第十四話 曇りときどき姫予報(後)
屋敷を出て、近づけば近づくほどその影は人のようだった。着物の袖が風にはためいている。
しかし、姿形だけでは妖でないとは言い切れない。ここはカジュギンカであるし、こんな時分に屋根に登る人間なんて……いないとも、限らないが。
仄火はある日の人魂の件を思い出し、決めつけるのをやめた。
影は女のものらしかった。顔は見えないが、華やかな装飾の着物は立派なものであることが分かる。
同じことを思ったのか、後ろからついてくるハクも「どっかの武家の娘じゃろうか」と呟いた。
「おい! そんなところで何やってんだ?」
影に向かって仄火が叫んだ時だった。ぐらり、と影は揺れて傾き、屋根から滑り落ちる。
「!!」
まずい、と考える暇もなく仄火は走り出した。
間に合うか。
前のめりの上半身に何とか足が追いついたが、逆に滑り込むようにして落ちてくる影を受け止める。衝撃で臀部を地面に強打し、仄火は思わず顔を歪めた。
彼女の着物は仄火がいまだかつて触れたことがないほど滑らかで、頭の簪も派手ではないが品の良い物だった。
すると、彼女の瞳がゆっくりと開かれる。
「…………あ?」
こんな高貴そうな娘の顔など、知る由がない。会ったこともない。
……なのに、知っている。この娘、どこかで…………。
「…………あんた、」
「きゃあ!!」
仄火の言葉を遮って、彼女は仄火の肩を勢いよく押し返した。後ずさって仄火から距離を取ると、戸惑ったように辺りを見回す。
「ここは……? 私、落ちて…………」
そこで、はっとしたように座り込んだままの仄火を見た。
「ご、ごめんなさい! 助けていただいたのに、私……って、ええ!? 浮いてる!?」
仄火に手を差し伸べようとした彼女は、視界にハクが入るなりまたもや固まってしまった。「やかましい娘じゃのう」とハクは呆れたような顔をする。
「一体どうやって……。…………いえ、夢なんだからどうもこうもないわよね……」
彼女の小さな呟きは、仄火たちには聞こえなかった。
立ち上がった仄火は、着物についた土を払う。
「あんた、人間か?」
「え? は、はい。人間……です、が……?」
「じゃあ、あんたの獏はどこだ?」
「獏?」
何のことだかさっぱり分からない、といった様子の彼女に、仄火はハクの方を見た。
「……どう思う」
「その辺の妖に引っ張られて、迷い込んだのかもしれんな。わしの力で現世には帰せるが……」
ハクが指さす道の向こうには、ふわり、と人の魂が浮かんでいる。夜とはいえ、まだ現世では人の行き来があるようだ。
「ここで戻るのはまずいな。人に見られる」
それに、夜道を娘が一人で歩くわけにもいかないだろう。彼女の家まで送るしかないのかもしれない。
「なあ、家はどのあたりだ?」
「家……ですか。その、私はここには住んでいないのですが……」
「いや、そりゃ分かってんだけど……」
おずおずと答える娘に対し、仄火はどうしたものかと思案する。
まあ、身分の高い娘ならあまり外に出たこともないだろう。いきなりカジュギンカと現世の区別をつけろ、と言う方が無理な話か。
仄火は一旦、娘を連れて横川家の屋敷に戻ることにした。武家屋敷の地図か何かがあれば、彼女の家も分かるかもしれない。
「とりあえずついてきてくれ」と仄火が歩き出すと、娘は小走りで横に並んだ。
「あの、お名前はなんとおっしゃるんですか?」
「え? ああ、俺は仄火だ。こいつはハク」
「仄火さんと、ハクさん。改めて助けていただき、ありがとうございました」
「いやまあ……どういたしまして」
仄火の歯切れが悪くなったのは、娘の仕草がいちいちお上品だからである。明らかに上級武士である娘に対して、先ほどから不遜な態度を取りすぎていたかもしれない。
知親で悪い癖がついたな、と思いつつ、仄火は聞き返した。
「で、そちらのお名前は?」
「千代、と申します」
