第十五話 夏の夕日は寂しさのかほり(後)
「青葉、大丈夫か?」
仄火が襖を開けると、横になったままの青葉は小さく頷いた。
外では夜が明けつつあるが、部屋の中はまだ薄暗い。
「何の用だ」
半夏は面倒そうに言う。その瞳は少し眠たげだ。
「いや、昨日から何も食ってねえだろ。いったん現世に戻って、気力を養ったほうがいいんじゃねえかと思ってよ。ここは俺と春日が見てるから」
仄火の提案に、半夏は少し考えてから言った。
「ではそうさせてもらう。というより、こっちは巻き込まれただけだ。あとはお前らで何とかしてくれ」
「まあ、それもそうだな。分かった」
仄火は部屋の中へと一歩、足を踏み入れた。そして青葉の布団の横に膝をつくと、片手を差し伸べる。
「ほら、起こしてやるよ」
しかし、青葉はその手を取らなかった。自身で体を起こすと、力なく首を振る。大丈夫だと言いたいのだろう。
仄火は手を引っ込めた。
「そういやお前、別の仕事をしている途中に椚と会ったって言ってたよな。どんな仕事だ?」
青葉は、何も答えない。
「何でそんなことをお前に教えにゃならんのだ」
代わりに半夏が苛立った口調で言った。
仄火はそちらにゆっくりと振り返って、頭を後ろに傾ける。
「俺は青葉に聞いてんのに、なんでお前が答えるんだよ」
しばし、沈黙が流れた。カジュギンカの朝は静かなまま何も答えない。
突然、半夏が動いた。その屈強な体つきから繰り出される拳を仄火は避ける。
後ろの青葉を下敷きにするような形で倒れこんだが、体同士が触れることはなく仄火の手はじかに布団の上へとついた。その瞬間、青葉の姿は靄のように消えてしまう。
「やっぱりそうか」
仄火はにやりと笑みを浮かべて立ち上がった。隠し持っていた刀を抜く。
「お前の能力は巨大化なんかじゃねえ。本当は幻影を作る能力だな」
そのことに気が付けば、あとは容易に説明できた。
幻影は視覚的にそこにはあるが、実体はない。自分を巨大化させた幻影を作ってもそこに影はできないし、本当はそこにある部屋の前に壁の幻影を作れば、部屋などないように見える。
半夏は近くにあった硯を仄火めがけて投げつけた。ものすごい速さで飛んでくるそれを仄火が避けると、硯は柱にぶつかってばらばらに割れる。
仄火が一瞬気を取られると、半夏はその襟を掴む。振りかざされた拳に、仄火は刀を叩きつけて防いだ。半夏の腕からはたちまち血しぶきがあがるが、その腕が落ちることはなかった。
……くそっ、筋肉が固すぎる。こんな鈍らじゃ…………。
仄火が舌打ちする間にも、襟を掴んでいた手が今度は顎を突き上げようとしてくる。
仄火が反射的に鳩尾を蹴り飛ばすと、半夏の体は後ろに飛んだが、同時にその腕に刺さっていた刀も仄火の手から離れてしまった。
半夏は立ち上がると、血が流れるのも構わず腕から刀を引き抜く。そして刀を真っ二つにへし折ると、低く笑ってその欠片を床に投げ捨てた。
これで、仄火は丸腰だ。体格だけでは目の前の半夏に敵うはずもない。
仄火が後ずさると、先ほどの硯の破片を踏んだのか足裏に痛みが走る。
ぽたりと、額から汗が落ちた。さあどうする。
しかし妙案は思い浮かばない。目くらましに使えそうな物も部屋にはない。
まずい、このままでは……。
その時、桃色の煙が部屋を覆った。突然のむせ返りそうなほど甘い匂いに、仄火は目を閉じてせき込む。
何だ、これは!?
「人に害はないから大丈夫よ」
聞き覚えのある声に仄火が目を開けると、そこには犬でも狸でもない、獏の紫苑がいた。その鼻からはまだ少し煙が出ている。
そして、紫苑の前には半夏が大の字になって倒れていた。
「これは……」
「毒よ。どういうわけだか妖にしか効かないけれど。それにこいつも多分、死にはしないわ」
紫苑はそう言って、前足で倒れている半夏をつついた。
……四半刻前、仄火は春日に山車蔵まで応援を呼びに行くよう頼んだ。こちらに仄火だけでは人手が足りないからだ。
伊波ならできる限り早く起き出してお松のことを調べていると踏んだが、どうやら間違いではなかったようである。
「伊波と藤は?」
「春日の方に行ってるわ。そっちの方が、伊波の知りたいことも分かりそうだし」
「ふーん……」
こっちは死にかけたというのに、様子を見に来る気もないらしい。
まあ、中枢の人間が一人殺されたと聞いては、おそらく伊波はそんなことを考える暇もなかっただろうが。
「何はともあれ助かった。ありがとな」
「はいはい。それより縄か何か持ってきなさいよ。じきに起きるわよ、こいつ」
「分かった」と仄火が部屋を出ると、向こうから「仄火!」とヨリメを抱えたハクがやって来た。
「うわ、なんじゃあの煙」
「近寄らないで! 獏には猛毒よ」
紫苑が叫ぶと、ハクはぎょっとした顔で後ろへさがる。
「おい、あのお姫さんはどうした?」
姿の見えない千代に仄火が聞くと、ハクは「そうそう、」と気を取り直したように言った。
「それが消えてしもうたんじゃ。ぱっと目を一瞬離したら、もうおらんかった」
「本当かよ? まさか、居眠りしてたんじゃねえだろうな」
「なんじゃと。そんなもんしとらんわ。あーあ、こいつが喋れたら証言してもらえるんじゃがなあ」
ハクが言っても、ヨリメは目を瞬きさせるだけだ。
部屋の次はあの娘が消えるのか。いや、元々突然現れたんだし、突然消えてもおかしくはない……のか……?
さっぱり分からないと仄火は頭を悩ませたが、後ろから「縄! 早く!!」という紫苑の声で我に返る。そして縄の一つでも置いてありそうな蔵へと歩みを進めた。
「獏の方は片づいたのか?」
「ああ。次は青葉の方だ。半夏を縛ったら、春日達に合流するぞ」
「なんじゃ、珍しくやる気ではないか」
ハクが茶化すように言うと、仄火は「当たり前だろ」と振り返る。
「こんなもん三分じゃ割に合わねえ。伊波に掛け合って、少なくとも一両はせしめてやる」
疲れ切った顔色にまだ固い闘志をにじませる仄火の背後では、ようやく昇りきった朝日が強く夏空の青を照らしていた。




