第十五話 夏の夕日は寂しさのかほり(前)
青葉は、お松の部屋から少し離れた座敷で横になっていた。その顔は青ざめてぐったりとしている。横には半夏が付き添っていた。
正直なところ、これで情報屋がやっていけるのかとも思ったが、仄火はそれを口にしないでおく。
半夏は春日の横に立つ仄火を指さして言った。
「そこの男が生きているとなれば、あの血はやはり椚のものか」
見た目に違わず、半夏の声は重い響きをしている。
……半夏の言う通り、あれだけの血を流して生き延びられる人間などいない。もうおそらく、椚はこの世にいないだろう。
「下手人の姿は見てねえのか?」
仄火が聞くも、青葉は力なく首を横に振る。しかしその目が、怯えたように仄火を見ていることに気がついた。
……そうか。青葉たちにしてみれば、一番怪しいのは仄火である。今の今まで屋敷にいなかったのだから。
一応ハクと千代が証人だが、ハクは示し合わせて嘘をついていると思われそうだし、千代は今この場にいない。
すぐに無実を証明するのは難しそうだと思った仄火は、そっと襖を閉めて部屋を後にした。
「で、どうする? とりあえず、お松さんの魂探りに行く?」
「いや、椚はお松さんの魂を探してるところを殺されたんだ。今はやめておいた方がいい」
「分かった」と同意する春日の少し安心したような表情を見るに、彼もあまり行きたくはなかったようだ。
それに、もし危険な目に遭えば春日は自分を置いて逃げるだろう。今までの挙動からして、仄火はそう確信していた。
「あと一つさ、気になったんだけど」
「何だ?」
「椚の獏はどこに行ったんだろう? 鳥兎っていうんだけど」
仄火はハッとした。そうだ、獏。
椚もカジュギンカに出入りしている以上は獏を連れていたはずだ。
「どんな獏だ?」
「女の子だよ、僕らと同じくらいの年の。能力は特になかったと思う。けどまさか、鳥兎も殺されたのかな……」
春日の言葉に、仄火は後ろをついてくるハクを振り返った。
「なあ、妖って殺されたら死ぬのか?」
「さあな。そんな間抜けは見たことがないからのう」
そう言うハクは、ヨリメに髪や服を引っ張られたせいで随分間抜けそうな格好になっている。
「じゃがまあ、死ぬかもしれんの。鵺という妖を人が弓で射て退治した、という話もあるくらいじゃ」
そう言われれば、清が前にそんな話を読んでいた気がした。
鳥兎という獏は殺されたのか、それとも逃げたのか。
……仄火は、隣を歩く春日を見つめる。
例えば仄火たちと別れた後、椚の死体を屋敷のどこかに隠すだけならそう時間はかからない。そうして「血の跡は屋敷の外まで続いていた」と言えば、仄火たちの意識を外へ向けることができる。
何より、戦えることを味方に隠している理由が謎のままだ。
…………だがもしそうだとしても、どうやってお松の部屋を消したのか。それが分からないことには下手人探しも始まらないような気がする。
するとその時、後ろから軽い足音が駆け寄ってきた。
「仄火さん、侍街の見取り図はありませんでしたが、この街の地図が見つかりましたよ!」
そう言って紙を広げてみせる千代に、その件もまだ残っているのだったと仄火は思い出した。
千代は地図の他にも数冊の本を手にしていた。どうやらお松の部屋の惨状は目にしていないようだ。
「その本は?」
仄火が聞くと、千代は目を輝かせながら本の表紙をこちらに見せる。
「これは算術の本です! 読んでみたいと思っていたのですが、こればかりはお葉、いえ、周りの者にも止められて……」
その場で本をめくり始める千代を横目に、「やっぱりこの娘変だよ」と春日は仄火に耳打ちした。
仄火たちは近くの部屋で、千代が持ってきた地図を広げてみる。
しかし千代の言った通り、武家屋敷の配置は載っていなかった。これでは千代の家を見つけることはかないそうにない。
「あ、これが山車蔵があるところかな。じゃあ、巨人と鉢合わせたのはこの道か」
春日が指でたどるのは、確かに仄火たちが歩いた道だった。
「巨人? そんなものまでいるのですか?」
気がつけば、本を読んでいたはずの千代も横に立っている。
