第十一話 桜草とネグローニ、或は白昼夢(後)
それから鈴廊下で進太郎に見送られ、奥で湯浴みを済ませ、女中たちに囲まれて寝所にたどり着くまで、知親は一切気が抜けなかった。
女だけのどこか秘密めいた雰囲気の漂う奥向きでは、知親が床の音一つ立てるだけでどことなく好奇の視線が向けられるように感じる。それは男だからなのか、長見の跡継ぎであるからなのか、下級武士の次男風情だからなのか。もしくはそのすべてなのか。
「若殿様。こちらで姫様がお待ちでございます」
お葉、という老女はそう言って、隣の間を指した。そして彼女と女中たち二、三名がその場に控える。彼女たちが今宵、寝所を護る役目なのだ。床の間に掛けてある太刀だけではなく、女中たちのかたわらにも刀の鞘が見えた。
知親はただ頷いて、歩みを進めた。言葉遣いを間違えないためには、むやみに口を開かないほうがいい。
ようやく寝所に入って襖を閉め直すと、女中たちの姿が見えなくなっただけで安堵に近いものがあった。
知親はなんとか、この儀を乗り切ったのである。
そうして振り返ると、そこには千代姫が座っている。……知親から遠く離れた、向かい側の襖の前で。
「………………」
知親は戸惑った末、慎重に一歩ずつ近づいてみた。
しかし、やっぱりその戸惑いは顔に出ないので、千代からすれば知親が何を考えているのかも分からない。
千代の背中が襖に当たって音を立てたので、知親は歩みを止めた。
……もしや、これも何かのしきたりだろうか?
分からないが、これ以上近寄るのはよくないだろうと判断し、知親はその場に座る。
そうして両者が向かい合ったまま、しばらく音のない時間が流れた。
「…………本は、お気に召しましたか」
先に口を割ったのは、このままでは埒があかないと思った知親のほうだった。
その言葉に、千代はただ首を縦に振る。
何か言わなくては、「南游紀行」は素晴らしかったと伝えなくては。そう思うのに、胸につかえたように言葉は出てこなかった。先ほどから知親の顔もまともに見られてはいない。
こんなことでは武家の娘として恥だと分かっていても、痺れるような緊張はどうにかなるものではなかった。
「……そちらへ行っても?」
控えめな知親の言葉に、少し迷って「はい」と絞り出した声はほとんど音にならなかった。遠くの知親にも聞こえなかったようで、千代は代わりにまた、ただ頷く。
知親は音もなく立ち上がってこちらへ歩いてくると、千代の向かいではなく、隣で襖に背を預けた。広い寝所の隅、女中たちの控える隣の間からは最も遠いところで二人は並んで座っている。
知親は横顔も息を呑むほど美しかった。半分しか見えていないというのに、正面から見たときと同等か、それ以上に。まるで絵のようだ。
「戸惑われるのも、当然のことと存じます」
先ほどよりも潜められた声を近くに感じ、また緊張する。しかし千代は、その言葉に彼の顔を見上げた。
「私が姫様のお顔を拝見することも、口をきくことも、本来なら無礼極まりないこと。もし貴女様が望まぬことがあるならば、私は何なりと従います」
それはずっと、知親の本心であった。
何かを知りたいと、学びたいと思うことは決して悪ではない。そのためだけに彼女が自分のような者と結婚させられるとは、なんとも道理のいかぬこと、と。
「……読みました」
その声はか細かったが、今度こそ知親の耳に届いた。どうして声が出せたのかは、千代にも分からない。
「『南游紀行』。江戸からずっと西のあたりを旅する話です。きっと私は生涯行くことはないでしょう。だから、本を読むのです」
ただ、話したかった。どうしても言いたくてたまらなかった。
あなたがくれた本が、どれだけ嬉しいものだったのかを。
無礼かどうかなんて関係なく、私はあなたの顔を見つめていたいと。その、声を聞きたいと。
「私の世界が、私の見ているものだけで終わること。それが私の望まぬことでございます。若様はもう、私に外の世界をくださいました」
それはうまく、伝わっただろうか。
知親は何も言わずに千代を見ている。彼の視線が一体どういった感情を携えているのか、千代にはまったく分からなかった。
「……それならば、ようございました」
知親は腰を上げた。そして、千代に手を差し伸べる。
千代が取ったその手は固くて、ひんやりと冷たかった。それがかえって自分の体温がいかに上がっているかを感じさせる。
知親は歩き出す。千代は、空いている方の手が微かに震えているのが分かった。
そして布団の上に着くと、知親は手を放して、そっと千代に顔を近づけた。
「今宵は姫様もお疲れでございましょう。ごゆっくりとお休みになられませ」
囁き声はおそらく、隣の間の女中たちに聞こえぬように。
頭の先まですっかり固まっていた千代は、「え?」と思わず間の抜けた声を出してしまう。
そうして呆気に取られている間に知親はあっさりと布団に入り、千代はその長い睫毛が伏せられるのを見届けた。
千代もなんとなく自分の布団に入る。しかし、後ろでは知親が寝ていて、襖の奥にはお葉たちがいるのだ。当然すぐには寝付けるはずもなく、そんなときのための本もここにはない。
千代はぎゅっと両目を閉じた。
第一、どうすればこの心臓を穏やかにできるというのだろうか。
*
その晩、千代は夢を見た。
彼女は夜空を飛んでいて、見知らぬ街を見下ろしている。江戸よりもずっと田舎だが、静かな街だ。
ふと音が聞こえた方を見やると、海があった。今まで文字でしか見たことがなかったが、あれが海。心地よく安らかな音を立てる波は、月の光を反射して輝いている。
千代は一軒の建物の屋根に降り立った。海とちょうど反対側、遠く広がる山の手前には城のようなものが見える。江戸城とは造りの違うその城に、いったいこの土地を治めているのはどんな殿様だろうかと、彼女は想像してみた。
…………それにしても、静かすぎやしないか。いくら夜とはいえ。
江戸と比べるからそう思うのかしら。それともこの辺りに人が住んでいないだけかしら。
なんだか、それまで綺麗だと思っていた夜の海や月が、急に不気味に思えてくるようだった。
「おい! そんなところで何やってんだ?」
そのとき。屋根の下から一つ、声が響いた。その声を聞いた瞬間、急に千代の着物は重くなる。
私はどうして、こんなに高いところに平気でいたのだろう?
足元を見れば草履を履いていた。底の厚いそれは、屋根の上でつるりと滑る。
何かに掴まらないと。そう反射的に手を伸ばすも、手は空を切るばかり。
千代の体が傾くと同時に、真っ白な月がその視界を埋めた。
気を失っていたのは、多分ほんの一瞬だ。何かに受け止められた衝撃で、千代は意識を取り戻した。
まだ頭が回るような感覚がして目を開けられなかったが、先ほど声をかけてきた人物が千代を受け止めてくれたようだ。
千代は、相手の顔を見ようと目を開ける。ぐらぐらと不安定な景色は、しばらくしてようやく像を結び始めた。
すると、彼と目が合った。
「…………あ?」
そう言った、青年の瞳は赤かった。




