第十話 それでは新郎の入府です(後)
「姫様に『南游紀行』を。しかしかように珍しきもの、どこで見つけられたので?」
上屋敷の敷地内にある長屋の一角。知親は立川家の敷地に軒を借り、長見にいた時と同等か、それ以上に質素な夕飯を囲んでいる。
「とある知人に譲ってもらったのです。姫様は本がお好きだと聞きましたので」
知人というか、仄火の家で見つけたものだった。清が言うには「良いとこのお嬢さんからの貢ぎ物」らしい。
知親が願い出ると、「清がもう覚えているから」と簡単に譲ってもらえた。もちろん金は取られたが。
「姫様は本がお好きというか……。もはやそれを生き甲斐にされているというか」
勘蔵は味噌汁を一口飲んで、苦笑いを浮かべる。
……あれは、長見を立つ二日前。明重に呼ばれて青龍の話をした時のことだった。
「青龍は殿にご子息がいらっしゃらないので、私に憑くと言ったのですか」
知親が確かめると、明重は頷いた。
「左様。おそらく青龍は、代々日浦家の嫡男に憑いておったのじゃろう。そして常に藩主の器に留まり続けた」
「……なれば他藩の大名家の方を婿に取り、少し様子を見るのは如何でしょうか。青龍も私が藩主にならないと分かれば、その婿殿に憑く先を変えるやもしれませぬ」
きっとその方が、家臣たちも納得するはずだ。
するとしばらくの沈黙の後に、明重は唸った。
「まったくもって、お前の言う通りじゃ。しかし……」
そこで一度言葉を切ったかと思えば、明重はもう一度「しかしなあ……」と繰り返す。
「千代の縁談がな、纏まらんのだ…………」
「…………? そ、れは……」
戸惑う知親に、明重は途端に勢いを取り戻して喋り始める。
「いや、親の目から見てもそれは可愛い娘じゃ。それ故、綾乃が亡くなった後は多少甘やかしすぎてなあ。女中たちにも『千代が望むことはできる限り叶えてやれ』と言うばかりで。そうしたら千代は物語だけでは飽き足らず、国学、朱子学に天文学、果ては洋書まで読み始める始末」
「よ、洋書にございますか……」
知親が絶句するのも無理はない。漢訳された洋書の輸入が許されたのはつい最近のことである。それを小藩の姫が、どこからか取り寄せて読んでいるというのだ。
「小藩は小藩同士で結びつくほかない。しかし数が多い故、長見でなくともいくらでも当てがある。そこに一度『奇行の姫君』などと噂が流れれば……。もう、目も当てられん」
そう言う明重は青龍の話をする時よりもよほど深刻そうで、言葉の節々に苦労と後悔が滲んでいた。
……一体、どんな姫君であろうか。
カチャン、と椀と箸を置いた勘蔵が「それよりも、」と知親を見た。
「まずは明後日のご挨拶です。聞くところによれば、公方様は何より実力を重んじられるお方とのこと。跡継ぎとしてご挨拶されるのですから、今のうちにしっかり体を休められませ」
知親は気が重くなるのを感じた。
まさか自分が江戸城に上り、ひいては将軍と顔を合わせる日が来ようとは。万が一何か失礼があったらと、考えるだけで寒気がする。
*
「姫様。家老の久世様から、こちらが」
千代は急いで、床に置かれた荷を解いた。中にはとっておきの本たち。
千代は、それら一つひとつを手に取って確かめる。
「良かった、全て揃っているわ。久世にありがとうと伝えておいて」
「かしこまりました」
下屋敷から残りの本を運びたい、と千代がお葉に頼んだところ、それらは家老・久世里進によってひっそりと上屋敷まで運び込まれることとなった。婚礼の儀のどさくさにうまく紛れ込ませたのだろう。
久世家は先代の頃に家老となり、久世里進は今、江戸でお勝手方家老を務めている。穏やかな気性と人柄で知られる人物だ。
江戸にいるのが久世で本当に良かった、と千代は目を閉じた。
するとまた、襖が開く。
「姫様宛の荷と聞いて、一体何かと思えば……また本ですか。そうですか」
「菊野!」
千代は慌てて届いた本たちを自身の後ろに隠すも、もう遅かった。
「姫様、婚礼の儀は今夜に! ございますよ!! だというのに、貴女様は……」
うっ、と首を縮めた千代だったが、対照的に菊野の声はみるみる勢いをなくしていく。どうしたのかと、千代は少し焦った様子で彼女に近寄った。
「……菊野? どうしたの?」
「貴女様はこんなにもお優しく聡明であらせられるのに、それがなぜ本がお好きというだけで縁談を断られてしまうのかと……。菊野は、自分事のように悔しゅうございました」
菊野は潤んだ瞳を隠すように俯き、呟いた。
菊野は千代の三つ上で、物心ついた時から傍にいた。だが、いつも気丈な彼女のこんな表情を、千代はこの時初めて見た。
「ようやく縁談がまとまったと思えば、相手がご家来の次男と聞いて、あと少しで私は無謀にも殿に申し立てに参るところでありました。ですが……」
菊野の目からは今にも涙が溢れそうだった。それがなんだか堪らなく悲しくて、千代はずっと見つめていた。
「……ですが、青木様が姫様に本を贈られたと聞き、本当に嬉しゅうございました。皆が貴女様を咎める中で、本を贈る殿方がいらっしゃるということが。姫様がそのお方と添い遂げられるということが……」
そして一粒、涙が落ちた。しかし菊野は微笑んでいた。幸せそうに、安堵したように。
「改めまして、ご結婚おめでとうございます、姫様」
「菊野……」
その時、上屋敷に声が響いた。
「婿殿、お着きーーー! お着きーーー!!」
千代は、心臓が大きな音を立てるのを聞いた。さっきまで菊野につられて零れそうになっていた涙は、一瞬にしてどこかに行ってしまう。
彼はここに来たのだ。もう、すぐそこに。
かと思えば、千代の両肩がしっかりと掴まれる。そこには一転していつも通りの菊野がいた。
「さ、こうしてはいられません。急いでご支度を! まずは白無垢ですわね、こちらのお部屋に!」
菊野は立ち上がり、てきぱきと準備に取り掛かる。隣の部屋へと向かう菊野に、千代も慌てて続いた。
そして、その後ろ姿にそっと囁く。
「ありがとう菊野、大好きよ」
菊野がそう言うのだから、きっと間違いない。
きっとまだ見ぬ婿殿は、素敵な殿方に違いない。
千代はそう信じて、部屋に足を踏み入れた。




