第十八話 縁も月日も果報は寝て待て(前)
「よし、できたできた」
仄火は紙を両手で掲げて、そこに書かれた文字をもう一度読み直す。
「今、飛脚っていくらするんだ? なるべく早く江戸まで届けてえが……」
仄火の言葉に、店の屋台から清が振り返った。
「大坂から三日限(江戸まで三日で届ける速達)が一番早いですが……まあ三十両はくだらないでしょうね」
「よし、普通に届けよう」
昨日伊波からもらった一両があっても大赤字である。急ぐことは確かだが、仄火の身を削ってまでではない。
仄火は手紙を折り畳んだ。この手紙こそが、昨日仄火が提案した「策」である。
「策?」
静かに聞き返す伊波に、仄火は挙げていた手を下ろした。
「ちょうど今江戸にいる、長見の侍に伝手があってな。そいつに手紙を送って、久世の不正を告発してもらう」
だが残念ながら、その場にいる誰も頷かなかった。
「久世は家老だ。告発なんて阻止するに決まっているじゃないか。現に前にも、藤の親を陥れてる」
そう言ってから、伊波は少し不審そうな顔をした。
「どうしたんだ。こんな策、仄火らしくないな」
仄火は心の中で舌打ちする。流石に、伊波はそう簡単に流されてはくれないようだ。
しかし「知り合いは藩主だから大丈夫」とは反論出来なかった。
「私も反対」
二つ目の声は藤だった。
「伊波の言う通り、今度はその人が犠牲になってしまうわ。久世が帰ってくるまで何もできないのは、確かに歯がゆいけれど……。それでも私たちのように、久世から遠い人間がことを進めた方がいいと思う」
「じゃあ、告発はやめて証拠を集めてもらえばいい。それなら久世が不正の証拠を全て江戸に置いて帰って来ても、こっちは不利にならないだろ」
仄火がそう言う間にも、伊波は黙って仄火を見ていた。「なぜそこまで必死になるのか」と目が疑っている。
仄火は伊波の視線を真っ向から受け止め、返す言葉を探した。
「お前だって、何も望んで久世と対立したいわけじゃねえだろ。脅迫なんて手に走るより、確実な証拠があるならそれに越したことはねえと思うがな」
伊波の表情は変わらなかった。まさしく腹の探り合いだが、仄火の真意は伊波でも測れないであろうことを願う。
すると、声を発したのは藤だった。
「……証拠を集めるだけなら、確かに、やってみるべきなのかも。だってよく考えたら、これは夢遊じゃなくて私の問題。それに皆を巻き込むわけにいかないわ」
仄火の言葉は、どうやら伊波よりも藤に利いたようである。伊波はため息を一つついた。
「分かったよ。藤がそう言うのなら、俺も何も言わない。じゃあ仄火、何か証拠が見つかったら教えてくれ」
その口調は幾分かいつもの伊波らしさを取り戻していた。仄火が返事をすると、彼はパン、と両手を合わせる。
「さて、じゃあ後始末だ。俺は依頼主にお松さんのことを報告しに行く。春日と藤は、椚と青葉を頼むよ」
そういえば、と仄火は縛られたまま転がされている青葉を見た。
「こいつ、どうするんだよ?」
「椚の遺体と本人の証言があれば、現世の番屋で裁いてもらえるだろう。椚はちゃんと弔ってやりたいんだ」
伊波は静寂を呼ぶと、椚の遺体がある小屋まで藤達を運ぶよう頼んだ。そして目線だけで仄火を見る。
「仄火も、もう丸一日寝てないだろう。帰ってゆっくり休みなよ」
そう言われると、確かに眠いような気がしてくる。この一日で何度も命の危機に晒され、張り詰めていた気がやっと解けるような気がした。
「おい、起きろよ」
外の山車に寄りかかって寝ていたハクは、仄火の声に目を覚ました。
「ふあ……。いい天気なもんでついつい眠くなるのう。あの藤とかいう娘はどうなったんじゃ」
「それが、ちょっとばかり面倒なことになってる。まだしばらくこの件からは手が引けなさそうだ」
「青龍のことを調べるために来たというのに、そう上手くはいかんもんじゃな」
ハクはそのくせ、まるで他人事のように笑う。仄火は「まったくだ」と家の方角へと歩き出した。
「仄火!」
その時、後ろから声がかかった。振り返ると、山車蔵から伊波が顔を覗かせている。彼はそのままこちらへ歩いてくると、紙に包まれた何かを仄火に手渡した。
開くと、中に入っているのは一分金である。
「これ……」
「先払いの三分と合わせて、それで一両だろう? 要らないならいいけど」
そういや、伊波に報酬の値上げを交渉しようと思っていたのになんやかんやで忘れていた。仄火は大人しく一分金を懐にしまう。
