第十六話 逃げる恥より役立たず(前)
埃にまみれたその家は空き家なのか、人の気配はなかった。
青葉はやっとの思いで椚の死体を運び込み、戸を閉める。次から次へと流れ落ちてくる汗を拭い、肩で息をしながらその場に座った。
暦のうえではすでに秋とはいえ、こんなにも暑い日に一人の人間を運ぶのは途方もない仕事だ。
うつぶせの格好で寝かされた椚の背中には、短刀が突き刺さったままになっている。松の葉のようにとがった髪で隠れている横顔には、刀傷のようなものが走っていた。
よくもまあ、自分がこんな男を殺したものだと思う。椚の低く唸るような声と獣のようにぎらついた視線を思い出すと、今でも寒気がするほどだった。
しかしこうして目を閉じて動かない姿を見ていると、歳はあまり青葉と変わらないようにも見える。
…………半夏は、うまく時間を稼げているだろうか。なんとか隠し通せているといいのだが。
とりあえず死体を隠すことはできたので、半夏のもとに戻るべきだろう。幻影でごまかすのにも限界がある。
しかし椚を運ぶ途中、青葉の着物にはかなりの血が付いてしまった。この明るさの中で、これはまずい。どうするべきかと青葉は考える。
……近くの家から似たような着物を探して着る、というのはどうだろうか。色さえ合わせれば、あとは多少違おうとも気づかれないのではないか。
青葉は戸を少し開けて顔を覗かせた。まばらに立つ家の周りに人の影がないことを確認して、一歩外へと足を踏み出す。
刹那、パアンと乾いた音がした。
弾が当たったのは、踏み出した足のすぐ隣だ。
青葉は何が何やら分からないままに腰を抜かした。
銃。銃だ! 銃が自分に向けられたのだ。
全身に鳥肌が立って、凍りついたように体が動かなくなった。先ほどとは違う汗が吹き出てくる。
すると、向かいの家の物陰から銃口が姿を現した。
「動かないで。頭に当てるのは簡単よ」
銃を構えるのは少女だった。こちらを見据える目はまさに獲物を狩る鷹のようで、その言葉が虚勢ではないと青葉は本能的に理解する。
そしてガタリと音を立てて、箱からもう一人、いや二人の男が顔を出した。箱と言っても、宙を切り取ったようなその箱が、一体いつそこに現れたのかは分からない。おそらくは獏の能力だろうか。
男のうち、一人には見覚えがあった。屋敷で出会った春日という情報屋である。ということは、残りの二人も椚の仲間か。
すると春日ではない方の男がこちらへ近づいてきた。下駄の歯が家の敷居に当たって音を立てる。
「動くなよ」と、青葉の両手が縄のようなもので縛られた。
「伊波、椚は」
銃を持った少女がそう言ってから、息を呑む気配がした。椚の死体が目に入ったのだろう。
伊波と呼ばれた男の指が、椚の顔にかかる髪をそっと持ち上げた。
「椚…………」
しゃがみ込んで呟く彼の表情は、後ろからでは分からない。ただ、その声色はかすれたような、それでいて何かを愛おしむような響きをしていた。
*
「おい、本当にこっちなのか?」
「そう言ってるでしょ。銃声が聞こえなかったの?」
紫苑の後を追いかけながら、仄火は行く先の空を見上げる。どうして銃声の方向に伊波たちがいるのか聞きたかったが、今は走るので精一杯だった。
ヨリメを乗せてなお、紫苑は案外足が速い。四足歩行だからなのか。
それに、柱に括り付けてきた半夏のことも多少心配である。体格の良い半夏が、目を覚ましても大人しく縛られたままでいてくれるだろうか、と。
向こうには青葉一人に対して三人もいるのだ。誰か一人くらい、半夏の見張りに置いてきてもよかったかもしれない。
ハクもハクで、ヨリメのお守りから解放されて悠々《ゆうゆう》と宙を浮かんでいるし、仄火一人だけ必死に走っているのは何だか不公平に感じた。
「火薬の匂いが濃くなってきた。もうすぐそこよ」
街の外れへと近づくにつれ、紫苑はさらに速度を上げる。確かに、焦げ付いたような匂いは仄火でもはっきりと感じられるほどだった。
鉄砲まで持っているとは、まったく物騒な組合だ。
仄火がそう思っていると、一本の通りに出た。やけに見通しのよい、言い換えればなんとも寂しい閑散とした通りだ。
「いた、あそこ!」
紫苑が駆ける先には、確かに複数の人影があった。一軒の軒先に集まっている人影たちは、近づくとだんだん見知った姿へ変わっていく。
「藤!」
紫苑の声に振り向いた藤は、鉄砲を抱えていた。
銃声の主はまさかの藤であったかと思った矢先、仄火はその銃口の先で青葉がぐったりとしていることに気がつく。
「……え、殺した?」
「「殺してないわよ!!」」
思わずといった仄火の呟きに、藤と紫苑の声が重なった。藤は慌てたように銃口の先を下ろす。
「気絶してるだけ。ちょっと威嚇しただけなのに震え上がっちゃって」
呆れたような口調だが言っていることは十分怖い。情報屋でもなければこのご時世、鉄砲を向けられることなど一生に一度もないだろうに。
「……本当にこんな人が、椚を殺したのかしら」
藤はそう言って青葉を見る。だが、その着物に付いた血が何よりの証拠だった。
「それで半夏の方は、なんとかなったのかい?」
春日にそう聞かれて、仄火は頷く。
「一応な。でも、そんなにあっさり気絶するような奴に三人がかりなら、こっちにもう少し人手が欲しいくらいだった……」
仄火は青葉の顔を覗き込もうとして、言葉が止まった。
建物の中、背中に短刀が突き刺さった男と伊波の背中が見えたからだ。
