第十一話 桜草とネグローニ、或は白昼夢(前)
菊野が言うのだから、青木知親様は素敵な殿方に違いないと、千代はそう信じていた。
……しかし、数刻後。
「お。お葉。菊野は、ついて来られないの?」
「菊野にはまた、婚礼の儀が終わった後でお会いできましょう」
祝言の間の前で、白無垢に身を包んだ千代は固まっていた。付き添いはお葉のみで、千代は先ほどからその腕にしがみついている。しかしそれも、お葉の「姫様」という一喝で離さざるをえなかった。
さっきから、心臓がうるさくってしょうがない。できることなら、目の前の襖に一生開いてほしくはなかった。
だが、襖は無情に開く。お葉が部屋の中へと歩みを進めるので、千代も彼女に必死でくっついて行った。
白無垢で視界が遮られているのでまだ良いものの、ふと、視界の端に紋付袴の黒色が映った。心臓の音が、よりいっそう唸りを上げる。
四日前、婿殿は無事にお上へのお目通りを済ませ、日浦家の跡継ぎとして認められたとのこと。
一体なぜ。明重がどんな手を使ったのか、千代にはさっぱり分からなかった。
そんな考えごとで一瞬意識をよそへ向けるも、気がつけば畳に手を付いている。
……頭を、頭を上げてしまえば、ついに顔を合わせることになる。
目が回りそうな気がした。息ができなくて苦しい。
そして、向かいですっと彼の頭が上がる気配がした。
頭を上げなくては、上げなくては。上げなくては……!
千代は手に力を込めて、えいと無理やり頭を上げた。
―――それが、初めてだった。
切れ長の眼も、眉も、鼻筋もすっと通っていて、まるで作り物のようで。彼が瞬き一つする度に、長い睫毛が音を立てるようだった。
こんなに綺麗な人を見たのは、初めてだった。
千代はしばらく、息をすることなど忘れていたように思う。三三九度の盃が運ばれてきて、ようやくはっとした。
祝言の間は驚くほど静かで、ただお神酒が注がれる音だけが響く。
……あまり見ると、失礼かしら。
確かに父は彼のことを美丈夫だと言っていたが、この人を美丈夫だなんて言葉で済ませてよいのだろうか。
いったいどんな声で、どんなことをお話しになるのだろう。
目の前の彼が自身にあの「南游紀行」を贈ったのだと思うと、千代は酒の苦さも分からなかった。
変な心地はずっと続いた。膳立ての時も、色打掛に着替える時も、千代はなんだか一人宙に浮いているようで。
それを覚ましたのは菊野の声だった。
「姫様、姫様? どうなさったのです、ご気分がよろしくないのですか?」
千代ははっとした。気がつけば婚礼の儀が終わっている。
菊野の声を聞いて、お葉もやって来た。
「あら、どうされましたか姫様。お酒がお体に合わなかったのかしら」
「い、いいえ! 平気よ。少し緊張していただけなの」
「左様でございましたか。ですがこの後は奥で婿殿とお休みになられるのですから。上の空でいてはなりませぬよ」
「えっ……」
そうだった。またすぐに、あの人と会わなければならないのだ。
菊野がきゅっと寝間着の腰紐を締めると、寝室への襖が開いた。
……無理だ。どう考えても、無理だ。無理!!
千代が今さら青ざめた顔で振り返っても、すでに後ろの襖は閉められていた。
…………無情にも、夜の闇がやって来る。
*
少し、身構えすぎていたかもしれない。
本ばかり読んでいる奇行の姫だという噂のせいで、つい尋常ならざる様子を想像してしまっていたが……。
千代姫はどこからどう見ても、普通の十七の娘であった。いや、見た目だけではまだ何とも言えないが。
なんだか知親は結婚したということが信じられなかった。今の自分が、もう日浦家の人間なのだということも。
「若様、こちらがお部屋にございます」
案内された中奥にある部屋は、かつての瑞穂城の自室よりも広く、庭に灯る灯篭がよく見えた。知親がよい部屋だと思っていると、小姓は「家督を継がれるまでの仮のお部屋ですが」とあっさり言い放つ。
小姓は江戸家老・久世里進の嫡男、進太郎である。年頃は清と同じか、それより少し上ぐらいだろうか。今日会ったばかりの父親とは、あまり顔つきは似ていない。
長見藩の家老は数年ごとに国許と長見を行き来するため、久世が長見にいたことも今までにはもちろんあったはずなのだが。知親が顔を見る機会は今日までなかった。
知親は少しばかり眠気を覚えた。無理もない、一か月の旅路を終えてすぐに江戸城でのお目見えがあり、今日までは婚礼の儀のために忙しくしていたのだ。
一旦それらが片付いた今、知親は自分の部屋で一息つこうかと思った。
しかし、進太郎は一向に部屋から出る気配がない。
「では参りましょう」
どこに、と聞きかけて、知親は思い出した。
そうだ。婚礼の儀が終わったのだから、今夜は奥に渡らなければいけないのだ。奥は男子禁制、千代姫を主に女中たちが働く女の世界。そこに一人で行かなければならない。
つまり、まだまだ知親は休めそうになかった。
「若様、立川にございます。よろしいでしょうか」
その時、襖の向こうから聞こえてきたのは勘蔵の声だ。知親が「どうぞ」と声をかけると、襖が開く。しかし、現れた勘蔵は何とも言えぬ顔をしていた。
「……若様。あなた様は、もう正式な日浦家の跡継ぎとなられたのです。ですから『どうぞ』などではなく、『入れ』とでも仰ってくださいませ」
「それは、そうですが。しかし」
「いいえ、これは若様の体裁にも関わることにございますよ。今から奥で『若殿』と女中たちに呼ばれた際にも、そのような言葉遣いでお返しになるおつもりで?」
知親は言葉に詰まった。勘蔵の言うことは正しいが、そう言われても長年の癖なので困ってしまう。
前にも似たような会話をしたことを、知親は思い出した。あれは知親が仄火に「畏まる必要はない」と言う側だったが、言われる側になってみるとこうも難しいことだとは。いとも簡単に言葉遣いを変えた仄火が、本当はとんでもないのではと思ってしまう。
「私が参りましたのは、まさにそのためにございます。たとえ他家からの婿養子とあっても、婚礼の儀が終わった以上、若殿は若殿。これから先、決して下手に出てはなりませぬ。表の家臣たちにも、奥の女中たちにも」
「わ、分かっ……た…………」
そう口にするだけでも生きた心地がしなかった。これを久世や、国許の榊原たちに対してもやれと言うのだろうか。
勘蔵は知親のたどたどしい言葉にあまり満足してはいないようだったが、「では、失礼いたします」とその場を下がった。
……婚礼の儀はまだ続いていると言っても過言ではないのだ。それが最後の最後に口調を間違えなどしたら、確かにとんでもないことである。
進太郎に導かれて進む知親は、眠気などどこかに行ってしまうほどに心配であった。




