第十九話 先の手紙の御用事なあに(前)
夜明け前。
江戸の空に差し込むまだ微かな朝焼けを頼りに、門番は一通の手紙の文字を凝視する。
「……何だ、こりゃ」
届けられた手紙は、下男に宛先の人物まで届けさせねばならないのだが……。表書きの文字が奇っ怪なせいで誰に宛てたものかが分からない。国許の長見から届く手紙には、こういったこともままある。
門番が眠い目を擦って手紙を見つめていると、そこに若い侍が歩いてきた。まだ朝早いと言うのに、彼はすでに隙のない服装に身を包んでいる。
彼の姿を認めると、門番は不思議そうに頭を掻いた。
「あれ、こんなにお早くから」
「手紙は来ましたか?」
「いえ。お父上への手紙はまだ届いておりませぬ」
若侍は「そうですか」と素気無く返事をすると、門番が持っている手紙を指さした。
「それは?」
「長見からの手紙だと思うのですが……。表書きの文字が読めず」
若侍はしばらくその表書きを見つめていたかと思えば、すっと片手を伸ばした。
「これは……私宛てですね。お手を煩わせて申し訳ない。まったく、この人の字にはよく困らされる」
まるで、国許の知人から手紙を受け取ったように。
「左様でしたか」と若侍に手紙を渡した門番は、少しも疑っていないようだった。
実際、乱雑な文字だった。武士では到底ない。町人にしても、きちんとした手習いを受けていればこんな文字は書かないだろう。
若侍は門を離れ、屋敷に向かって歩き出す。そして目を細めると、静かに手紙の封を切った。
*
朝の日差しに輝く長見藩上屋敷の一室で、千代は一心不乱に文字を綴っていた。
……いや、文字と言うのは語弊があるかもしれないが。
「……それは、何を書かれていらっしゃるのです?」
「き、菊野! いたの!?」
腰元の菊野はにこりと微笑むと、千代の横に座る。千代は慌てて紙を裏返すと、こちらも取り繕うように笑った。
「奥様。私は奥様がお好きなように本を読み、学ばれることにもう怒ったりなどいたしません。貴女はもはや、立派な奥方様であらせられます故」
「本当?」
千代は、ほっと胸を撫で下ろした。しかし言葉とは裏腹に、菊野の笑顔に凄みを感じるのは気のせいだろうか。
「ですから、是非ともこの菊野にお聞かせ願えませんか。……一体どこから算術の本を手に入れたんです?」
千代は息を呑んだ。やはり菊野は怒っている。
そっと菊野から視線を外し、千代は何とか言い訳を考えようとした。
「私、算術の本なんて読んでいないわ。これはその……偶然、ある算術の問題を耳にしてね。解けるかどうかを試していただけなの」
千代は裏返していた紙をめくり、計算のあとを菊野に見せた。そこに書かれているのは、影の長さの比率から物の高さを測る算術である。
「……この奥のどこに、算術の噂をする女中がいるのです? 私は心当たりがありませぬが」
上屋敷の奥は原則として男子禁制。殿様の寵愛をめぐって思惑が飛び交う女の園だ。
菊野はため息を一つついた。
「またお葉様か久世様か存じ上げませんけれど。確かに怒らないとは申しましたが、本当にそのようなことをなさっている場合ではないのですよ」
「ど、どういうこと?」
するといつになく真剣な表情のまま、菊野は千代にずいっと詰め寄った。
「この奥にはもう、若様のお家柄を気に留める者などいないのです。適齢の、まだお子もいらっしゃらない若殿様。とっくに側室の座を狙う競争は始まっているのですよ」
「そうなの!?」
例え正室でなくとも、藩主の子を産めば絶大な権力が手に入る……。故にその競争は苛烈だ。
これには千代も焦らざるを得なかった。知親とはあの婚礼の儀から十日ほど、一度も顔を合わせていない。
……もしかすると、三つも歳下の千代は子供すぎるのだろうか。奥には美しい女性がたくさんいる。その上、本ばかり読んでいる娘などなおさら……。
そこで千代はハッとして、今も鏡台の上にある「南游紀行」を見た。
