第十八話 縁も月日も果報は寝て待て(後)
カジュギンカにある家の中で、半夏は目を覚ました。
暗い室内には明かりも灯っていない。
半夏は近くにあった蝋燭に、幻影の火をつけてみた。熱くもなく、風に揺られることもない火だが、視覚的な明るさだけは手に入る。
「目が覚めた?」
火と共に現れた女に、半夏はのけぞった。女はクスクスといたずらめいた笑みを浮かべる。
「『あの人』に合わせようと思ったのに、すぐ寝ちゃうんだもん。紫苑の毒を分解するのにかなり体力を使ったみたいね」
女は椚の獏であった。椚が殺された後姿を消したと思いきや、なぜか縛られていた半夏の縄を解いてここまで連れ出したのだ。
「どういうことだ、お前は椚の獏じゃなかったのか。それに『あの人』というのは」
「ちょっと待ってよ、一つずつ答えるから」
女は大袈裟に呆れてみせ、音もなく床に座った。
「私は鳥兎。能力はない……ってことにしてた。だって静寂とか紫苑の能力に比べて地味だし、馬鹿にされそうだったからさ」
鳥兎は半夏の手を握った。すると、手の感触だけはそのままに彼女の手首から先が透けはじめ、やがて完全に見えなくなる。
「透明になれるのか」
「正解! ないものをあるように見せるあんたとは真逆ってわけ。……この力で、私は椚を殺したの」
「!」
半夏が目を見開くと、鳥兎は愉快そうにけらけらと笑って握っていた手を離す。
「青葉、だっけ? 椚のこと殺そうとしたのに、怖気づいてやめちゃったからさあ。私が透明になって、椚を刺すのを手伝ってあげたってわけ。向こうは気が動転して自分が殺したと思ってるし、今頃牢の中かもね」
「……どうして、椚を殺したんだ? 仮にも相方だろう」
半夏が言うと、それまで楽しそうに笑っていた鳥兎はうげえ、と顔を歪めた。
「相方とかやめてくれる? 本っ当に嫌いだったし。……でも一番の理由は、あいつを殺して『あの人』の獏になるため」
「『あの人』?」
半夏が聞き返すと同時に、後ろの襖が開いた。顔を出したのは老人というほどではないが、若くもない具合の男だ。この男もまた、獏の気配がした。
「おい、目え覚ましたなら早いとこ連れて来いよ」
「はいはい。ほら、行くよ」
鳥兎は半夏を立たせると、襖の向こうへと引っ張る。その足取りは浮き足立ったように、というか半分浮きながら廊下を進んでいった。
ざあ、と波の音が聞こえる。それなりに広いこの建物は、どうも海の近くにあるらしい。
先頭の男が入った部屋は障子が半分開いていて、やはり中は明かりが灯っていない。「来たぞ」と男が部屋の奥に向かって声をかけると、闇と同化していた黒く長い髪が影絵のように動いた。
「半夏か」
声は女のものだった。背筋がぞわりとするような、柔らかくどこまでも冷たい声色。人間の気配だが、そうとは思えない威圧感だった。
「何か幻影を作ってみろ」
試すように遊ぶようにそう命じる女に、半夏は慌てる。
先ほどと同じく火の幻影を作ろうとして、そこで思いとどまった。わざわざこの部屋は暗くしてあるのだ、火を灯せば女の機嫌を損ねるかもしれない。
妖である半夏がなぜそのように恐れる必要があるのかなど、この時の彼には考える余地もなかった。
しばらくして、ふわりと半夏の手の中に浮かんだのは月だった。半夏にもなぜ月だったのかは分からないが、直感的に思い浮かんだのだ。
「月……」
外から本物の月明りを受けて半分ほど白く見えるそれを、女はしばらく黙って見ていた。女が一歩半夏に近づけば、さらりとした甘い香りがする。毒の煙とは違う甘さだが、どこか苦しく息が詰まるような。
女は「梢」と片手を宙に差し出した。男の獏の名前だろうか、と半夏が思う間に、女の手の上に火のついた手燭が現れる。
その明かりで、女の顔が見えた。
真っ黒な髪と瞳。美しく獰猛な顔つきからは、静かな怒りがひりひりと伝わってくる。
女が火を月の幻影に近づけると、照らされた月が満月になった。女はそれを見て、僅かに口の端を上げる。
「……今は欠けている。この世界を、満たして完全にしないといけない」
女は手燭の火を吹き消した。また月は欠け、煙の臭いが半夏の鼻孔に届く。
また奥に戻った女は鳥兎の名前を呼んだ。それに返事をした鳥兎が、半夏の脇をすり抜ける。
「仲間へようこそ。でも、一番の獏の座は私がもらうから」
一層強く吹いた潮風に、手の中の月が消えた。
*
時を同じくして、立川家の屋敷。女中のきよは、静かに襖を開けた。
「奥様。旦那様へのお手紙ですが、いつも通り六日限でよろしいでしょうか」
「待って。まだ書いている途中だもの。それに六日限だと早すぎるわ。ゆっくり届けてもらってもいいぐらいよ」
志乃は筆を動かしながら言う。それを聞いたきよは、迷いながらもはっきりとした口調で物申した。
「昨日伊波屋さんが帰られてすぐ、手紙を出すとおっしゃられましたよね。一体、旦那様に何をお伝えになるので……」
「あら、心配することはないわ。ただ、伊波屋さんの話を聞く限りどうも……。黙って見ているわけにはいかないと思って」
志乃は振り返り、「察してくれ」とでも言いたげにきよに笑いかけた。
きよにはさっぱり分からない。が、志乃のこれは今に始まったことではなかった。
「それに、これは予備だから。本命より早く届いてはいけないのよ」
「本命?」
きよが首を傾げると、志乃はええ、と笑った。
「きっと今頃、江戸に向かっているはずだから」
人の思惑に関わらず、月は東に日は西に。そしてどこまでも風は吹く。
或いは秘密を、そこに乗せて。




