第十七話 Brother Zoneに楔を打って(前)
お松の魂に映ったのは、一人の侍の顔だった。
「ほらほら、旦那様に申し上げてしまいますよ」
響いたお松の声に、相手は無表情のまま冷たい視線を向ける。そして懐から紙切れを取り出すと、お松に手渡した。
「為替だ」
伊波が身を乗り出して呟く。
為替というのは、遠方に金を運ぶ仕組みだ。両替商に金を預けた時に渡される為替を持っていけば、別の両替商のところでも換金してもらえる。
「額は見えなかったな」
仄火の言葉に伊波は頷いたが、「でもこれは……」と唖然とした顔で言った。
「お松さんの言う旦那様とは、つまり勘定奉行の横川源吾。この侍は横川にばれるとまずいような不正を働き、お松さんにその弱みを握られたんじゃないか」
伊波は魂に映る侍の顔を指さして言う。仄火も男の顔をまじまじと見つめた。
「……誰だ、こいつ?」
仄火が聞くと、伊波も首を横に振った。彼はそのまま藤を振り返る。
「私も分からないわ。こんな身分の高そうな人、会ったことないもの」
藤の言う通り、侍の着物は立派なものだった。
お松が侍から離れて歩き出したせいだろう、魂の中で侍の姿は段々と遠ざかっていく。
すると、彼が初めて声を上げた。怒りを露にした表情は、こちらを、お松を睨んでいる。
「もう、これきりにございますよ。…………よろしいですね、姉上」
姉上。
その場にいた全員が息を呑むと同時に、目の前の魂が黒くどろりと溶けた。
「伏せろ!!」
伊波がそう叫ぶのと同時か、それよりも早く。黒く立ち上った暴風が障子を蹴散らした。どこかで鏡の割れる音がする。
目も開けていられず耳も轟音にふさがれる中、仄火はふわりと体が持ち上がるのを感じた。
……嘘だろ、飛ばされる!
浮遊感に、仄火の手は咄嗟に何かに捕まろうとするも、むなしく床を滑るだけだった。
ごう、と風が一層激しくなるとともに、体は庭の方へと飛ばされた。みるみる地面は離れ、すぐ真下に屋敷の塀を捉える。
仄火がまずいと思った瞬間、その片足が掴まれた。
「ハク!」
ハクは塀に寄りかかって体を支えながら、仄火の足を掴んでいた。
その瞬間に風はぴたりと止み、仄火の体は地面へと落ちる。
「痛ってえ…………」
頭から落ちた仄火だったが、何とか顔は守った。だが、代わりにぶつけた腕や膝を擦りむいてしまったようだ。
すると目の前に静寂の箱が現れ、中から伊波たちが連れ立って降りて来た。どうやら箱の中へと一時避難していたらしい。
「俺も乗せろよ」という仄火の小さな呟きは届かなかったようで、伊波達はお松の部屋を埋め尽くす夢病を見ていた。勢いよく渦を巻く煙のせいで、攻撃するべき本体の影も隠れている。
その時突然、煙は屋根瓦を突き破ってこちらへと伸びた。ちょうど仄火と伊波達の間をすり抜け、音を立てて塀に突き刺さる。
そして先ほどまで煙のようだったそれは、塀に穴を開けた。ぱらぱらと砕けた漆喰の欠片が落ちる。
驚いている暇もなく、無数の攻撃が仄火達を襲った。
「おい、どうすんだこれ!」
木陰に隠れて、仄火は叫んだ。その木も夢病の攻撃を受けては揺れ、葉を落とし続けている。
今までに遭遇した夢病の中でも、特別に強い。これを四人ぽっちでどうにかできる気がしなかった。
伊波たちもそれぞれ物陰で攻撃を凌いでおり、仄火の横の茂みには春日が、蔵の裏には伊波と藤が隠れている。
伊波はそこから顔だけ出して夢病を覗いたが、すぐさま飛んできた斬撃にまた蔵の影へと引っ込んだ。
そして眉を顰めたかと思うと、伊波は思わぬ行動に出る。横に立っていた藤の両目を手で覆ったのだ。
「わっ、ちょっと何よ!?」
「春日!」
呼ばれた春日が振り返ると、伊波は何かを合図するように頷く。
降り注ぐ攻撃の中一人立ち上がった春日から、カチャリ、とまたあの金属音が鳴った。そして、夢病に向かって何かが真っ直ぐに飛ぶ。
黒光りするそれは、苦無だった。夢病によってはじき返された苦無は、また春日の手へと収まる。見れば、彼は夢病のすぐそばまで近寄っていた。もう片方の手にも握られた苦無が黒い煙を切り裂くと、お松の形をした影が現れる。
春日はそこに、先ほど受け止めた苦無を無駄のない動きで深く突き刺した。
「えっ……。嘘、夢病は!? どこにいったの?」
困惑する藤の声に、伊波は「あー……」と言葉を濁した。
「……その、仄火とハクが倒してくれたよ」
「はあ? お前何言って……」
身に覚えのない話に仄火は驚く。
そうではない。あの瞬きするほどの間に夢病を倒したのは、間違いなく春日だ。
春日はすでに苦無は二本とも懐にしまい、なんでもないような顔をしている。だが、仄火はその驚くべき強さをこの目で見たのだ。
すると伊波がこちらに近寄って来て、仄火に耳打ちする。
「悪い、そういうことにしておいてくれないか。色々と事情があってね」
「事情?」
「というより……。春日がそう言うんだ。藤には戦えることを知られたくないらしい」
伊波が見る先で、春日はまだ戸惑ったような表情の藤と二人で何か話している。
仄火は視線を伊波へと戻した。
「いや、意味分かんねえ。なんで知られたくねえんだよ」
仄火が言うと、伊波は「本人に聞いてくれよ」と首を振る。そしてあまり興味もなさそうに、口元だけで笑いながら言った。
「まあ、よく言うだろう。『人の恋路の邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ』ってね」
*
おかげで覚えのないことで藤に感謝されてしまい、仄火はなんだか居心地が悪かった。
ハクはといえば夢病を食べていて伊波の話を聞いていないはずなのに、藤には「気にせんでいいぞ」と笑っていた。お前はもっと気にしろ。
「さて、夢病のせいで大変なことになったが、十両に関しては大きく前進だ」
瓦礫が散乱する酷い状態の庭で、伊波は言った。
「金の出所はお松さんの、おそらくは弟君。彼は…………横領していたのかもしれない、藩の金を」
伊波は慎重に言葉を選んでいるようだった。
だが、お松に簡単に十両も渡せるのだ。弟が動かしている金もちょっとやそっとの額ではないように仄火には思えた。それこそ、横領でもしないと手に入らないような。
「静寂、お松さんの家族については調べてくれたよな? 弟君の名前は分かるか?」
静寂は「ちょっと待って」と箱を取り出す。先ほど春日達と移動した箱とは違い、中には金庫やら紙やらが入っていた。静寂の箱にはいくつか数があるのかもしれない。
静寂は紙の山を探ると、そこから一枚取り出した。広げたそれは家系図のようで、静寂は下の方に書かれている「女子」という文字を指さす。
「これがお松さんのことよ」
確かに、その横には「横川源吾妻」と付け加えられている。間違いなさそうだ。
そして彼女にはやはり弟がいた。「里進」という名前に、仄火は家系図の上方、家の名前を見る。
「久世家、か。つまり弟の名前は久世里進だな」
えっ、と声を漏らしたのは伊波だった。彼は視線を藤へと向ける。
彼女の顔は、血の気が引いたように青ざめていた。




