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カジュギンカ  作者: 谷山
第二章
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第二十話 火のない所に紅涙落ちず(前)


 「待って、どうして捨てるなんて言うの?」


「捨てるものは捨てるのです。ほら、こちらに新しいお手紙がありますから」


 すっかり日も暮れた頃、部屋では千代《ちよ》と菊野《きくの》の攻防戦が行われていた。


 菊野が差し出した新しい手紙の表書きには、ただ「参」とのみ丁寧な字で書かれている。千代はそちらを気にしながらも、まだ解読途中である手紙を必死に守っていた。

 一方の菊野は、手紙に向かって手を伸ばす。


「この手紙を届けてくださった小姓の方も、前の手紙は捨てるようにとおっしゃったのですよ。若様の体裁《ていさい》をお守りするためです!」


「え?」


 思わぬ菊野の言葉に、千代は一瞬抵抗するのを忘れた。


 「前の手紙は捨てるように」? それはおかしい。前の手紙、つまり今千代が解読しようとしている手紙は、知親《ともちか》が書いたものではないのだから。


「ちょっと待って、菊野。お願い」


 急に勢いをなくす千代に、菊野も取り上げようとする手を止める。

 千代は一旦状況を整理しようと、疲れた頭をもう一度働かせた。


 「前の手紙」は若様の書いたものではないのに、その小姓は若様のものだと言っている。あまつさえ、それを捨てるようにと。

 ……つまりその小姓は、私たちがこの手紙を読めないことを見越して手紙を消し去ろうとしているんだわ。


 千代は俯《うつむ》かせていた顔をゆっくりと上げた。その思い詰めたような表情に、菊野は少し心配そうに千代を見る。


「どうなさいましたか」


「……この手紙は、言う通りに渡すわ。けれど一つ教えてほしいの。その、手紙を捨てるように言った小姓は一体誰なの?」


 菊野は千代から受け取った手紙を懐《ふところ》にしまうと、障子《しょうじ》を開けた。そこには、今朝手紙を持ってきた女中が座っている。


「聞こえていたでしょう。誰がこの手紙を奥まで?」


 女中は「えっ」と声を上げた後、上擦《うわず》った口調で答えた。


「今朝も、先ほども、手紙を届けにいらっしゃったのは…………小姓の久世《くぜ》進太郎《しんたろう》様かと、存じます」


 千代はそれを聞いて、思わず文机《ふづくえ》の上に目を向けた。


 手紙から、読み解けたのはほんの一部だ。仄火《ほのか》という送り主が以前、手紙の宛先である瀬川《せかわ》に街を案内した男であること、何か頼みがあるということ。

 肝心の頼み事は分からずじまいだったが、そこから先はあちこちに「久世」の二文字が見てとれた。


 そして、その手紙を消そうとしたのも久世。到底、偶然とは思えなかった。


   *


 二度にわたって手紙を千代の部屋に届けた女中は、名をお蘭《らん》という。

 翌朝、お蘭は千代に呼び出された。


 お蘭は女中としてはまだまだ新入りで、千代と言葉を交わしたのも昨日が初めてだ。何か奥様のお気に召さぬことをしてしまっただろうかと、お蘭はこわばった顔で部屋の中の千代に呼びかけた。

 すると中から千代の返事が聞こえ、お蘭はおそるおそる障子を開ける。千代は朝の支度をしていて、菊野とは違う女中が彼女の髪を梳《と》いている。千代はお蘭にふわりと笑いかけた。


「朝からごめんなさいね。実は、若様へのお返事が書けたの。これを中奥まで届けてもらってもいいかしら。それと、昨日の久世という小姓がいらしたら、『手紙はちゃんと燃やしました』と伝えてくれる?」