「……ああ、仄火。苦労をかけたね。まさかこんな大事になるとは俺も思わなかった」
ゆらりと立ち上がった伊波は、声も顔色もいつも通りだ。ただほんの少し、翳りのようなものが見えたのは気のせいだろうか。
仄火は人を殺したことはないが、死体を見たことなら何度もある。無法地帯のカジュギンカでは避けられないことだ。
しかし、仲間を殺されるというのはどんな心持ちか。経験のない仄火には想像するしかない。
横たわる椚は想像よりもたくましい体つきで、顔もかなりいかめしい。藤が、本当に青葉が椚を殺したのかと疑いたくなる気持ちも分かるような気がした。
伊波は仄火の横を通り抜けて、空き家の表へと顔を出した。
「藤、鳥兎を探してくれないか。椚が殺されるところを見たのは、おそらく彼女だけだ」
「そういえばいないわね。まさか、殺された椚を見捨てて逃げたの?」
「鳥兎なら、それもあり得るかもしれないな」
鳥兎というのは、確か椚の獏の名前だ。椚を見捨てて逃げてもおかしくないほど、冷酷な性格なんだろうか。
藤は春日に銃を預けると、静寂と彼女の箱に近づいた。何をする気なのかと仄火が見ていると、藤が乗り込んだ箱は消え、次の瞬間、はるか上空に現れる。もはや藤と静寂の姿も点のようにしか見えないほどだ。
しばらくすると、箱はまた地上へと戻ってきた。箱から降りた藤は、首を横に振る。
「見当たらないわね。椚が殺されたのは昨夜らしいし、もうとっくにどこかへ行ったのかも」
「そうか……」
どうにも分からない。流れる重い雰囲気に仄火は躊躇したが、それでも口を開いて尋ねた。
「話を遮るようで悪いんだが。あんなに高いところから、どうして鳥兎がいないって分かるんだ?」
仄火が聞くと藤はきょとんとした顔をしたが、すぐに「ああ」となんでもないように答える。
「人よりちょっと目がいいだけよ」
あんな高所からでも街の様子が見えるのは、果たして「ちょっと」と言えるのだろうか。
「青葉も藤に見つけてもらって、静寂の箱で移動して来たんだ」
静寂の移動能力、藤の目に、紫苑の毒。なるほど、夢遊の中枢にはかなり精鋭の能力が集められているようだ。となると、やはり気になるのは春日とヨリメだが……。
「それにしても鳥兎が見つからないとなれば、頼りになるのは仄火だけかな」
「は?」
急に伊波に名指しされた仄火は、言葉の意味が分からずに眉をひそめた。
「だって、俺たちを呼んだのは仄火じゃないか。青葉が椚を殺したことを見抜けたなら、その動機も分かってるんじゃないのか?」
「それは……」
まったく分からない、と言えば嘘になるが、確証も何もあったものではない。仄火のそれは、あくまで推測の域を出なかった。
「お松さんの魂を見つけられることが、青葉にとって不都合だった。というのは間違いねえと思う」
「つまり、十両がらみで何か知られてはまずいことがあった。というわけだ」
すっと目を細める伊波に、仄火は頷く。
「それで椚を殺したが、そこに俺と春日がやって来た。追い払おうとしたが失敗し、慌てて部屋ごと死体を隠した後、半夏が青葉の幻影を作ってごまかした。一方で当の本人はここまで椚の死体を隠しに来ていたわけだが」
「分からないのは、青葉が何者なのか。それとやっぱり、どうして椚を殺したのか、だね」
この、話を遮られる感覚も久しぶりである。
だが、伊波の問いに仄火は答えられなかった。青葉は武家の出には見えないし、どうしてお松の魂を覗かれることが青葉にとってまずいことだったのだろうか。
「それならここに書いてあるぞ」
ぱらり、とハクが何かを持ち上げた。ところどころ血にまみれた一枚の紙が、仄火の眼前にさらされる。
「何だそれ」
「あの青葉とかいう男の懐からのぞいとった。どうも手紙のようじゃな」
「手紙? おい、ちょっと見せろ」
仄火はほとんどひったくるようにして、ハクから手紙を取った。伊波も横から覗き込んでくる。
手紙は半分ほどが血で滲んで文字が読めなかったが、残された部分から大まかな文章は予測できた。
「……ヒ度、いや此度の…………が、世に出回っていないか調べ、近…………告すべし。礼金は三分。送り主は…………って、お松さんじゃねえか!」
仄火が叫ぶと、伊波も身を乗り出して手紙の端を掴んだ。
「……たぶん、近日中に報告すべし、かな。そうなると、青葉はお松さんに依頼を受けた情報屋というわけか」
「一番大事な依頼の内容が読めねえが……。でも、これは間違いなく」
「十両の出所だ。それが情報屋に知れていないかを確かめることが、青葉の仕事だったんだ」
仄火は行き場のなくなった声を呑み込んだ。もう、慣れてしまった方がいいのかもしれない。
しかし……。青葉も相当に困っただろう。お松は知る由もないだろうが、世の情報屋はカジュギンカの魂から情報を得ている。それを防ぐには、事が落ち着くまで文字通り四六時中魂を見張っていなければならない。
すると、それまで黙って聞いていた藤が口を挟む。
「じゃあ青葉を無理に起こしても、十両の出所はきっと喋らないわね」
「そうだな。やっぱりお松さんの魂に聞くしかないか」
伊波はそう言って、「簡単に教えてくれるといいけど」と肩をすくめる。そして顔を上げると、仄火たちをまっすぐに見た。
「じゃあ行こうか。十両の謎を探るため、いざ横川家へ」
静寂、と彼が呼ぶと、その背後に空間を切り裂きながら箱が現れた。