……この一日を思い返してみても、この男は人と金の動かし方をよく分かっている。天性の商人だと言うべきか、手の内の読めない男だと言うべきか。
「これは受け取っておくが、金さえ払えば動かせると思ってもらっちゃ困るな」
仄火が皮肉めいた笑みを浮かべると、ハクが「そーじゃろ」と言うので横目で睨む。すると伊波が声を上げて笑った。
「そんな風には思っちゃいないさ。実際さっきから考えているが、どうして仄火が俺達と久世の対立を防ごうとするのかまったく分からない。青龍、とかいう妖のこともね」
仄火はしばらく黙って伊波を見つめていたが、はっ、と馬鹿らしくなったように笑った。
「俺たち、情報屋同士だろ? あまり余計なことまで探り合わない方が、お互い身のためだと思うけどな」
仄火の冷ややかな視線にも、伊波はにっこりと笑顔を作る。
「それを言うなら、今は公平じゃないな。仄火が青龍を探っていること、武家と何らかの繋がりがあること……。俺ばかり、少し知りすぎている」
伊波は後ろ歩きでゆっくりと仄火から遠ざかり、山車蔵の方へと進みだした。
そして口を開く。
「…………人を探してるんだ。そのために夢遊を作った」
伊波は「これで『お相子』かな」、と仄火に背を向け、真っ直ぐ歩き出す。仄火は不審がるように眉間に皺を寄せた。
「わざわざ何かと思ったら、俺に金と情報をよこしに来たのかよ。どういうつもりだ?」
仄火が呼びかけると、伊波は顔だけでこちらを見る。その表情は曇りない。
「別に。悪知恵の働く人間を敵に回したくないだけさ」
「…………お前には言われたくねえよ!」
仄火が叫ぶと、伊波は振り返らずにただ笑って、山車蔵の中へと姿を消した。
*
「江戸までですね。九匁と四分になります」
「九匁? そりゃいくらなんでも高すぎんだろ」
仄火が噛みつくと、飛脚問屋の手代は煙たそうに眼を細めた。
「そう言われましてもねえ。今は金が高いんで、どうしようもないというか」
「じゃあ四分まけろよ。急げば四分ぐらい浮かせられんだろ」
「……分かりましたよ。では九匁」
仄火が懐の小銭を数えると、九匁には少し足りない。しょうがなく取り出した丁銀を、手代が鋏で一片切って秤に乗せる。針はちょうど九匁のあたりを指した。
「毎度ありがとうございます。江戸まで十日ほどで到着です」
手代はそう言って、仄火から手紙を受け取った。表には「瀬川宗四郎殿 進上」と書かれている。
「あんなに必死で交渉しなくても、まだお金は十分残ってるでしょう。それに、伊波さんからも一両もらえたんですよね」
荷物を持ちながら呆れた様子の清に、仄火は首を横に振った。
「半夏の野郎が俺の刀を折りやがったせいで、また刀を買わなきゃならねえ。それで安くても二両はもっていかれるぞ……」
情報屋は一度の依頼で大金が手に入る。が、カジュギンカで身を護るためにはやはり大金が飛んでいくのであった。世の中そうそう上手くはいかない。
「今日から節約するか。それより今は金が高いらしいから、早速昨日の一両を銀に換えてだな……」
「仄火さん、瀬川様や立川様と直接会ったことはないんですよね。そんな怪しい手紙を、若殿様に渡してもらえるんでしょうか」
仄火を無視して、清は冷静に言った。
手紙を瀬川宗四郎に宛てたのは、久世の目に触れぬよう立川勘蔵から知親に手紙を渡してもらう、そういう計画なのである。
「大丈夫だろ、馬鹿真面目の立川君なら。あの時街を案内した男だって手紙に書いたしよ」
「本当に、一歩間違えて命を狙われないといいですけどね」
そこで、仄火は自分も清に聞くことがあるのを思い出した。
「そういえば武家の娘で、千代って名前を知らねえか?」
「千代、ですか……。よくある名前ですからね。そういえばこの度若殿様がご結婚される大名家のお姫様も、千代姫様というお名前ですよ」
「ああ、道理で聞き覚えがあるような気がしたわけだ。でも藩のお姫様は江戸に住んでるだろ? そうじゃなくて、ここのカジュギンカで会ったんだ」
「長見の武家となると……。うーん、思い当たりません。俺が知らないだけかもしれませんが」
「そうか……」
昨日の晴天とはうって変わり、今日の長見の空は曇り模様である。
ちょうど、街の向こうには城と武家屋敷が連なる様子が見えた。千代という娘は、あのどこかに住んでいるのだろうか。