「か、かしこまりました」


 お蘭は障子を閉め、廊下を歩き出す。

 わざわざお蘭を呼び出したのは、単に話が通じやすいからだったようだ。お咎《とが》めではなかったことにお蘭はほっとする。


 御錠口《おじょうぐち》に備え付けてある鈴をカラカラと鳴らすと、御広敷《おひろしき》の返事が聞こえた。


「若様に、奥方様からのお手紙です」


 お蘭が襖《ふすま》の間から手紙を差し入れると、御広敷は誰かを呼び止めた。ちょうど廊下を小姓が通りかかったようだ。御広敷が「若様に」と小姓に手紙を渡した。

 ちらりと見上げると、久世とは違う、まだ年端《としは》もいかない小姓だった。彼は「承知いたしました」と手紙を受け取る。お蘭は小姓がその場を離れる前に、急いでもう一つの仕事をした。


「あの、久世進太郎様にお言付けがございまして……」


 すると小姓は、困ったように眉根を寄せた。


「久世様は本日、非番にございます。お急ぎであれば私がお伝えいたしますが」


「さ、左様でございましたか。では…………」


 お蘭はそこで固まる。


 もしかしなくても、この小姓は捨てられた手紙のことなど知らないのではないか。それをむやみに話してよいものか……。


「……いえ。やはりもう一度奥様にお伺《うかが》いし、改めて参ります」


 お蘭が頭を下げると、小姓も頷《うなず》いてその場を去った。

 はあ、と肩を撫で下ろしたお蘭だったが、仕事はまだ終わっていない。気を引き締めて、もう一度千代の部屋へと向かった。



 お蘭が戻ると、千代は布団に横になっていた。襖を開け放した隣の座敷に控えている女中は、お蘭に冷たい目を向ける。


「奥方様は今、お身体が優れないご様子。用事なら後に……」


 すると、千代が布団から体を起こした。


「いいの、平気よ。それより香をもう少し香りのきつくないものに変えてくれないかしら。あと朝餉《あさげ》はもう大丈夫だと、厨《くりや》の者に伝えてくれる?」


 千代が言うと、控えていた女中達は返事をして素早く立ち上がり、各々別の方向へと歩き出す。部屋には千代とお蘭の二人が残された。


「あ、あの。お手紙は無事お届けいたしましたが、久世進太郎様は本日非番とのことで」


「非番? ……そう。それは考えていなかったわね…………」


 千代は「でもいいわ」と、勢いよく立ち上がった。


「お、奥様?」


「ごめんなさい、ちょっと着物を貸してちょうだい」


 千代の瞳は、先ほどの眠たげな様子からは考えられないほど力強く輝いていた。状況を呑み込めないでいるうちにお蘭の着物は千代にひん剥《む》かれ、両者の格好は見事に入れ替わる。

 最後にひと回り大きな、綺麗な着物がお蘭の頭の上から被せられた。


「布団から顔を出しちゃ駄目よ。どうしてもって時はこの着物で顔を隠してね。あと、何か聞かれたら鼻をつまんで返事をして。具合が悪いんだし、少しくらい声が違っても誰も分からないわ」


「え、ええ? あの、これは」


「菊野がお休みの、今日しかないの。ほら、急がないと皆帰ってきちゃう」


 お蘭は千代に背中を押され、先ほどまで千代が横になっていた布団に寝かされた。布団は厚くふわりとした肌触りで、上品な香の香りがする。目を回すお蘭に、千代は着物を被せた。


「本当に急なことを頼んでごめんなさい。八つ時の鐘が鳴ったら厠《かわや》に立って。そこでまた着物を取り換えましょう」


 千代は布団から離れて隣の部屋へと移動し、襖を少し隙間が開く程度まで閉めた。次の瞬間女中達の足音が聞こえ、お蘭が寝ている部屋の障子が開く。お蘭は急いで布団にくるまり、顔を隠した。


「こちらが代わりの香にございます。厨の者にも、お言付け申し上げました」


 お蘭は言われた通りに鼻をつまんで、くぐもった声で「ありがとう」と答える。すると本当に誰も怪しまず、着々と香の準備をし始めた。


 その時、隣の部屋から「あの……」と千代の声がした。女中はその声に振り返りもせず、「もう下がっていいわ」と一言告げる。

「失礼いたします」と声が聞こえた後、隣の部屋から人の気配はなくなった。


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