「……菊野。私、若様に手紙を書くわ」
千代は決意を固めた。
ぼんやりしている場合ではない。子供だろうが年下だろうが、妻は自分なのだ。
「それは是非に。姫様はお歌もお筆運びも、大変お上手ですもの。そうですね、ここはひとつ秋の夜長の歌でも……」
「『南游紀行』の感想をもっと事細かにして、手紙に書くわ。本当に素晴らしい本だもの」
目を輝かせながら意気込む千代に、菊野は肩を落とした。それでもあの千代が殿方に手紙を書こうと言うのだから、ここは一つ大目に見ようと彼女は思う。
菊野も大概、千代に甘い。
「では、紙を持ってこさせますから……」
「姫様、よろしいでしょうか」
菊野が立ち上がろうとした時、障子の奥から若い女中の声がした。千代が返事をすると障子が開く。女中は、一枚の手紙を持っていた。
「あの、若様からのお手紙ということで、お預かりしたのですが……」
「えっ」
思わず千代は文机の上を片付ける手を止めた。一瞬で体がこわばり、鼓動の音が耳まで届く。
しかし、その女中は菊野に困った顔を向ける。
「ですがこれは……。お葉様もいらっしゃらなくて、私…………」
手紙を受け取った菊野はぎょっとした後、思い切り顔を顰めた。
そのままおもむろに封を切るのを見て、千代は慌てて菊野の傍に寄る。
「待って菊野、自分で……」
しかし封は解かれ、表書きの文字が千代の目に入る。それは得体のしれない、文字ともつかない形をした文字だった。
開いた口が塞がらない千代の横で、中身を見る菊野の顔はどんどん険しくなる。そして苦々しく千代を振り返った。
「この手紙は少し、その……。奥様には読みにくいかもしれません。一度、お葉様にお渡ししても?」
千代は固い動きでぎこちなく頷いた。衝撃のあまり、そうすることしかできなかった。
男性が書く字と女性の書く字は少し異なる。御家流という習わしが違うからだ。
しかしあれは、文字だろうか。何が書いてあるのか見当もつかない。
あの字を、あんなに美しい若様が……?
千代は呆然として、模様を描く筆跡を見つめる。
にわかには信じがたい。
そんな思いで食い入るように見ていると、一瞬だが、模様の中に何かが浮かび上がったような気がした。
「ま、待って!」
咄嗟に千代が菊野の袖を掴むと、彼女は驚いて手紙を懐にしまう手を止める。そして悩みながらも、千代に手紙を渡した。
千代は目を細め、受け取った手紙を顔から近づけたり遠ざけたりしてみる。
……やっぱり、「川」だ。すると、その上の文字は「瀬」ではないか。
瀬川。千代の父、日浦明重の口からその名前を聞いたことがある。父が最も信を置く立川士蔵、その立川家の用人の名だ。
「瀬川」から先は、またしばらく読めない文字が続いて……一番下の文字は「上」に見えなくもない。となれば、表書きは「瀬川〇〇〇殿 進上」だろう。
間違いない。これは知親から千代に宛てられた手紙ではなく、瀬川家の誰かに向けたものだ。きっと、どこかで入れ違ってしまったのだろう。
顔を上げた千代は、菊野にそのことを伝えようとする。が、ふいに胸の内がざわついた。
……もしこの手紙が、政に関わる重要なものであったなら。読めなかったとはいえ、千代と菊野はもう中身を見てしまったのだ。取り違えた者はどんな処罰を受けるだろうか。
千代は送り主の名前を見た。苗字と名前にしては短すぎるそれは、武士ではなく町人の名かもしれない。
成程、それならこの文字にも納得がいく。地方の町人の筆跡は、方言のように独特なものだと聞いたことがあった。
…………これは、「火」だろうか? その上はさっぱりである。「灰」のようにも、「厄」のようにも見える。
「……菊野、『節用集』を持ってきてちょうだい」
節用集とは、つまり漢字辞典のようなものだ。
菊野は真剣な千代が何を言っても聞かないことを悟り、渋々と腰を上げた。