「いや巨人っていうか、獏なんだけど……」
仄火は半夏の能力についてどう説明したものかと悩む。だが、結局は面倒になって諦めた。
「巨人って、どのくらい大きいんです?」
「四間ほどはあったかもな。この辺りで気がついて、そこから命からがら逃げた」
仄火は地図の一点を指さして言う。本当は逃げきれていなかったが、またしても詳細は省くことにした。
「…………ここ、ですか?」
するとなぜか千代は、じっと仄火の指し示す箇所を見つめた。疑ったように、納得いかないといったように、眉を寄せて。
「本当にここに来るまで、気がつかれなかったのですか?」
「? ……ああ。もしかすると、俺たちがかなり近づいてから巨大化したのかもな。だから直前まで気がつかなかったのかもしれねえ」
半夏の能力のことを考えると、それが真実に近い気がした。
だが、そんな仄火の言葉にも千代は首を横に振る。
「それでも、ありえません」
千代はその部屋にあった筆を執って硯の墨を浸し、紙に何かを書き始める。
「それは、いつ頃のことでしょうか?」
「いつ頃って、確か日がほとんど沈みかけている夕暮れだったような」
仄火が答える間にも、千代は手を止めない。彼女は時折地図を見ながら何かを考えていたが、急にぱっと顔を上げた。
「やっぱりおかしい。ここまで近づいて、巨人に気がつかないわけがないんです」
見てください、と千代は地図を指さした。
「仄火さんたちはこの道を、この屋敷に向かって歩いた。つまり、西に向かって歩いていたわけです」
「ああ……」
西。
その言葉を聞いて、仄火にも千代が感じている違和感の正体がなんとなく分かってきた。
「今は夏至からひと月と少し。日が沈む方角はほとんど真西です。もし四間ほどの巨人が立っていれば、影の長さはゆうに四十間は越すはずなんです」
仄火たちが気がついた位置は、地図で見ると巨人から十間と離れていない。つまり、その時その場所は巨人の影ですっかり暗くなっていたはず。
ではなぜ、直接その目で見るまで巨人の存在に気がつかなかったのか。それは単に……。
「影が、なかった……?」
仄火がそう呟くと、春日も思い出したように口を開いた。
「そう、だったかも。だって僕が顔を上げた時、夕日がまぶしかったような気がする」
そうだ。仄火が叩き潰されそうになった時も、ハクの声を聞くまで気がつかなかった。普通は手の影が落ちて、気がつきそうなものなのに。
どういうことだろう。半夏は巨大化すると、影が無くなるのだろうか。
…………いや、待てよ。
仄火は思い返した。
半夏に追いかけられてからのこと、消えた部屋を探したこと、先ほど寝込んでいた青葉のこと。そうして気がついた。
半夏の能力が巨大化だなんて、誰も言っていないことに。
仄火はその場を飛び出して、お松の部屋へと向かった。
仄火の推測が当たっていれば、部屋が消えた理由についても説明がつくかもしれない。
そして、お松の部屋の手前で足を止める。そこは仄火が最初に手燭を調達した部屋だった。その部屋からは変わりなく、香が漂っている。
ふと気になって、仄火は香りの出所を探してみた。しかし小さな部屋の、どこを探してもそれらしいものはない。
まさか、と思って仄火は隣のお松の部屋へと移動する。
「仄火、慌ててどうしたのさ……って、またこの部屋に来たんだ」
後ろから追いかけてきた春日が頭を出した。相変わらず血みどろの部屋に立つ仄火を見て、うわあ、という顔をする。
「見ろよこれ、立派な香だろ」
仄火が指し示すのは、鏡台の上に置かれた香だった。女中たちの噂よりも一足早く、お松はすでに手に入れていたのである。香からは甘い不思議な香りがした。
「ああ道理で。あまり血の匂いがしないと思ってたんだ」
春日は納得したように頷いた。
……仄火が手燭を取りに来た時もこの香りはしていた。おそらくはこの、お松の部屋から。だとすればこの部屋は、消えていたのではない。
「春日、一つ頼まれてくれるか?」
仄火の目に迷いはなかった。
短い夜は、すでにうっすらと端の方から白み始めている。