千代。やっぱり、どこかで聞いたような名前だった。
*
「どこ行ってたんだよ! ……というか、誰?」
春日は仄火の後ろに立っている千代を見て、怪しむように言った。
「俺もよく分かんねえけど、迷い込んじまったみてえだ。ちょっと家まで送って来るから、部屋探しの方はいったん離脱……」
「あ、それが見つかったんだ! お松さんの部屋!!」
「え、本当か!?」
仄火は言いかけていた言葉の先も忘れて仰天した。あったというのか、あの部屋が。
「こっちだよ」と先頭に立つ春日だったが、数歩進んだところで振り返った。
「あの、そのお姫様は来ない方がいいっていうか、見ない方がいいかも。たぶん」
迷う表情で、春日が見ているのは千代である。彼女はそもそも何の話か理解していないようだった。
仄火も、なぜ春日がそう言うのかは分からない。だが、別に連れて行く必要もないので千代には待っていてもらうことにした。
「すぐ戻るけど、暇だったらここいらの地図でも探しといてくれ」
仄火が手燭を渡すと、千代は「えっ」と声を上げた。声色には喜色が滲んでいる。
「私が探していいのですか?」
「まあ、嫌なら無理にとは」
「いいえ! 探します、きっと書院にあるはずですから!」
意気揚々と、跳ねるように廊下を歩く千代の後ろ姿を、仄火はただ見ていた。
「なんか、変なお姫様だね」
「そーだな……」
なんというか、うん。変。変だ。
引っかかるような違和感の正体が何なのか、仄火には分からなかった。
春日に続いて暗い廊下を歩く先は、先ほど仄火が手燭を調達した部屋の辺りだった。
ハクとヨリメも後ろからついてきているが、先ほどから「裾を引っ張るな」と言うハクの声が聞こえてくる。
「追いつけないから、運べって言ってるんだよ」
振り返る春日に、「だから何でお主が運ばんのじゃ」とハクはうんざりした顔を見せた。
「なあ、青葉と半夏は?」
姿の見えない一人と一匹について仄火が尋ねると、春日は「寝込んでる」と短く返事をする。
「寝込んでる?」
仄火が聞き返すと、春日は立ち止まった。どうやら、ここがお松の部屋のようだ。
「見れば分かるよ」
春日はそう言って、障子に手を掛けた。
部屋の中は凄惨だった。
襖には血しぶきが飛び散り、畳には大きな血だまりができている。例のギヤマンの鏡にも、べったりと赤い血が付いていた。
部屋の中央にぽっかりと浮かぶ魂は、現世で眠っているお松のものだろう。
「………………これは、もう」
この量の血を流して、生きてはいられない。椚はおそらく……。
仄火の言葉の先を春日は汲み取ったようで、静かに頷いた。
しかし部屋に残るのは血痕のみで、死体はない。
「どこに行ったんだ」と仄火が呟くと、春日は無言で手燭を持ち上げ、部屋の奥を照らした。襖の近くには、廊下へと何かを引きずったような血の跡が続いている。
まずい。
仄火はそう思うのとほとんど同時に駆け出して、振り返りざまにハクにぶつかった。
「なんじゃ、どうした?」
「あのお姫さんが危ない。死体を運んでいる最中に鉢合わせでもしたら、」
「大丈夫だよ」
背後からの春日の言葉に、仄火は「え?」と振り返る。
「血の跡は玄関の方まで続いて、もう屋敷を出ていたから。屋敷の中も歩き回ったけど人はいなかったし」
淡々と言う春日に、仄火はいったん胸を撫で下ろした。
「そうか……。………………いや待て、なんで屋敷の外まで血の跡を追わなかったんだ?」
「だって、血が乾いたのかそこからはほとんど跡が見えなかったし、それに……」
春日は背中を丸めてそれに、と繰り返した。忙しなくあちこちへ視線を走らせたかと思うと、急にまっすぐ仄火を見る。
「……怖いじゃないか、人殺しだぞ!」
一周回って、胸を張って言う春日のことが仄火はいよいよ分からない。
その時、部屋のどこかからポチャリ、と血の垂れる音がした。
…………今宵は本当に、おかしなことばかり起きる。




