第十九話 先の手紙の御用事なあに(後)
しかし、そこからが大変だった。節用集は漢字の読みがイロハ順に載っているのだが、そもそも「火」の上の漢字の読み方が分からない。
千代は片っ端から似たような形の漢字を探していたが、量が多すぎて「ロ」に差し掛かる前に諦めた。
ならば次の手だ。ありそうな名前から逆に、この漢字の読み方を考えてみることにする。
まず、この「火」を「ひ」と読むのか「か」と読むのかだが……。
早速行き詰まる気配を感じた千代だったが、とりあえず名前を書きだしてみる。先ほどの算術の横に、千代は「ひ」か「か」で終わる名前を思いつく限り並べた。
あさひ、ゆうひ、ちか、しずか……。色々と考えてみるが、仮にここに「火」の漢字を当てはめてみても、「灰」や「厄」に似た上の文字が分からない。
そこでふと、横の算術が千代の目に入った。あの夢を忘れぬように書き留めたものだ。
婚礼の儀の晩に見た夢は、現実のようにはっきりとしたものだった。読んだ算術の本も、巨人の影の長さを調べたことも鮮明に思い出せる。
あの青年が部屋を出て行って、しばらくしてから夢は覚めてしまったが……。
何となく思い付きで、千代は「ホ」の項目を開いてみた。すると偶然にも、その漢字は一目で飛び込んできたのだ。
「仄か」
あの青年の名前の音。
名前に「火」という文字を使うことなど滅多にないだろうと思っていたが、これは……。
「つまり、仄かに燃える火…………」
「ほのか」など、物語の中ですら聞いたことのない名前だ。それも夢だからと思っていたが、果たしてこの手紙は偶然だろうか。
千代が手紙を広げると、そこには表書きの何倍もの文字が連なっている。しかしやはり、所々に見慣れた形の文字は見てとれた。
「……菊野。やっぱりこの手紙、もう少し私が持っていてもいいかしら」
千代はそこから、寝食を忘れる勢いで手紙の解読を始めた。
知親に手紙を書くことも、本物の知親からの手紙がどこに行ったのかも忘れて。
*
「若様。なぜいつも帳簿をご覧になっているのです」
知親は算盤を弾く手を止めた。
小姓の進太郎の目は、ただ不思議に思っているだけのようだ。
「……いや、やるべきことも今はないのでな」
知親は小さな声でそう言った。
進太郎の父、久世里進は江戸の勘定方を預かっている。その仕事を疑っていると思われるのもよくない。
「しかしそれは、勘定方のお役目にございます」
「藩の帳簿だ。何度確かめてもやりすぎということはないだろう」
知親はまた手を動かし始めた。
此度、江戸での半年に充てられたのは四千両。だが、榊原は江戸での出費が嵩んでいると言っていた。だからどこかに無駄がないか、抑えられる金がないかを調べているのだ。
必要な金が少なくなれば、農民たちの年貢も軽くすることができるかもしれない。
そういうわけで知親は、勘蔵が持ってくる帳簿を昼夜確かめ算しているのだが…………。困ったことに、四千両は全てきっちりと組み込まれていた。
しいて言うなら他所への贈り物の額が多少高いが、他藩からはよく分からない存在である知親の体裁を保つためだと言われれば口出しできない。
すると、進太郎が知親の近くまでやって来た。
「私も拝見してよろしいでしょうか。久世家の跡取りとしては勉強になります故」
知親が頷くと、進太郎は早速帳簿の一冊を確認し始めた。この際、他の者の意見も聞いてみた方がよいだろう。
彼が手に取ったのは知親が目を通していない帳簿だったが、進太郎はしばらくして首を傾げた。
「…………この『書物』というのは何のことでしょうか? 『唐詩選』に『古事記』まで、高価な本がしめて十両も……」
「十両?」
知親は思わず進太郎の顔を見た。本だけで十両とは、いくら高価な物だとはいえ……。
「まさかとは思いますが、これを買っていらっしゃるのは」
「いや、高価な本は百年もつというし、後々のことを考えれば無駄ではないだろう」
進太郎の言葉を遮り、知親は眉一つ動かさずにまた帳簿を見るふりをした。
……本好きの姫君が、そんな額をつぎ込んでいるとは。それこそ知親が探すべき「抑えられる金」なわけで、今度彼女に会った時には一言言うべきだろう。
それは何だか気が重い仕事で、考えながら知親は目を閉じた。
「そういえば今朝、奥方様に出されたお手紙。返事が届いていないか見て参ります」
場の空気を払拭するように進太郎は立ち上がり、外の小姓と代わって廊下を歩いて行った。
明重の隠居が幕府に認められたので、近々藩主になるだろう、と。手紙といってもその旨を綴っただけのことである。
どうも知親は、情緒のある文を書くというのが不得手だった。
十両分の本を読む姫の目に、野暮ったいと言っても差し支えない手紙はどう映るだろうか。
いっそのこと、返事などない方がいいとさえ知親は思う。
*
中奥と奥を繋ぐ御錠口で、進太郎は御広敷(奥とのやり取りを受け持つ役人)に声を掛けた。
「若様から奥方様に、お手紙でございます」
御広敷は「またか」という顔で御錠口番の女中を呼ぶ。今朝と同じ、若い女中だ。
進太郎は少しばかり開けられた戸の向こうに、申し訳なさそうに言った。
「国許育ちの若様と奥方様では手習いに違いがございますればと、代筆された手紙を若様がご用意されまして。それで先ほどのお手紙は、どうか内密に捨てて頂けませぬか」
すると女中はどこかほっとしたように、「承知いたしました」と手紙を受け取った。進太郎は手紙が奥に消えるのを見届け、その場を後にする。
……女中の表情から察するに、やはりあの文字では読めなかったのだろう。まあ当然か。
何はともあれ、あの手紙の処分は済んだ。しかし、やはりどこかで勘づいている者はいるということだ、時間は無い。
久世進太郎はもと来た道をまた一人、ゆっくりと引き返した。




