまう。
その時、さっきまで前を行っていた下男が横を通り過ぎていった。顔を上げれば、小さな屋根のついた灰小屋がある。
ただまずいことに、一人の灰買いが小屋から灰を掻き出しているところだった。彼は何も手にしていない千代を、怪しむように振り返る。
「何かご用でしょうか」
「いえ、あの……。わ、私、つい最近定府長屋に奉公に上がりまして。灰小屋の場所を確かめておこうと思い……」
「ああ、貴女もですか」
灰買いはすっかり納得したとばかりに、灰を木桶に移し始めた。
「貴女も?」
「ついさっきもお小姓が一人、同じようなことをおっしゃって。何やらあたしが掻き出した灰をじろじろご覧になってゆかれましたよ」
「え?」
千代はその場で辺りを見回すが、もう誰もいない。しかし「ついさっき」ということは、そう遠くには行っていないはず。
「左様でしたか、ありがとうございます!」
取り残された灰買いは、「何が……?」と遠ざかっていく千代を見送った。
千代は早足で庭を歩く。その小姓が去った方角は、こちらで合っているのだろうか。
いや、「その小姓」ではない。久世進太郎だ。灰をわざわざ見に来るなんて、彼以外には考えられない。
住んでいるとはいっても、ずっと奥にいる千代には屋敷の構造などさっぱりである。ここはもう、中奥の辺りまで差し掛かっているかもしれない。誰かに見つかったらと、指先が冷たくなるのを感じた。
その時、目の前の細道に人影が見えた。頭に結わえられたるは若衆髷。
あれだ、追いついた!
「久世様!」
千代の声に、人影は立ち止まった。振り返る姿は千代よりも背が高く、知親ほどまではいかなくとも端正な顔つきをしている。
千代は息を切らしながら、小走りで進太郎のもとへ近づいた。
「…………あ、あの……」
そしてしばしの間、千代の荒い息遣いだけが響いた。
……どうして、言うことを考えてこなかったのだろう!
まさか進太郎と会うとは思わなかったのでしょうがない。だが、進太郎の千代を見る目はどんどん訝しげになっていく。
「……なぜ、私が久世だと? 貴女のことは存じ上げませんが」
すっと通る冷たく低い声に、千代はハッとした。先ほど、千代は一言目に名前を呼んでしまったのだ。後ろ姿で顔も見えず、進太郎だと判別もできない距離から。
冷たくなった指が微かに震える。まったく言い訳が思いつかずに固まっていると、千代は自分でも思いがけない行動に出てしまった。
「お探しなのは……この手紙ではありませんか?」
突き出した手紙は正真正銘、仄火から瀬川への手紙である。
……つまるところ、千代は偽造したのだ。捨てられた手紙は千代が適当に模様を描いた紙である。元から読めなかった手紙だ、菊野をはじめ誰も違いに気がつかなかった。
れっきとした証拠に、進太郎もさぞ驚き慌てふためいているだろう。さあ、観念して真相を……と思いきや、進太郎の視線は手紙ではなく地面に向いていた。
千代もつられて下を見る。日の光を受けて銀色に輝く、簪がそこには落ちていた。
千代は息が止まるかと思ったが、瞬時に簪を拾い上げて袂の中へと戻す。だが、すでに遅い。
「…………まさか、奥方様ですか?」
「ち、違……」
「この手紙が読めたのですね?」
進太郎の剣幕は、先ほどの冷ややかな様子とは打って変わり凄まじいものだった。千代は今度こそ全身が震える。
すると進太郎が腰の巾着から何かを取り出した。
それは火縄だった。
「何を……!」
千代が手を引っ込めるよりも早く、奪われた手紙はパチリパチリと煙をあげる。進太郎が手を離すと、地面の上で黒く燃え尽きた。
「あ…………」
千代は唖然として見つめていたが、手紙が灰になったところでゆっくりと視線を戻す。足が勝手に後退った。
千代が逃げようと身を翻すと、その腕が掴まれる。喉の奥から、声にならない悲鳴が漏れた。
「お待ちください、どうか話を!」
「離して! 離し……」
「まだ早いのです! 探っても証拠など出ませぬ!」
……証拠?
千代は振り返る。進太郎は手を離し、「無礼を働き誠に申し訳ございません」と俯いた。彼はなぜか千代よりも息を切らしていたが、ゆっくりと呼吸を落ち着けて口を開く。
「横領の証拠など、父は残しません。証拠があるとすれば、長見に戻ってから江戸で浮かせた金を送る……そこを抑えるしかないのです」
「お、」
恐ろしくて、千代は繰り返せなかった。一体何の話だというのか。
「下手に探れば、父は用心します。そうなれば私の策も、この町人の訴えも、すべては水の泡です」
進太郎の父親というのは、それは家老の久世里進だ。久世が、横領……?
「このことを、どなたかにお話しになられましたか」
進太郎の声の重い響きに、千代はただ首を横に振る。彼の目は血走っていて、今にも殺されてしまうのではないかと思った。
「どうかご内密にお願い申し上げます。お頼み申し上げます……!」
千代は勢いよく、何度も頷く。進太郎が顔を上げる前に、千代は走って彼から逃げた。
進太郎が追いかけてくることはなかったが、それでも千代は走り続けた。
走ったことなど今まで一度もなかったので、何度も足がもつれそうになる。走って走って、ついには転けた。
地面についた手が痛い。荒い息と心臓の音だけが耳に響いた。半分泣きながら、千代は前を向く。
ここはどこなのか。
よく知りもしない庭をがむしゃらに走った結果、もう帰り道など見当もつかなかった。
座り込んでいると母屋から人の足音が聞こえて、千代は振り返る。
そこにいた知親と、目が合った。
何かを考える暇はなかった。千代は立ち上がり、急いでその場を離れる。もはや手の痛みすら感じない。
どうしよう、若様に……!
頬には一筋、涙が流れた。
*
ちょうど八つ時まで、あと四半刻。お蘭と入れ替わるための厠がある、すぐ近くの軒下。千代は蹲っていた。
あの後なんとか灰小屋を見つけ、それを目印にここまで戻ってきたのだ。
はあ、と深く息を吐き出して、千代は相も変わらず青い空を見上げる。
進太郎の顔、知親の顔。そして、横領。
一体何が起こったのか分からない。
一体、何が起こっているのだろうか。




